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2023.11.23

【報告】EAA連続セミナー ダダイスム──日本とルーマニアを中心に 第1回「From Anarchism to Dadaism: The Legacy of Tsuji Jun」

さる2023年11月7日、東京大学駒場キャンパスEAAセミナー室において、Benjamin Efrati氏による講演会「アナーキズムからダダイズムへ──辻潤が遺したもの」が開催された。Efrati氏はフランスの社会科学高等研究院に所属しながら創作活動にも励んでいるマルチプレイヤーで、セミナー冒頭でも、自身の表現活動に学術的な探求が良い影響をもたらしていることに言及されていた。

講演のタイトルにも示されているように、Efrati氏はアナーキズムとエゴイズムの概念とそれらがダダイズムにもたらした影響に触れつつ、日本の20世紀を生きた辻潤が、日本のダダイズム的前衛の第一人者であった可能性を主張した。セミナーはまずアナーキズム、エゴイズム、そしてダダイズムそれぞれの概念について、歴史的背景を踏まえながら解説するところから始まった。

アナーキズムは、人間の共同体が国家なしに存続しうるという思想であり、したがって法秩序や警察権力、司法システムの存在を、支配のための道具に過ぎないとして切り捨てるものである。行為によるプロパガンダを是としたアナーキストは、20世紀初頭において暴力の行使をも厭わない政治的な行為へとその領域を広げ、今日にあっては一般的な概念となったテロリズムを生み出した。その理論的な裏づけとしてアナーキストは、社会に生きるすべての個人は、社会の現状維持に加担しているという点で、国家やそこで働く政治家などと同様に糾弾される対象となり、したがって彼らへの暴力行為は正当化されると語る。その目的は、大衆の関心を惹いて、政治に関する議論を市井に巻き起こすことであった。

一方エゴイズムは、Max Stirnerにより “the Ego and its Own” の中で提唱された、人間の営みが外部の要因により規制されることを拒む考え方である。したがって神、国家、道徳規範といった、人間がお互いの行動に一定の制御を加えようとする際持ち出される概念は、エゴイズムのもとではすべて否定される。ただしエゴイズムは不埒な自己中心主義とは区別されるものであり、自らの意思こそが至上のものとして捉えられている。ここにおいて理想とされる共同体は、Stirnerがエゴイスト同盟と呼ぶような、自己の意思を尊重する個人がお互い邪魔することなく共存する状態にあり、各個人がおのおのの価値観を保存するという点でニヒリズムともまた一線を画す。

その後議論は満を持してダダの展開に関する話へと移った。ダダは、1915年以降に繰り広げられたある種の芸術活動の総称であるが、その名前が付けられた経緯からして意味を持たないことに強く固執している。ある芸術運動の起源を特定の地域に見出すことは偏狭な考え方であると指摘したうえで、その思想の変化のベクトル、すなわち運動の目指したところ・活発さ・行われた仕事をたどることを目的に、最初期にチューリヒを拠点として展開されたダダについての説明がなされた。第一次世界大戦中に政治的中立都市としてその地位を確固たるものとしていたチューリヒに集まった芸術家たちは、ナショナリズムを否定したうえ、軍隊にも否定的な感情を抱く傾向があり、それが美術史や論理的思考の拒絶というダダの根幹にある要素を下準備したという指摘がなされた。ここには集団よりも個人を優先するという点でアナーキズムおよびエゴイズムとの連関が指摘できる。また、ダダを世界的芸術運動の座から蹴落としたシュルレアリスムの出現について、ダダに精神分析の要素すなわち無意識の概念を取り入れ、その原理原則の部分である無意味さ、無目的さを否定した結果であるとして、発展的解消の系譜があることが示された。

ここまでで示されたように、ダダの根幹には意図の不存在と集団への帰属の拒絶という二大テーマがある。そしてこの下支えをしたのが、ダダの創始者とされるトリスタン・ツァラやマルセル・ヤンコをはじめとするユダヤ系ルーマニア人なのである。多くのルーマニア人ダダイストは無神論者ではあったが、それでも彼らはユダヤ文化からの影響を被らないではいられないものであり、そこには人間という存在が生まれながらにもつ馬鹿馬鹿しさ(absurdity)が渦巻いていた。また、ルーマニア国内でも、例にもれずユダヤ人は迫害の対象であったため、彼らの多くはパスポートを持っていない、すなわち無国籍者であった。ここからいえるのは、ルーマニアという国は、その周縁的な性格にもかかわらず、ダダが発展する土台を用意していたという事実である。

