2024年12月8日、東京大学駒場キャンパス18号館ホールにおいて、シンポジウム「芸術制作とリズム──千葉雅也『センスの哲学』から出発して」が開催された。本シンポジウムは、2024年に刊行された千葉雅也氏の著書『センスの哲学』(文藝春秋)を契機として企画されたものであり、科学研究費補助金・基盤研究(B)「「一般リズム学」を地平とする統合的思想史の構築」を主催、東京大学東アジア藝文書院(EAA)、東京大学表象文化論研究室を共催として実施された。千葉氏に加えて、池田剛介氏、大山エンリコイサム氏、津田道子氏という3名のアーティストを登壇者として招いた本シンポジウムでは、リズムと芸術制作/鑑賞の関係をめぐる多様な問題が論じられることとなった。
まずは、「一般リズム学」をテーマとする基盤研究(B)の研究代表者を務める中島隆博氏による開会挨拶において、「一般リズム学」というアプローチの概略が紹介され、司会の星野太氏から本シンポジウムの趣旨説明が行われたのち、千葉氏の基調講演がなされた。
千葉氏の講演は、『センスの哲学』におけるリズムの位置づけをあらためて確認するところから始められた。それにしたがえばリズムとは、「多次元にまたがる凸凹」である。意味や目的、機能性といった道具性の連関から引き下がって、ものごとを即物的に=リズムとして捉えることが「センスの零度」であり、その次元へと誘うことが『センスの哲学』の眼目の一つであったという。このような抽象的なしかたで理解されるリズムの概念は、時間的な展開を備えるものにかぎらず、空間的なものも含めた広範な対象の経験を考える視座を与えうるものである。話題が転じられた後半では、自身が小説執筆の準備としてかつて行っていた、MaxやPythonといったプログラミング言語を用いた、ランダムなしかたで言語を生成する実験的試みの紹介を交えつつ、生成AIにおける特異な意味のありようが指摘された。千葉氏によれば、生成AIの自然言語処理においては、膨大な用例のうちで言葉がたんなる距離や強度の差異として意味が定義されており、いわば「意味の脱意味化」が生じているのである。最終的には、「一般リズムとは、多次元にまたがる凸凹、すなわち強度の差異であり、そこから意味が発生する意味以前のもの自体である」というテーゼが提示され、締め括られた。
池田氏の講演では、リズムという切り口から芸術作品、とりわけ造形芸術をいかに見ることができるかが具体的な作品分析を通じて示された。まず、パウル・クレーの絵画《蛾の踊り》が取り上げられ、そこで線描と色彩がそれぞれ固有のリズムを保ちつつも重なり合うさまが、制作プロセスやクレー自身のテクストにも目配せしつつ、明らかにされた。こうした複数の形態が持つリズム同士の相互干渉はまた、千葉氏のドローイング《Not Not》における線描とマスキングテープの関係や、ロバート・ラウシェンバーグの《冬のプール》における絵画と梯子の関係のうちに見出しうるという。さらに、「一人暮らしの狭い部屋は、ラウシェンバーグの画面に似ている」という『センスの哲学』の末尾に記された印象的な一文を手がかりに、千葉氏とラウシェンバーグの作品に共通する特徴として、閉じられた空間でありながら、独自の広がりへと通じていることが指摘された。レオ・スタインバーグの議論を補助線に引きつつ、ラウシェンバーグにおいてその広がりを媒介する役割を果たしたのがラジオであったとすれば、千葉氏の場合、それに相当するのはダイヤルアップ接続による黎明期のインターネットであろうという解釈が提出された。
