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2023.05.31

【報告】林芙美子『浮雲』を読む

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「あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない不精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んでそこら辺へ投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真二ツになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きている事もまんざらではない。沢庵を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒地があると書いてある。ああそう云う未開の地に私達の、ユウトピヤが出来たら愉快だろうと思うなり」(林芙美子『放浪記』)。

有島武郎の『或る女』の次には、林芙美子『浮雲』を選んだ。二つの物語は、日本社会の主流から外れて生きるヒロインの死で幕を閉じる点で共通しているが、二人の作家をつなぐものと言えば、まずはアナキズムだろうか。とはいえ生まれ育ちはかなり違う。有島は旧薩摩藩の武士階級出身で、上品な印象の強い白樺派の一員だが、クロポトキンのアナキズムに感銘を受けて傾倒した。一方、林芙美子は鹿児島で旅館を営む家の娘の私生児として生まれた。実の父も、母の再婚相手の父も行商人で、芙美子は一家とともに行商をしながら幼年期を過ごした。

「私は戸籍では私生児だけれども、恥かしいと思つた事は一度もない。悩んだ事もない。只赤ん坊として生れて来たのだもの、それだけだ。生れて来た以上は生きなければならない。私は天のぬぼこのおかしみを深く信じるだけだ」(『読書遍歴』)。このように、戦前の日本社会を底辺ないし外部から観察しながら、不思議な明るさを漂わせる林芙美子の文章はもうひとりのアナーキーな「フミコ」=金子文子を思わせる。林芙美子は、金子文子の『何が私をこうさせたか』を評して「これこそはえぬきのプロレタリヤ小説である。我々の聖書でさへある」と述べている

この書評が書かれたのは1931年。前年に出版された『放浪記』と『続放浪記』が60万部を売り尽くして、林芙美子は一気に人気作家にのしあがった。1922年に岡野軍一を追って尾道から上京して以来、その岡野、新劇俳優の田辺若男、アナキスト詩人の野村吉哉と、付きあう男たちから次々と冷たい仕打ちを受けながら、辻潤や平林たい子などアナキズム文学者、プロレタリヤ文学者と交流を重ね、さまざまな職を転々とした。そうしたなかで、実生活に裏打ちされながら文学者として自立しようとする新しい型の女性の登場を描いたのが『放浪記』だった。

『放浪記』の主人公はおいしい食べ物で幸福感を味わうが、有島の『或る女』では葉子がおいしそうに食事をする「全き幸福な食のシーン」はないとの指摘がある(金井景子「女王の家政学」中山和子・江種満子編『総力討論 ジェンダーで読む『或る女』』)。

林芙美子にも『或る女』(1938年)と題された短編がある。たか子は不倫相手だった若い青年から関係を精算され、彼の結婚式で思わず涙を流す。夫からは別れはしないが互いに勝手にしようと言われて「名流婦人」になっていくが、息子に「僕は女の出歩くの厭だな」と言われて、家に入った女性の物質的・精神的自立の難しさが描かれる。

林芙美子が北海道の大地に憧れを抱いた点も有島武郎と共通する部分かもしれない。林芙美子の『浮雲』を原作として成瀬巳喜男監督が映画化した『浮雲』(1955年)で、富岡兼吾を演じた森雅之が有島武郎の長男であることも指摘しておくべきかもしれない。

林芙美子の出世作『放浪記』(1930年)から晩年の大作『浮雲』(1950年)までの経緯のうち、特に押さえておく必要があるのは、旅行と戦争だろう。

旅を愛した林芙美子は、作家として成功し家を持ったあとも、1年の半分くらいは旅先に暮らした。1930年には台湾・満州を旅行している。『放浪記』の出版で懐の潤った1931年から翌年にかけてはヨーロッパ旅行に出かけ、パリに長期滞在した。