焦点は次に日本におけるダダの運動に移る。ここでの主人公は、辻潤という人物である。彼は西洋においてはほとんど注目に浴することがなく、彼にまつわる英語文献は一冊しかない(Tsuji Jun : Japanese Dadaist, Anarchist, Philosopher)一方で、彼はエゴイズムが日本で広く受容される少し前、1915年ころからStirnerの翻訳に取り組んでいた。「女性のもつ可能性の限界まで教え養う」(E. J. Taylor quoting Setouchi Harumi. 1993, Beauty in Disarray. Rutland, VT: Charles E. Tuttle., p.110)ことをめざして、伊藤野枝に教育を施した彼は、伊藤をはじめ、青鞜社に関連したフェミニスト系の人間関係にも明るかった。

限られた英語文献から彼がどうダダイズムと関わっていたのかを語ろうとすれば、彼の弱者へのまなざしへの言及を避けることはできない。これはStirnerのUnmenschという概念に酷似している。「ひとではない」といったような意味をもつこの言葉は、ニーチェが提唱したÜbermensch(superman、人を超えた人、超人)という概念との対比のなかに捉えることができる。二つの概念の対立軸は社会における不正義にたいする態度である。ニーチェは弱者に圧制への適合を求める一方で、Stirnerはむしろ各個人が教養を身に着け、自身を解放することを求める。Stirnerに近い意見を表明していた辻は、ダダにその思想の実現の糸口を見出していたが、マルセル・デュシャンらをはじめとする、作品の解釈に長大な時間と知識を要求するような裕福な芸術家たちとは異なり、貧しいものへのまなざしを放棄することはなかった。すなわち、芸術は単純明快な主張をもち、誰にでも理解できる普遍性を備えているべきだと考えたのである。この態度は、社会における不平等を前に、それに屈することを許容するニーチェの考えや、革命後の世界に労働者の救済を望むというマルクスの考え方とは軌を異にする。

当人が生前見せていた謙虚な態度と裏腹に、強力な個人主義と自信に満ち溢れ、自分を取り巻く環境に合わせて信念を枉げることを許さなかった辻は、彼にまつわる研究の少なさにもかかわらず、20世紀初頭の日本における前衛運動を理解するうえでカギとなる人物なのだという主張によって、講演会本編は幕を下ろした。

講演は熱烈な拍手といくつかの質問・コメントで迎えられた。なかでも興味深かったのは、ダダイズムと道教の類似性を指摘するものであった。先述のとおり、ダダイズムには、自己を何よりも優先するエゴイズム的な要素が含まれている。これが、道教の教義である、各個人が内面化した倫理や欲望に基づいた行動を勧めるものと相似関係にあるのではないかというのである。ユーラシア大陸の両端で、起源は異なれども似通った思想が広く受容された時代があったということは特筆に値する。

ダダイズムが果たして政治的な運動であるのかという点についても質問が飛んだ。これに応えてEfrati氏は、ダダがもつ言語の否定、そして境界の否定というテーマが、規制の道徳規範を破壊することにつながり、それが最終的には「下からの歴史」に見られるような、政府や統治システムの、国家ではなく個人を起点とした再構築という現象に帰結することを指摘して、その意味で政治的ということができるのではないか、と応答した。またそもそも政治的 political とはどういうことなのかを考える必要があるとも語り、Stirnerの理論と関連付けて考えることの必要性に言及した。

この頃耳目を集めるトピックであるアナーキズムを日本へ紹介した辻潤という芸術家の存在の指摘、ならびにこの重要な人物に関する新たな研究の余地が示唆されたことは、アナーキズムが、必ずしも政治的な文脈でのみ語られるべきではなく、ダダイズムならびにエゴイズムなどと有機的に結びついた、射程の広い思想運動であることを明らかにしてくれた。同時にダダイズムも、単なる芸術運動にとどまらない深みのある文化現象であったことが言えよう。アナーキズム研究が、よりマクロな視点で展開され、そののびしろを存分に発揮して、社会科学と人文科学の間にある壁を貫く槍となる可能性が垣間見えるセミナーであった。

報告:平田燿陸(東京大学教養学部2年)
写真:髙山花子(EAA特任助教)