大山氏の講演は、ストリートアートの一領域である「エアロゾル・ライティング」を再解釈した自作やストリートアートの歴史を、リズムという視点から捉え返すものであった。大山氏によれば、現実の自己とは異なる「アルターエゴ」の名前を街中にかくものとして、1970年代のニューヨークで始まったストリートアートは、文字の形体が持つリズムとともに、電車の側面などにかかれることで都市を移動し、出現と消失を反復することでダイナミックなリズムを生み出していた。こうした文脈から出発しながら、エアロゾル・ライティングの線の形体や動きそのものを抽象的な形体へと再構成することで、文字や名前が持つ意味の伝達という範疇から解き放とうとする試みが、大山氏のシグネチャーとして知られる「クイックターン・ストラクチャー」である。キャンバスや壁画、ファウンドオブジェクトなど、多岐にわたるメディアで横断的に展開されるクイックターン・ストラクチャーは、支持体や制作環境といったその都度の個別的な差異によって変化を被りつつ反復されるものであるという。リズムと造形の関係が論じられた終盤では、造形そのものは無時間的であり、鑑賞によってはじめて時間性ないしリズムが発生するのではないかという指摘がなされた。
津田氏の講演は、リズム、とりわけ『センスの哲学』で言及されている「いないないばあ」という言葉を導きの糸として、これまで自身が制作してきた作品を振り返るものであった。複数の鏡の間を移動する二人の人物が画面上から現れては消える映像作品《配置の森の住人と王様》や、鏡やモニターがはめ込まれた多数の枠が吊り下げられたインスタレーション《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》の記録映像を実際に見せながら示されたように、津田氏の作品では、見える/見えない、存在/不在の切り替わりがリズムを作り出し、鑑賞者のさらなる認知や運動を呼び起こすという仕掛けがほどこされている。また津田氏によれば、こうした作品においては、演者・鑑賞者の身体性や展示空間がもともと備える空間性といった諸条件に起因するような、作り手が意図せざる偶然性が介入する余地が残されている点も重要であったという。さらに、小津安二郎監督の映画に登場する人物の振る舞いをある種のダンスとして解釈し、それを再演した自身のパフォーマンス作品を紹介しながら、自身が関心を寄せる「動きとダンスの間」というテーマは、リズムの問題と結びつけて考えられるかもしれないと述べられた。
小休憩を挟んだのち、登壇者4名と星野氏によるディスカッションが行われた。まず千葉氏からは、各発表を経て浮上してきた論点として、人は何を面白いと感じるのかという問題と、署名や自画像、あるいはドッペルゲンガーという主題系の2点が挙げられた。池田氏は、オン・オフといったリズムの変化が人の注意を引きつけるとしたうえで、現代のアテンションエコノミーによって駆動されるリズムからは逸脱していくようなリズムへと目を向けることに、芸術作品を見ることの一つの意義があると指摘された。大山氏は、自身の「クイックターン・ストラクチャー」を、ペルソナを抜き去りつつその骨格は残すという「のっぺらぼう」的なものとして言い換えつつ、それがドッペルゲンガーと対称をなしていると語った。津田氏は、「自分のことを誰も見たことがない」という自らの制作の中心にあった問いが、ドッペルゲンガーというテーマと交差する可能性について述べられた。さらに、中島氏から投げかけられた「偶然性にはほどがあるのか」という問いに対しては、リズムは偶然性の激化とその引き留めに関わるのではないかという応答が千葉氏からなされた。
残りの時間ではフロアからの質疑がなされ、生成AIによるエリーティズムへの抵抗の可能性、リズムと政治的なものの関わり、共同制作におけるリズムのあり方といった点へ質問が及んだ。本報告でそこでのやりとりを網羅的に振り返ることはできないが、リズムは、ともすればたんに口当たりのよい理念へと骨抜きにされかねず、それゆえあくまで個別具体的な論点や制作のうちで立ち起こされねばならないことがあらためて確認されたことは言い添えておきたい。
『センスの哲学』において「リズム」は、「センスとは何か」という狭い意味での美学的な問いのみならず、「いかにセンスを高めうるのか」という観賞/制作に関わる実践的な問いにまで射程を広げるものとして提示されていたが、本シンポジウムは、まさしくそうした実践的なポテンシャルを含めた、リズムという概念が秘める豊かな内実にさまざまな角度から光を与えるものであったと言えるだろう。
報告:乙幡亮(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)