2024年3月1日、第13回 EAA「民俗学×哲学」研究会が開かれた。関西学院大学教授で、同大学災害復興制度研究所所長の山泰幸氏が「故郷被災と風土復興―能登半島地震の被災地から考える」と題してまず報告をした。
山氏は、本年元日に発生した能登半島地震に関し、1月4日に志賀町を、2月24日から28日まで輪島、珠洲、内灘を訪問した際の被災地の写真を示しながら話した。海底隆起のため港が使えなくなり、そのように自然環境が変わると、産品の仕入れなど社会経済システム全体が変えられてしまうことが指摘された。報告のキーワードである故郷と風土について、災害は多くが過疎地域を襲い、過疎と合わせて二重の災害となる、都市に出た人にとってはそうした地域は故郷であり、そこが被災すると傷となり、また元日の被災であったため帰省した故郷で被災した人も多かったとされた。都市開発的な復興では、被災者はむしろ追い出されてしまうとされ、人間の復興を、自然ではなく風土の復興としてとらえるべきことが言われた。また、象徴的復興ということが説かれ、復興を実感するためには、例えば祭りが重要であり、地域アイデンティティや心の拠り所の復興の核心の一つとなるから、儀礼としての祭りのデザインが重要になってくるとされた。「一人の心は表されなくても、コミュニティの心は表現できる」というのは印象的だった。もはや災害共生社会となるべき時代が来ており、復興半ばで重ねての被災があり、さらに復興を続けなくてはいけないときにきていると締めくくられた。
続いて総合文化研究科の張政遠氏が「能登の風土―西田幾多郎と西谷啓治」と題して報告した。風土という言葉の外国語訳について触れ、英語でclimateとするのは問題で、オギュスタン・ベルクの用いたフランス語milieuとか、張氏本人はフランス語terroirを、さらにはスペイン語terruñoを用いたいとした。terruñoにはふるさとの含意もあるという。現石川県かほく市出身の西田幾多郎に関して、家族関係とその憂鬱、学校時代と煩悶、就職活動、離郷について話された。「人はその本を忘れてはならぬといふことは冷なる義務ではなくして、寧ろ人間自然の誠である」との西田の言葉が紹介された。次いで、現能登町生まれの西谷啓治について、同郷の西田とのエピソードにも触れながら、西谷の故郷のイメージは、古代の風光の跡を残しているとかいう風に、西田と比べてポジティブであると指摘された。最後に、風土の衰弱性が言われ、故郷喪失の危機と風土の再生の必要性が説かれた。
報告の後の質疑応答も活発で、報告者からは教育的風土としての西田の幼年時代について聞いた。張氏は、明治三年生まれの西田では、ヨーロッパの教養を学び始めたことと、幼年期に受けた漢学の学習との間に葛藤があったとし、また西田の故郷では彼の葛藤や落伍については語りたがらず、あたかも完璧だった人のようにしたがるが、しかし西田を人間として扱う必要があるとした。山氏は、輪島塗などブランド化されているところでは復興が早いとしたが、ではブランド化ができていないところではどうなるかと質問があった。そうしたところでは、潜在的に孤立していて外部とのつながりがない。だいたいは、なし崩し的に消滅へと向かってしまうが、その地をどうしていくべきか話し合うべき場が大事であり、災害をきっかけに議論が起きることもあるかもしれないとした。今回のキーワードの風土と故郷は、重なり合うようであり、しかしイコールではないようにも見受けられるとの質問もあった。それに対しては、風土の方が広いというか、開放性があり、故郷には必ずしも開放性、流動性が備わってはいないとされた。そのため、風土を扱うにはいわゆる頂点思想家的なものだけではなく、民俗を掬い上げる必要があると張氏はした。また、故郷が被災したと言い換えることで気持ちをつなぎとめることができ、言葉での貢献を目指す学問として戦略的に言い換えていると山氏はした。最後に、故郷への想像力というのが、必ずしもいい方向には働かないということが言われた。現今のパレスチナの状況はまさにそうであるし、また東アジアでは故郷ということが抵抗の力になったとされ、台湾の事例について触れられた。
能登の話題から始まって、最後は東アジア、世界にまで話が広がった今回の研究会であった。いつかは能登へのフィールドワークをとの話も出たが、実現を期待したい。
報告者:高原智史(総合文化研究科博士課程)
写真:チャンチェンティン(EAA学術専門職員)