台湾を旅して風土を愛でる一方、「風景を汚すものは人間だ」との感慨を抱く。「内地女の知識階級程、厭なものはない。飯をたく事より、本を読む事より、社交が大事らしい。それも内地人同士の間の社交である。それから、内地人が苦力(クーリー)をこきつかっているのには、足から血が登るような反感を持った」(『愉快なる地図――台湾・樺太・パリへ』)。生活力も知識もないと彼女の目に映ったブルジョワ階級の日本人女性を嫌悪しながら、現地人に共感を寄せる姿勢は、反植民地主義的である。しかし、芙美子は反植民地主義という思想の読解格子で観察していたわけではなく、生身の生活者の地平から言葉を紡いだと言ったほうが正確である。

パリ行きの動機としては、画家の外山五郎を追って会いに行くためという目的も大きかった。それを夫の手塚緑敏も承知しており、芙美子も夫に異性との交友を手紙で報告していたというから、「当時にあって稀にみるひらかれた夫婦関係であった」というのも頷ける(今川英子編『林芙美子 巴里の恋』)。なお、パリで新しい恋の相手となった「S氏」は建築家の白井晟一で、芙美子が『浮雲』を連載していた時期に秋田県雄勝町秋ノ宮に「浮雲」という建物を建てている。

共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出した1933年、北海道旅行から東京に帰ってきた芙美子は、「アカハタ」を購読していたことから共産党シンパと疑われ中野署に連行された。芙美子が送ってきた貧しい境遇はたしかに右よりは左寄りで、プロレタリヤ文学やアナキズムと親和性があったが、彼女自身の軸は左翼思想ではなく生きることにあった。

19377月の盧溝橋事件を機に日本と中国は全面戦争に突入し、12月に日本軍は南京を陥落させる。このとき芙美子は毎日新聞の特派員として南京に入った。『放浪記』などが発禁本になるなかで、芙美子は文士による従軍記録を作成する「ペン部隊」の一員として銃後運動を担うのである。1942年から翌年にかけてはベトナム(仏印)、ジャワ、ボルネオなどに滞在し、これが『浮雲』の舞台になる。

井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』(2002年)は、戦中は「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」であった芙美子が、戦後の6年間は――つまり1951年に47歳で亡くなるまで――「普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた」様子を描いている。『林芙美子とその時代』の著者高山京子は、そうしたなかで産み出された晩年の大作『浮雲』(1951年)を、「贖罪の書以外の何物でもなかった」と評している。

戦中の日本で義兄の伊庭の手にかかり、抑圧を受けていたゆき子は、仏印に渡って富岡に出会う。富岡は日本に家族を残してきていたが、ゆき子と富岡は、フランスの香り漂う土地で、戦争とはかけ離れた幸福な時間を過ごす。そうしたなかでゆき子は、フランス人が長い歳月をかけて茶園を整備してきたのに引き換え、日本人が短期間で他人の土地を自由にしようとしているのを恥ずかしく思う。富岡は女中のニウに子どもを孕ませている。林芙美子が、終戦から間もない時期に、加害者としての日本人を描いていることは特筆される。

仏印から戻ってきたゆき子と富岡は対照的である。ゆき子は無口でおとなしい娘だったのに物をはきはき言うようになり人柄が変わったと伊庭の目に映っている。一方、富岡は仏印では伸び伸びしていたのに日本に戻ると急に萎縮して家族に気兼ねしていることがゆき子には不満である。しかし、敗戦後の故国で再び落ち合った2人は互いに縁を切ることができず、放浪のなかで堕落していく。だが2人の堕落のあり方は異なる。富岡の場合は、「外地体験の溝が、彼と家族の間を引き離している」。「戦時下の植民者としての生活で、彼はあきらかに堕落した」。一方、戦中の仏印で自由を知ったゆき子にとっては、「日本社会の中へ帰って来て、そこで女として生きねばならない」のが「屈辱的」なのである。ゆき子は池袋でアメリカ人のジョオを相手にするが、それでも自由だった。「引き揚げてきたゆき子の東京での転落は、彼女が娼婦になることから起こるのではなく、「宮殿」だというその彼女の居場所に、また富岡と伊庭が現れることから起こる。彼女がひとりで確保した居場所は、再び男たちの侵入を受けるのである」(水田宗子「放浪する女の異境への夢と転落――林芙美子『浮雲』」岩淵宏子・北田幸恵・高良留美子編『フェミニズム批評への招待――近代女性文学を読む』)。

