2023年11月14日(火)17時より101号館11号室にて、金杭氏(延世大学)によるEAA連続レクチャー第2回「内戦と戦後民主主義:脱政治化という政治」が開催された。今回は前回のアガンベンやシュミットの議論にもとづいて整理された20世紀のグローバル内戦やパルチザンをめぐる理論的枠組みを戦後日本の民主主義の実際に即して考える回だった。
具体的には、パルチザンの形象を消滅させる試みがどう展開されたのかについて、若き共産党幹部として活躍したのちに中国に密航し、三十年近く消息を断ち、ゾルゲ事件の真相を密告した当事者=スパイとして扱われた伊藤律の存在を事例として、彼の北京での幽閉を内戦のアレゴリーとして理解するテーゼが打ち出された。伊藤が体現しようとしたすなわち共産主義の正義と真理は、彼が幽閉されるかぎりにおいて、彼が犠牲となって悲劇のヒーローとなることで、生き延びたという見解である。
南原繁の普遍主義の議論が植民地主義に盲目的であった点や、戦後日本の共産党の路線変更・分岐の歴史を踏まえたうえで、金氏は、共産主義の派手な豪遊や陰謀についてジャーナリズムが暴き立て活劇化され大衆化されるメディア・スペクタクルが内戦状態を溶解させていたと指摘する。敵は撲滅されるのではなく、陰謀や裏切りをめぐる言説によって消滅させられてゆくロジックである。それは日本国憲法に象徴される平和主義では説明のつかない、海賊的なもの、野蛮なもの、非人間的なものを前提として内包しはじめて成立する内戦のパラダイムの実態であり、2002年以降に世界最大の悪として名指しされる北朝鮮の核開発そのものが情報の詐取と陰謀によって成立しており、スペクトラムの政治に支えられていることを議論の俎上にあげるものだった。
結論として、金氏は、今日のヘイトスペーチのような全体主義的な動向も、共産主義をめぐる様々な歴史性や脈絡を宙吊りにすることなく、身体的な感覚に裏打ちされた歴史感覚の麻痺状態を乗り越えるかたちで再考できるのではないかという問いを提出した。
90分にわたるレクチャーのあと、質疑応答では、敵対戦争ではないかたちで今日どのような戦いがあり得るのか?酒井隆史が指摘するように本当の対立を隠すエキストリーム・センターのようなタームをどのように考えうるのか?政治という次元をどこに担保できるのか?といった問いがあがった。そして20世紀以降における政治空間の極端な縮小と消失、さらにはポリティカル・コレクトネスの形骸化と脱政治化といった具体例への考えが問われた。
報告者は、わずかながら言及された1968年以降のニューレフトのさまざまな機運にくわえて、連合赤軍による一連の事件をどのように内戦の言説で説明しうるのか思考を触発された。またメディア・スペクタクルでいえば、同じく戦後のジャーナリズムで積極的に取りあげられある意味ではおなじく溶解させられたとも言えるものに数々の新興宗教があるが、オウム真理教による地下鉄サリン事件をどのように理解しうるのか、宗教的なものの問題がパラレルに想起された。メディアとして、新聞や週刊誌といった紙媒体から、徹底的にテレビが力をもってゆくテクノロジーの発展との連動、さらにはインターネット以後の社会のナラティヴ形成や、2023年現在において、SNSにおいて瞬間的かつ断片的に散在しつづけるイメージと公共空間のありかたをめぐる問いにもつながると思われた。
今回、1970、1980年代の日本の公安による追跡の実態が確認されたが、次回のレクチャーはヤクザをめぐるものになるという。いまから楽しみに待ちたい。
報告・写真:髙山花子(EAA特任助教)