2024年10月9日(水)、カナダ・ケベック州シェルブルック大学のダヴィド・クサンス教授(法学、宗教・ライシテ研究)によるセミナー「ナショナリスティックなライシテの台頭——ケベックとフランスを比較する」が開催された。
ライシテは、宗教の自由を保障し、宗教的多元性を承認する自由民主主義的な社会の法的原則であるはずのものである。しかし、近年では移民とりわけムスリム移民の増大が、フランスでは1960年代頃、ケベックでは1990年代以降目立ち、このままでは西洋がイスラーム化してしまうといった「大置換」をまことしやかに唱え、人びとの恐怖を煽る言説が影響力を持つなかで、ライシテのあり方が変貌している。クサンス氏はそうしたライシテを、ナショナリスティックなライシテととらえる見方を提示した。
(ダヴィド・クサンス氏)
クサンス氏はまず、フランスでのライシテをめぐる近年の議論が宗教的シンボルの可視性に焦点が当たっていることを指摘した。イスラームのヴェールは、それを公的施設や公共空間から排除しようとする傾向が繰り返し見られる。一方、キリスト生誕の模型は、国務院によって宗教と文化が混ざり合ったシンボルとされ、公的施設への設置の可否は、ケースバイケースとなっている。イスラームとカトリックに向き合うライシテの対応に差異が見られることから、クサンス氏は、ナショナリスティックなライシテに、共和主義的なものと文明主義的なものがあると類型化した。
「共和主義的なナショナリスティックなライシテ」(laïcité nationaliste républicaine)とは、啓蒙主義に由来する合理主義的で宗教からの解放をもたらす近代の理念によってライシテの強化を図ろうとするもので、フランスの市民権の普遍性を強調し、個人の属性の差異を不可視化する同化主義的な傾向によって特徴づけられる。一方、「文明主義的なナショナリスティックなライシテ」(laïcité nationaliste civilisationnelle)とは、フランスのネイションの想像力のなかにマジョリティの宗教であるユダヤ=キリスト教的な伝統を再び組み入れようとするもので、共和国の普遍主義の理念から逸脱した差異主義的な傾向が見られる。フランスのネイション概念が、イスラームに対峙することで、ユダヤ=キリスト教的なものにいわば「再エスニック化」され、にもかかわらず「普遍化可能なもの」として提示されているとクサンス氏は分析した。
そのうえでクサンス氏は、このようなナショナリスティックなライシテの2つの類型が、ケベック社会でも見られるのではないかと論じた。2006年から翌年にかけての「妥当な調整をめぐる危機」では、ジェラール・ブシャールとチャールズ・テイラーが宗教的マイノリティを対象とした調整は個々人の状況に応じてなされるものであって、ケベック社会の基本的原則を脅かすものではないと強調した一方で、州議会の議長席の上にある十字架像は撤去するべきであると勧告した。ここにあるのは、宗教的多元性を保障するライシテの考え方である。しかし、政権与党の自由党は、十字架像はケベックの歴史的遺産を象徴するものであるとして、これを撤去することはなかった。一方、2013年の60号法案によってケベック党は、公務員のヴェールを規制しようとする一方で、カトリックのシンボルは維持しようとした。2019年のライシテ法は、州議会の議長席の上から十字架像を撤去したが、別室で展示されているという。このような二重基準には「共和主義的なナショナリスティックなライシテ」と「文明主義的なナショナリスティックなライシテ」の両方が顔を覗かせている。クサンス氏は、フランスおよびケベック社会を賑わせているライシテ問題の多くは、政治家やメディアによって作られたものであると指摘し、その点を批判的にとらえる視点の重要性を強調した。
(司会の伊達氏)
会場からは、なぜケベックのライシテ化には時間がかかったのか、なぜ「妥当な調整をめぐる危機」はシーク教徒のキルパンからはじまったはずなのにイスラームのヴェールへと話題が移っていったのか、ケベックでは個人レベルの宗教は規制されるのに集合体レベルの宗教は価値化されているのではないか、などの質問が上がり、活発な議論が交わされた。
報告:伊達聖伸(東京大学)
写真:張政婷(EAA特任研究員)