2024年2月21日、東京大学駒場キャンパス101号館11号室で、フランスの宗教学者ヴァレンティーヌ・ズュベール氏(パリ高等研究実習院教授)を囲んだ「若手研究者セミナー」が開催された。伊達聖伸氏(東京大学総合文化研究科教授)を司会に、和田萌氏(東北大学大学院国際文化研究科助教)、筆者の田中浩喜(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)、白尾安紗美氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)が順に発表し、それらにズュベール氏が応答するという内容である。研究会はすべてフランス語で行われた。
和田氏は「ポスト世俗化社会におけるライシテ国家の戦略」と題した発表を行った。フランスはたしかに、宗教を持たないと自認する人びとの割合が増えており、世俗化の過程を辿っている。だが同時に、とりわけムスリムのあいだでは宗教がアイデンティティの源泉とみなされており、これがハラールなどをめぐる社会的な議論を呼んでいる側面もある。和田氏によると、この「ポスト世俗」状況のなかで共和国はライシテを国民的アイデンティティにして、スカーフを禁止する一連の権威主義的な宗教政策を正当化している。和田氏が注目するのは、とくに2010年代以降のフランスでは、イスラーム「過激派」による度重なるテロを受けて、ライシテが安全保障との関わりのなかで論じられるようになっていることである。和田氏はこれをライシテの「安全保障化」と呼び、現在の共和国では非常事態の常態化が起きることで、安全保障の名のもとにさまざまな自由の制限が正当化される事態が起きているとする。だが同時に、国際関係の観点に立てば、フランスのライシテも一枚岩でないことがわかる。和田氏によると、フランスでは宗教の監督を担う内務省が権威主義的な宗教政策を推し進めているのに対して、国外の反応に敏感な外務省にはむしろ宗教間対話を尊重する動きがあり、ここには平和と対話を重視するライシテを見出すことができるという。
この発表を受けて、ズュベール氏は外国人研究者の視点からライシテの新しい側面に光を当てた和田氏を高く評価し、研究をさらに前進させるためのいくつかのコメントを提示した。なお、和田氏は現在、パリの高等研究実習院に客員研究員として在籍しており、ズュベール氏はその受入教員を務めているという背景がある。ひとつは、歴史の観点を導入することである。たしかに近年では権威主義的なライシテが前景化しているが、公権力が宗教を管理しようとする姿勢は絶対王政以降のフランス史に広く見出せる。たとえばナポレオン体制期には積極的な宗教管理政策が敷かれた。その意味で、自由主義的なライシテを法制化した1905年法は、フランス近代史の例外とみることもできるという。もうひとつは、省庁間のミクロな政治に注意を払うことである。ズュベール氏は、省庁間のライシテ理解の違いに注目する視座は斬新で興味深いとしたうえで、各省庁で宗教問題に携わるスタッフは少なく、人事異動によって方針が変化することもありうることに注意を促した。また、ズュベール氏によると、外向きに発信している情報と実際に行われている政策には齟齬があることもあり、言われていることではなく行われていることを観察する必要があるという。
田中は「宮沢俊義――日本のライシテの最初の理論家?」と題した発表を行った。宮沢はその「八月革命説」で知られているが、ライシテという言葉を極めて早い段階で日本に紹介した人物でもある。宮沢がライシテという言葉を使い始めるのは1950年代以降である。宮沢はライシテを厳格な政教分離と理解し、それは日本国憲法にも見出すことができると論じた。宮沢は一貫して、民主主義は相対主義的世界観の上に成立するとしたが、1950年代に特徴的なのは、この民主主義には「神々の追放」が必要だと論じていることである。その背景には、独立後の「逆コース」における戦前回帰を、宮沢が「神々の復活」と呼んで批判していたことがある。当時の宮沢は、この「神々の復活」を阻止するための「神々の追放」としてライシテを捉えていたといえる。だが1960年代になると、宮沢は民主主義に必要なのは「神々の追放」でなく「神々の共存」だと論じるようになる。この背景には、安保闘争後の若手知識人による「戦後民主主義」批判がある。宮沢は民主主義の逆説的な権威主義化への批判を前に、それを新たな言葉で語り直す必要に迫られていたものと思われる。これと並行して、宮沢はライシテも「神々の共存」という言葉で表現するようになる。そこでのライシテは、右派か左派か、宗教か世俗かを問わず、あらゆる「神」を共存させる原理とされている。このように、宮沢のライシテ理解には「追放から共存へ」という変化をみることができる。
