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2024.07.24

【報告】2024 Sセメスター 第13回学術フロンティア講義

2024年712日(金)、EAA主催の学術フロンティア講義「30年後の世界へ――ポスト2050を希望に変える」の第13回が駒場キャンパスの18号館ホールで行われた。石井剛氏(EAA院長)が「希望のロゴス——危機における「生」について人類の智慧が教えてくれること」と題して最終回の講義を行った。

どのように人間であるべきでしょうかという問いから、石井剛氏は講義を始めた。人間になるための条件として考えられるのは、技術である。しかし、技術が発達すれば発達するほど、人間は外部に依存するようになってしまう。それはハイデガーの「技術への問い」ですでに批判されている。つまり、技術を道具として操ろうという意志に固執することは、技術の本質の傍らを彷徨うのである。

技術の本質を開示して人間復興を追求するには、中国哲学が役にたつと、石井剛氏は考えた。ロゴスという概念は、中国語で「道」と訳されているが、中国哲学の「道」に関わる存在論は、終末論ではなく、未来性を有している。例えば陰陽五行の理論によれば、人間は五行の流れの中で、常に生成変化をしており、道を歩いている。儒家の思想でも、孔子が「未知生、焉知死」というように、自身の有限性を受け入れつつ、有意義の生命を充実させることが主旨とされている。これに基づけば、存在の不安定性と表裏一体となる技術以外に、別の技術の可能性が考えられる。『荘子』にある庖丁や機心、渾沌に関する三つの物語には、技術を道具とするのではなく、自らの天理への適応力とするという考えが提示されている。

最後に、石井氏は最初の問いに答えを出した。生を養いながら、他者と互いに理解を深め、他者とともに変容していく、そして自らが生成変化をしていくと。

報告・写真:林子微(EAA リサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)今回の話を聞いて法学の授業で取り上げられた「人の定義」という問題を思い出しました。人が人であることを認められないといけないということももちろん、人間とは何を持って初めて人になり、「人」を対象とする法は具体的に何を対象とするか、子供や精神疾患の方、脳死の方は人であるか、というような問題はあります。こう言った方から見た「人」と哲学から見た「人」の違いというのは一体なんだろうと考える機会になりました。さらに、「人」を研究して定義をすること自体は大学の中であるいは社会の中では大事なことだと思いますが、ものを名付けることによってそのものの基準を作ることになるのではないかとも思います。「人」という人間の基準を作るのも文脈によって絶対良いことではないかもしれません。(教養学部後期課程・3年)

(2)確かにロゴスは道かもしれないし、そうであってほしい。(イデアは困る。)その地上の道を、危機の時代に誰が作るのだろうか。リーダー?先駆者?フロンティア?それらしい言葉が色々思い浮かぶ。ただ、どこもこれも現代社会において称賛される概念であることからして何か怪しい。実際のところ、多分違うのだろう。少なくとも一人の英雄ではない。というのも、先頭に立つ英雄に後ろを振り返る余裕はなく、道が出来たことを知り得ない。彼が先頭を歩いたのは間違いないが、道を作ったわけではない。やはり道は複数の人たち、いろいろな背景を持った人たち、もっと言えば皆が共同して作り上げるものなのだろう。しかも、ゆっくりと。危機という言葉はどうしても我々に焦りの感情を促すが、急ごしらえで道は出来ない。焦らず道を貼り巡らし、問題があれば少し引き返して他の道を選べるようにする。「これしかない」という英雄の一本道が必ず破綻したということは歴史を見ればすぐわかる。さて、問題は、この網の目の道をどうやって俯瞰し把握するかだ。誰が地図を作るか。この地図は範囲が広いのはもちろんのこと、毎日更新される上、履歴が重要なので、その作成は間違いなく大事業になる。私の(長年の?)考えでは、それが大学に他ならない。(教養学部後期課程・3年)