2024年11月23日(土)に、第38回東アジア仏典講読会をハイブリッド形式で開催した。今回は、佐久間祐惟氏(東京大学助教)と小川隆氏(駒澤大学教授)が発表を行った。当日の参加者は、対面で14名、オンラインで延べ25名であった。
佐久間氏は、これまでの講読の続きとして、「資度第三」の後半部分を取り上げた。この部分では、戒、忍(忍辱)、進(精進)、禅(禅定)波羅蜜の例として、仰山慧寂や石室善道などの受戒、達磨や雲門文偃、永明延寿などの求法と修行が記されている。また、進波羅蜜保寧仁勇に関する「堂儀纔満即抽單」について、『禅苑清規』の「百丈規繩頌」や「掛塔」を参照した。清規によると、夏安居が終わらないうちに急用で寺を離れる場合、半月を限度に一時的に外出することが許されていたため、保寧仁勇が九旬安居後に僧堂を離れたのはこの解釈に基づいている。
小川氏は、『大慧普覚禅師宗門武庫』20、首山省念(926-993)の法嗣である慈照(965-1032)の項目「慈照蘊聡」を講読した。慈照は、襄州(現在の湖北省襄陽市)の知事に笞で辱められた後、寺に戻り、首座や門下の僧たちに迎えられた際、地面を指して「平地に小山を起こす」と言った。すると、地面に土が盛り上がり山ができた。知事がその話を聞いて土を削らせたところ、土は再び盛り上がり、元に戻った。その後、知事の一家は皆、この地で死んでしまったという話である。小川氏の考察によると、この記述には史実的な信憑性は欠けるものの、慈照が知事の迫害を受けた事件は、「舜老夫」こと雲居暁舜(『武庫』5)が南康郡守「槐都官」の「私忿」によって還俗させられたという話とともに、宋代の禅門で広く知られていたとされている。
禅宗についてまったくの門外漢の感想であるが、日本の戦国時代の臨済宗妙心寺派に関しては、これまで権力者との協力的な側面に焦点を当てた研究が行われてきた。しかし最近では、禅僧が主人の死を「天罰」と表現するなど、権力者に仕えることが本心ではない一面も解明されつつある。慈照や雲居暁舜に関するエピソードの語り方は、権力者との付き合い方に関する中国禅僧の心境を読み取る一つの事例として、興味深いものと言える。
文責:黄霄龍(EAA特任研究員)