この発表に対して、ズュベール氏はフランスのライシテとの比較の観点からコメントした。ズュベール氏が注目したのは、宮沢のライシテ理解には1950年代から1960年代にかけて「追放」から「共存」への変化がみられるものの、それらはいずれも同時代の日本社会が置かれた政治状況に対する応答だったことである。宮沢は戦後日本における信条の多元化のなかでライシテを構想しており、ライシテ理解の変化もそのなかで生じているようにみえるという。ズュベール氏によると、フランスのライシテの歴史も同様である。たとえば、革命後のナポレオンによる宗教政策は、先ほどのコメントでも述べたように、たしかに現在からみると権威主義的にみえる。とはいえ、それまでのフランスが宗教改革以降、宗教的多元性とうまく折り合いをつけられず、宗教戦争を長く経験してきたことを考えると、ナポレオンと宗務大臣のポルタリスが作りあげた公認宗教体制は、たとえ自由主義的な1905年法とは性格が異なるとしても、宗教的多元化を経験するフランス社会に可能な範囲で共存をもたらそうとするものだったといえる。この意味で、フランスでも日本でも、ライシテは近代を特徴付ける宗教的多元化への応答という側面があるという。
白尾氏は「学校で宗教事象を教えるということ――フランスと日本の課題」と題した発表を行った。白尾氏はここで、宗教教育に関する日仏の議論には三つの共通点があると指摘した。第一に、公立校での宗派教育を禁じるライシテの原理である。フランスでは19世紀末に学校教育のライシテ化が実現され、日本では憲法と教育基本法が宗派教育の禁止を定めている。とはいえ、第二に、宗教事象は日本でもフランスでも、とくに中等教育のさまざまな科目を通して教えられている。地理や歴史の科目でなされる宗教知識教育である。そして第三に、宗教の専門家たちが宗教事象教育の重要性を指摘しているにもかかわらず、宗教問題に関する過敏さがその実現に歯止めをかけている。フランスでは1980年代から若者の宗教的無教養が問題視され始め、2000年代には宗教事象教育の重要性を説くドゥブレ報告書が出た。これを受けて、現在の教育プログラムには宗教事象教育が組み込まれているが、厳格な政教分離としてのライシテ理解や、宗教問題をめぐる論争の加熱などを背景に、宗教事象教育が現場で実現されているとは言い難いという。他方、日本では1990年代以降に「宗教文化教育」の必要性が唱えられ始めた。だが、学校の教科書における諸宗教の記述には偏りがあり、そこでの宗教は理解が必要な「他者」(たとえばイスラーム)として、あるいは警戒が必要な「脅威」(たとえば「カルト」)として描かれる傾向にあるという。
この発表を受けて、ズュベール氏は困難な宗教教育の日仏比較を実現した白尾氏の発表を高く評価しつつ、フランスの宗教教育に関していくつかコメントを述べた。フランスは19世紀末に教育のライシテ化を実現したが、「道徳・宗教教育」にとって代わった「道徳・市民教育」では「神への義務」が教えられていた時期もある。また、現在のフランスではたしかに、共生を目指した宗教教育に関する議論がなされている。だが、発表でも指摘されたように、教育現場では十分に実現されていない現実がある。とくにユダヤ教やイスラームに関しては、昔も今も歴史の要所要所で簡単に触れられるだけだという。しばしば注目されるドゥブレ報告書も、当時の大臣の意向や財政の問題など、さまざまな力学のなかで成立したという事情がある。さらに最近では、授業でムハンマドの風刺画を使った中学教員が殺される事件が起きたことで、現場には宗教を扱うことに恐怖感を抱く教員もいる。また、日本の教科書に偏りがあるように、フランスでも宗教事象教育は「主要な宗教」中心になりがちであるうえに、宗教について教えようとすれば本質主義に陥りかねない懸念もあるという。
今回のセミナーは、日本でライシテ研究を牽引する伊達氏を司会に、フランスでライシテ研究の第一線を張るズュベール氏がコメンテーターを務めるという、若手ライシテ研究者にとって非常に貴重な機会となった。三人の発表はそれぞれ、フランスにおけるライシテの最新事情、日本におけるライシテの思想史、日仏における宗教教育の比較であり、ライシテという概念が持つ日仏の比較と対話の可能性を感じることができた。さらに会場には、ストラスブールのイスラームとライシテを専門とする佐藤香寿実氏(芝浦工業大学講師)が参加したほか、フランスの宗教状況やライシテに関心を持つ学部生も集まり、充実した質疑応答が行われた。
報告:田中浩喜(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
写真:髙山花子(EAA特任助教)