林芙美子は『浮雲』について、「神は近くにありながら、その神を手探りでいる。私自身の生きのもどかしさを、この作品に描きたかったのだ」と述べている。林芙美子は「同時代の女流作家のなかでも、最も宗教や思想からは無縁のところに位置しながら、実は誰よりも〈神〉なるものを求めていた」と高山京子は評している(高山前掲書)。敗戦文学としての『浮雲』に、神や宗教はどのようなかたちで描かれているのだろうか。

「浮雲」という言葉は、小説の最後に2回出てくるが、伊香保まで行くことになる2人が四谷見附の駅からの道を歩くくだりでも1度出てくる。「人間と云うものの哀しさが、浮雲のようにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかったのだ。二人は、何処へ行くあてもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた」。その手前で語り手は富岡について、「自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有していないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるように、鮮かに動いて来る」と述べている。ここでの「神」の登場は、やや唐突な印象を与える。

「浮雲」に似ている「浮草」という言葉も1箇所出てくる。終盤で屋久島に行く手前で富岡がゆき子に「根のない浮草みたいな我々だが、それで、二人が、何とかなれるとも思えないしね……」と語る場面である。「終戦後、みんな、こんな気持ちになってしまったンだな……。自分を基にして判断する力を失ってしまったンだよ。目的は、自分がつくるものじゃなくて、周囲がつくってくれるようになったンだ……」。

敗戦下で、自分のなかに座標軸を作れない状況を2人は生きている。日本に戻ってきたゆき子は、「何一つ強い背景になるべき柱がない以上は自分は小石のように誰かに蹴飛ばされて生きてゆかなければならない」と感じている。「生きたいから、死ぬ事も考える」という富岡は、「人間には仙人になる方法もないンだ。矛盾だらけのゴミを吸いこんで、何とか生きの愉しみを自分でつくっているまでの事だよ」とゆき子に語る。

林芙美子は戦後、『浮雲』の他にも短編『うき草』(1946年)を書いている。『うき草』の登場人物さえと蝶子は「確固とした絶対的なルールや基準・価値観」を持ち合わせていない。「村という共同体における暗黙のルールを絶対視していたというわけでもなく、宗教を信じ絶対的な神をもつとか、何があっても守らなければならない家族をもつということもない。また、愛国心という使命もない二人にとって、戦争中における判断の基準はいったい何であったのか。善悪の基準はあったのか。彼女たちは、何を最も大切にして生きているのか、精神の拠り所というべきものがみつからない」(ソコロワ山下聖美『林芙美子とインドネシア――作品と研究』)。

『浮雲』のゆき子と富岡も、確固とした座標軸を持たずに流されていく。富岡の子を身ごもるも、下ろすことを決意したゆき子は、大日向教という新興宗教の事務局長となって金回りがよくなった伊庭を、軽蔑しつつも頼らざるをえなくなる。しかし、伊庭のもとで「何の不自由のない生活」を送りながら「少しも救われていない事を知る」ゆき子は、教団の金を持ち出して、「どうしても富岡に逢わなければ」と、そうでなければ「どうにも救ってもらえない」もうひとつの救いを求めるのである。

大日向教は「強大な日光の神様」だという。富岡は、四谷見附で落ち合ったゆき子と渋谷で酒を飲みながら、このまま伊香保か日光に行かないかと言って、伊香保に行くことになる。日光方面に行かなかったことは、大日向教に身を寄せるくらいなら浮雲であることを選ぶという意味だと解釈することはできないか。

伊香保で若いおせいと出会った富岡は、おせいと一緒になることで生きる力を得ようとする。しかし、おせいの亭主の向井清吉が彼女に手をかけて殺してしまう。富岡の浮雲のような彷徨は彼に関わりを持つ人たちを不幸にしてしまう。仏印のダラットを思わせる南の屋久島の緑もその生命力で富岡を引きつける。しかし富岡について行ったゆき子は、それで命を落としてしまう。

戦中に幸福だった女主人公を最後で死なせてしまい、男が性懲りもなく別の女に惹かれていく様子を示唆して終わるのは、近代小説の定番の形式を借りた林芙美子の贖罪のあり方だったのかもしれないが、浮雲のようにしか生きられない人間に救いはあるかという問題提起でもある。実体的な宗教に身を寄せるのではなく、俗世に漂うことには「浮き」と「憂き」の二重性とともに生きることでもある。

