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2024.05.13

【報告】2024 Sセメスター 第4回学術フロンティア講義

2024年5月3日(金)、EAAの主催で学術フロンティア講義「30年後の世界へーーポスト2050を希望に変える」が駒場キャンパス18号館ホールで開催された。第4回となる今日は、宗教学・フランス地域研究を専門とする伊達聖伸氏(東京大学)が「100年前の日仏交流と平和思想――「気象台」としての宗教学」と題した講義を行った。

副題にある「気象台」としての宗教学とは、東京大学の宗教学講座初代教授である姉崎正治の言葉である。姉崎によると、学問には、軍隊のように統制が取られた「参謀本部」の学問と、周囲の移り変わりを観察し、それに柔軟に対応する「気象台」の学問がある。そして彼は自身の宗教学を後者に喩え、雲行きを見ながら争いごとを避けるにはどうすればよいかという問いを追究する。

ちょうど100年前、第一次世界大戦を経験したヨーロッパでは、争いを繰り返さないための新たな世界秩序と平和思想が打ち立てられようとしていた。文化や学問を通した日仏交流が促進されたのはこの頃であり、フランスとの接点ももっていた姉崎は、ルイ・パストゥールやポール・クローデル、マルセル・モースの言葉や思想に触れながら時代の「ロゴスの複雑化」に向き合った。

伊達氏の講義は、姉崎の学問的問いから日仏の文化・学術交流を経て、国際連盟・国際連合の問題、そして日本国憲法へとつながっていく。今日、平和を実現することは極めて難しいように思われるかもしれない。講義の終盤で、伊達氏はカントの『永久平和のために』や柄谷行人の憲法論に言及しながら、姉崎が見出した(権力にものを言わせる強者ではなく)「新しい行為者としての弱者」の平和へと向かう力の可能性を示した。

今日繰り広げられる戦争の惨禍を前に、わたしたちには何ができるだろうか。100年前の平和思想を通して、今日、さらには先の世界の平和についての学術的かつアクチュアルな思案が促される、憲法記念日にふさわしい講義の場となった。

 

報告・写真:白尾安紗美(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)弱者が自分の品格を自覚することで、その力を発揮する、という姉崎教授の考えは非常に示唆に富んでいると感じた。その上で、教授はどんな方法で自ら覚るに導くことを考えていたのか気になった。「弱者である」と自覚すること自体が、力を削ぐものである場合もある。(最近柳田國男の『都市と農村』を読んでいて、農村衰微を唱えるのが慈悲心に富んだ明察のように扱われているのはおかしい、病んでいる人に向かって病んでいるとはっきり伝えるのは忌まれるのに、といった内容に触れて新鮮に感じた。)強者の定義をどこにおくか、によるとは思うが、風を受け流す柳のしたたかさを我が物としよう、といった意味合いであろうか。
9条が純粋贈与としての機能を十全に果たすには、国民が誇りを持っているという状況が必要なのではないか。自分自身について考えてみたときに、憲法9条の理念自体は自信を持って良いもの、残し伝えていくべきものというふうに言うことができると思う。初等教育において初めて憲法の三つの柱について学習したとき、これがある国で良かった!ラッキー!とかなり素直に感じた覚えがある。しかし、憲法9条が現実の中で、どのようなシステムに基づいて存在しているのかについて知識が増えていくにつれ、ただ賞賛するだけでは済まないと思うようになった。他力によって安全保障の問題を直視せずとも済む状態を仮構しているのみである、とも捉えられる。特に解釈によってギリギリ成立する合憲状態のあやうさを理由にズレを解消するための改憲が論じられているような現状では、個人的にはまっすぐに憲法9条があるからすばらしい、とは言えない。理念はよいのだけれど。
米国との間の軍備的関係をなくしていくことは考えにくいが、この状態でも誇りを持つことは出来るだろうか。防衛費縮小などの、政治方針として憲法の理念を体現していく意向を示す、眼に見えるアクションが必要なのではないか。防衛関連の諸事情は外交のロジックに呑み込まれているように傍目には見える。そもそも独立しているものではないはずなのだが、舵取りの難しさ、という言葉で片付けてはいけない問題が存在するように思う。(教養学部・2年)

(2)国際連盟、国際連合の話から、弱肉強食の価値観よりも、相互補助のほうが豊かな精神を得られるという思考に共感した。現実としては機能しているか怪しい理想論かもしれないが、学問においては実行可能性というものさしだけでは測っていけない価値があると考えたからだ。たかだか20年生きてきた身分でこんなことをいうのは申し訳ないのだが、少なくとも今現在の時点では、私は学び研究するということは、自己の立場を明確にし、己の精神世界を論理的に構築し続ける営みと考えている。このような営みにおいて、自己特有の理想に至ることそのものに意味があり、それが即時に実行に移しがたいものだったとしても、自分なりに論理を体系化して至ったということそのものが尊いし、「じぶんごと」として捉えたい(第二回講義より)。しかし、ここで一つの疑問がある。このような理想論を構築する人がいる同じ世界で、相反する価値観を構築したり、そもそも好奇心に従う余裕のない環境に置かれた人もいる。そして、相互補助の理論からはいささか有り余った精神的余裕を感じてしまう。目の前の生活に一生懸命な人たちに、この理論は響くのだろうか。そのような人たちと、共同の社会で共存するにはどうすればいいか、という問いを考えた時尊重という安直な言葉で済ますには惜しい。これからの人生で、自分なりに理論を構築するという営みをもって考えていきたい。含蓄に富んだ講義をありがとうございました。(教養学部・2年)