2024年8月22日から24日まで、台湾高雄の国立中山大学で開催された「天下秩序と共生哲学」シンポジウムに参加してきた。主催は中山大学文学院で、中心となったのは「トランスカルチュラル漢学の島」プロジェクトの頼錫三氏、マーク・マコナギー氏であった。東アジア藝文書院も主催団体に名を連ね、石井剛氏、張政遠氏と私が参加した。
テーマの「天下秩序と共生哲学」のうち、「共生哲学」については、私の贅言は不要だろう。一言だけ述べるならば、今回の会議は、今年3月にバーグルエン中国センター主催、EAA共催で駒場キャンパスにおいて開催された「共生会議」を引き継ぐものであり、これまで各地でなされてきた活動を踏まえて、更なる展開をはかるものであった。今回の会議には「共生」の概念を東アジアの現場、とくに高雄という場において考える意味があった。高雄は台湾の最南端に位置する港町であり、現在の東アジアの政治秩序からみれば周縁であるが、だからこそ「共生」のような、一見迂遠なもののじつは根源に触れる概念を思考するのにふさわしい場であったと思われる。
もう一つのテーマである「天下秩序」には説明が必要であろう。中国古代の哲学にヒントを得た考え方で、国民国家を単位とした近代の世界秩序において戦乱が絶えず、とくに近年世界の混乱が深まっていることへの一つの応答として、国民国家を超えた「天下」を思考しようとするものである。より理想的な世界秩序を思考するものだと言えなくもない。しかし容易に見て取れるように、中国大陸の学者がそれを提起すると、かつての朝貢体制のような中国を中心とした世界秩序の再興ではないかという不安が引き起こされ、とくに現実世界において中国が大国化しつつある政治情勢と結びつけて受け取られがちである。すなわち「天下秩序」は、そのままでは「共生哲学」と合わせることが難しい概念である。
今回の会議の特徴は、「天下秩序」と「共生哲学」という、相反するとすら感じられる概念をあえて衝突させ、二つの概念のぶつかり合いの中から、新たな思考の可能性を生み出そうとしたところにあった。いうなれば、この会議においては、完成された概念として「天下」あるいは「共生」を語ったのではなかった。「共生」の視角を導入することによって「天下」の概念を動揺させ、新たな方向性を生み出し、そして「天下」の可能性を参照することによって、「共生」をより具体的な場に落とし込むことが試みられたと言えるだろう。
そのような大枠のもと、会議では多彩な議論がなされた。以下では印象に残ったことを三点のみ紹介したい。第一に、中国大陸で「天下」を提起している代表的な学者である趙汀陽氏と許紀霖氏が参加した。残念ながらオンライン参加とならざるを得なかったが、主たる提唱者である彼らと直接的に議論できたことで、「天下」概念の内実を豊かにしようとする方向が明確に示された。私個人としても、趙汀陽氏と言葉を交わすことで、書物だけを読んでいたときとは明確に異なる感覚を持つことができた。人間が集まって言葉を交わすという会議の醍醐味を感じさせるものであった。
第二に、道家の思想、とくに荘子の思想が論じられた。「天下」の概念は、提唱者の趙汀陽氏と許紀霖氏に特徴的であるが、儒家思想を基本として考えられることが多かった。それに対して、複数の論者が荘子の「斉物論」に触れ、儒家思想とは異なる思想を「天下」から展開しようと試みた。それは主として統治の秩序として考えられてきた「天下」を、「共生」の哲学に開こうとする試みだと思われる。もとより「天下」の思想は、近年語られている「天下秩序」に収斂するものではなく、むしろ中国哲学の研究において多くの蓄積がある。これまで「天下秩序」とは離れたところでなされてきた哲学研究を踏まえて、「天下」の現代的な可能性についての新たな議論が展開されたと言えるだろう。
第三に、哲学のみならず、歴史的分析や、人類学的探究、さらには戦争理論など、さまざまな領域からの議論がなされた。それは今回議論された「天下」が、哲学的な思考であると同時に、現実に関わる思索であることの現れである。直接的に現実政治を語った人は誰一人いなかったにも関わらず、誰もが昨今の世界情勢を踏まえて、現実に対する強い危機感を前提にして議論を展開した。だからこそ、脱領域的な議論であったものの、かみ合わない議論の応酬や、抽象的な思考のゲームに陥ることはなく、現実に拮抗するだけの強度を持った思考が展開された。思弁的であって同時に現実的でもあり、ある種の強度のある議論をすること、おそらくそれが哲学、とくに「共生哲学」の真髄なのだと感得することができた。
中山大学は美しいキャンパスを持っている。会場となった文学院の建物は豊かな自然が残る山の中腹にあり、ときには猿に遭遇することもあるという。また山を下りると砂浜があり、会議の初日には、まるでリゾートのようなビーチで夕陽を見ながら語り合った。この会議では、「共生」というとき、人間と人間の共生のみならず、人間と人間ならざるもの、あるいは人間と自然の共生を考えることが提起された。まさにそのような意味で「共生」を実践するにふさわしい場であったと言うべきである。最後になったが、そのような美しいキャンパスで、参加者すべてに満足を与える充実した議論の場を作り、一糸乱れぬ見事な運営をしてくれた中山大学のすべてのスタッフに、心から感謝を述べたい。
鈴木将久(人文社会系研究科教授)