受講生のSKさんは、浮雲のような運命と、たしかな手触りとしての肉体を対比してみせた。また、HTさんは、戦後に雨後の筍のように伸びてきた「神々のラッシュアワー」の状況に大日向教を位置づけつつ、テクストに出てくる熱海の観音教や璽光尊事件について註釈をつけた。救いがあるとすれば、猥雑さを切り捨てた次元においてではなく、猥雑さのただなかにおいてであることを暗示しているところなどは、林芙美子の力量であろう。

以上、報告者:伊達聖伸(総合文化研究科教授)

【受講者からの感想】

富岡もゆき子も、仏印での享楽を共有したのち、戦後の混沌の中で堕落し「浮雲」のように放浪する様が描かれる。しかし、二人の放浪のあり方には質的に大きな違いがある。

水田宗子『二十世紀の女性表現』によれば、富岡は「家のなかに収めきれないものをその内面に抱えている」。数々の女性と不倫関係を結び、彼女らに寄生して生きる気力を得ている。しかし、富岡は日本の旧来の価値観からは完全に逸脱することができない。また、彼は日本というナショナリティを典型的に反映させた性質を持つ。例えば、彼は役所勤めで仏印に赴任し、そこでゆき子と恋に落ちる。その一方でニウという現地の女中とも恋愛関係を持ち、子供を産ませている。富岡という日本の男性が仏印の現地の女性を掌中に収めることは、ナショナリズムの反映とも捉えられなくもない。また、敗戦後に妻と別れて(この妻も略奪婚で手に入れている)ゆき子と一緒になる約束を反故にし、ヤミ商売、失業、アルコール中毒など戦後のカオスの典型ともいえるような堕落した生活を送っていたが、友人の紹介で屋久島に赴任し官吏の道に復帰するといった、日本の復興の兆しを重ね合わせたようなストーリー展開になっていることから、富岡は当時の日本の世相を反映した経歴を辿っている。さらに、富岡の妻やゆき子は不安定な生活を送り結局は病死するし、富岡が横恋慕した若い人妻のおせいは嫉妬に狂った夫に殺される。ここまで周りの女性を死に追いやっておきながら、彼が贖罪の気持ちを感じるのはおせいの夫に対してのみであり、ここに富岡の女性蔑視的な冷淡さが感じられる。

一方、ゆき子は旧来の家父長的な家族の枠組みを相対化し、平等な男女関係を希求しながらも、結局は男性中心的な世界に取り込まれていく。伊庭という義兄との不倫関係から逃避し仏印に渡ったゆき子は、加野という男性に迫られつつも容赦なく彼を拒絶し、その一方で富岡と恋に落ちる。そして、東京では女として自信がなく、どこかで伊庭を待ちのぞんでいた彼女は、自由で対等な恋愛を知ったことで彼を軽蔑するようになる。敗戦後は富岡に見捨てられながらも東京でアメリカ兵相手に娼婦をして富岡や伊庭から距離をおくが、結局は富岡に依存するようになり彼の子供を身籠るも富岡の反応は冷たく、中絶のために伊庭を頼るようになり、富岡を追って屋久島に辿り着き病死する。

ここで注目すべきは、彼女が一時パンパンガールとして働いていた時に、悲観的な描写がみられず、むしろ彼女は互いに多くを詮索せずに済むアメリカ兵との関係を非常に気に入っていたことである。しかし、女性的魅力を用いて男性に従属し、「娼婦」として働くのは、「家の中にいる女性は「妻」、家の外にいる女性は「娼婦」」という旧来の家概念を元にした二元論的な女性観に囚われているようにも見える。ただ、日本の領土を不可侵なものと見做し、貞操といった家父長的概念に重ね合わせることで、GHQによる占領を苦々しく思っていた日本人の批判の矛先がパンパンガールに向かってしまっていたという時代的背景を考慮すると、日本の家父長的制度に対するゆき子のささやかな抵抗ととることもできるのではないか。

