2023年5月19日(金)、学術フロンティア講義 学術フロンティア講義「30年後の世界へ——空気はいかに価値化されるべきか」の第5回では、国立研究開発理化学研究所理事長の五神真氏が「『空気の価値化』を通じて考える『知の価値』」と題して講義を行った。
東京大学前総長でもある五神氏は、当時の経験にも言及しながら話を進められた。その際に注力されたのが、「知識集約型」社会において、大学で育まれる「知」をいかに「価値化」するという課題だった。その一環として、産学連携の強化や文理融合に取り組まれたという。
本講義を通じてなによりも感じられたのが、「知の価値化」の難しさであった。東京大学での取り組みが前提としていたのは、あくまで①市場における資金余剰、➁産学連携のうち直接金銭的利益を生まないものであってもその重要性を理解する、一部の例外的な企業や投資家の存在であった。また、不特定多数からのデータに依拠する「知識集約型」社会では、むしろ特定個人の有する「知」の価値は下がりかねないとも考えられる。もしそうなるならば、大学での「知の価値化」は一部を除いて難しいものとなるだろう。
報告者:横山雄大(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)ご講演ありがとうございました。最近は自分で学習する中で「知」や「啓蒙」について考えることが多いです。最後におっしゃっていたように、何かに役立てたり何かに変えたりすることを目的として蓄えようとするものは「知」ではなく、理屈ではなく「ワクワク」することが「知」であるのだと、そのお考えに大変共感しました。それゆえに私は「知」を追い求めていきたいですし、それは大学に在籍する間ではなく生涯にわたるものであるのだと思います。しかし「啓蒙」となると話が変わってくるように感じました。社会ではなく「人間の真の変革」のための「啓蒙」たれば、それは本人が「ワクワク」を感じない場合であれば否定されるのでしょうか。すると、ソクラテスやカントが実践しようとした「啓蒙」は否定されるのでしょうか。正直に書くと、私の周囲を見渡す限り、上記の意味での「知」を楽しんでいる大学生は少なく、それゆえ大学は「知」を伝え広めることにあまり成功していないようにも思います。そしてこれは大学ではなく現代に「普遍的な」問題でもあるように感じます。他者へ「知」を伝えること、その実践についても考えなければならないと深く思いました。 (教養学部・2年)(2)知のための知に関する質問から、知それ自体での価値化が可能かどうかという問いを立てる。五神先生がどこまで想定していたのかは、時間の制約のためはっきりとは分からなかった。しかし、少なくとも知を実践の場に持ち込むことなしに、「知らなかったことを知っている」状態自体が価値化されることはあるとのことだった(情報としての知識へのアクセス権をマネタイズするか否か、という議論もあったように)。これも結局のところ、マネタイズが想定されやすい、他者に譲るなり売るなりする前提のもとに立った価値である。これでは、知のための知というには市場という場から脱却できていない。そうではなく、知のための知を求めている私が本当に求めているのは、「自分が知ること」単体で(できるだけ他社を介在させずに)創出される価値である。これを、自己中心的と言ってしまえばそれまでだ。しかし、自分の知識を豊かにすることそれ自体がもたらす価値は、教養と呼ぶべき揺るぎない価値だと考える。教養を得ることを念頭に置いた知識の獲得が価値あるものだとみなされることが、知のための知を価値化する際の一つの重要な要素だと考える。市場に出回るでもなく、研究の成果になるわけでもない、個人の好奇心が駆り立てる、知そのものへの欲求がとても重要なものに思われてならない。得た知が何に使えるのかという実学志向は、その好奇心を満たしたあとで問題にすれば良い。(教養学部・3年)