このように、ナショナリズムや当時の家父長的枠組みといった点から俯瞰すると、富岡とゆき子の放浪には、「旧来の価値観に押し込めてはおけない自己を有しつつもそれに従順に生きる男」、また「旧来の価値観を脱構築したくても経済的・精神的問題からそのシステムに取り込まれていくしかない女」というリアリズムが見えてくる。そして、林芙美子は彼女(ら)に死をもって救済を与える。林芙美子は私たちに何を伝えたかったのだろうか。当時のジェンダーのナショナリズムや旧来の女性観へのカウンター的視点か、それとも諦めなのだろうか。

(以上、Y・O

ゆき子は仏印での富岡との恋愛を郷愁とともに回想するとき、「悠々とした景色の中に、戦争という大芝居も含まれていた」と述べる。ゆき子にとって戦争はどこか他人事であり、自分の生を取り巻く舞台装置の一つに過ぎない。伊庭との不倫関係から逃れるようにして仏印を訪れたゆき子は、富岡と新たに関係を持つ。富岡もまた内地に妻を持つのだが、ゆき子にモラル的な葛藤は見られず、自身の衝動の赴くままにその後の人生を富岡との恋愛に彷徨い歩くことになる。この浮遊した精神を生に結びつけるのは、その身体性である。ゆき子の内面からおこる衝動は富岡の体を求め、果てにはゆき子は子供を身篭っている。ゆき子の体は、ゆき子の生が精神の空虚さに関わらずそこに存在していることを読者に伝えてくる。そしておせいにこだわる富岡への憎しみからゆき子が子供を堕胎するとき、その生の衝動も体から引き摺り出されたかのように、ゆき子は衰えていく。最後にゆき子が血を吐き出し、鮮明な意識の中で死を実感する描写には、身体に従属する生が生々しく感じられる。ゆき子は戦争末期と戦後を、衝動に流されるままの生を生きたが、そこには体という確固たるものがあったのだ。ゆき子は自ら富岡を求め、自分の体の居場所を求め続けたのである。ゆき子の内面が如何なるものであろうともゆき子の生を支え、最後には勝手に崩壊しゆき子の生を閉じてしまう体は、ゆき子の生を、人の力の届かぬものにしている。それは神々しくも悲劇的であるように思えた。

私が最初に読んだときには、ゆき子の富岡に対する欲求をゆき子の内面から生じるものとしてしか捉えていなかったが、授業の議論を通して、当時の女性が置かれた社会的状況に照らしてゆき子のアイデンティティを考え直す視点を与えられた。ゆき子の放浪は、家庭的女性や娼婦の役割からの脱却の過程であり、その到達点が死であったという読み方もできる。ゆき子の精神は周りの社会を背景に後退させ自由なものであるかに見えたが、その自由を求めるあまりゆき子は疲弊し死に至ったとも考えられる。このような死を迎えるしかなかったという点では悲劇的であるが、女性として自由を希求した末にたどり着いた死と考えると、その死はゆき子の精神の自由を象徴するものに思える。

また、「敗戦文学」として『浮雲』を読むとき、林芙美子の贖罪としてゆき子の死を捉えることができる。林は戦時、新聞記者として、日本が加害者となった戦争を後押していた。林は、同様に戦争の傍観者であったゆき子に自身の姿を重ね、贖罪としてゆき子を死に至らしめた。私は当初、ゆき子個人に偏った読みをしていたが、時代に『浮雲』を位置付け、林の経験を踏まえると、ゆき子の死が、当時の女性としての死、戦中を傍観者として生き延びた日本人の死として、当時の女性の抑圧の苦しみや加害者である日本人の贖罪といった複合的な意味を帯びてくる。また、女性の体に着目すると、戦後生きていくために体を売る女性が社会的に問題となり、男性に侵される女性の体が占領された日本のイメージに重ねられる一方で、女性の肉体は芸術作品の中で、戦時の精神主義からの肉体の解放の象徴としての役割を果たした。伊庭の元の抑圧から抜け出し、奔放にその体を使うゆき子は後者のイメージを帯びる。しかし、その末に迎えた死は、戦後女性の肉体に真に自由が訪れることの困難を示すようである。

(以上、YM