2023年4月19日(水)、EAA「世界哲学」ワークショップはEAAセミナー室とオンラインで開催された。現在EAA訪問フェロー・東京カレッジ招聘教員として日本に滞在しているユク・ホイ氏(香港城市大学)が「Philosophy and Post-Europe」と題する英語講演を行い、石井剛氏(EAA院長)と張政遠氏(東京大学)がコメンテーターを務めた。
ホイ氏の講演はフッサール、ハイデガー、デリダ、ベルナール・スティグレール、およびヤン・パトチカなどの議論を踏まえながら、ポスト・ヨーロッパ哲学の可能性と条件に焦点をあてたものである。むろん、ポスト・ヨーロッパ哲学を考える前に、まずはいわゆる「ヨーロッパ哲学」とは何かを明確にする必要がある。この点について、ホイ氏はフッサールを例に挙げて説明した。フッサールにとって、ヨーロッパ哲学は存在・本質を理論的に把握するための哲学であり、ヨーロッパ精神のイメージは目的論的な世界観に基づく理性への追求と深く関連しているのである。こうしたフッサールの見方に対して、デリダとスティグレールはさらにロゴスとテクネーとの特殊な関係に注目し、ヨーロッパ哲学に内在するロゴス中心主義ないしテクノ-ロゴス中心主義を指摘した。そして、ヨーロッパ的なロゴスにとってテクノロジーはもともと偶発的なものであったというスティグレールの見解にしたがえば、テクノ-ロゴス中心主義としてのヨーロッパ哲学もその本質において偶発的なものであるはずだという。
しかし問題は、ヨーロッパ哲学に備わるこのような偶発的・偶然的な性質は、テクノ-ロゴスの目的論的な歴史的展開、すなわちヘーゲル的な意味での自己意識をもつ精神によって覆い隠されてきたことにある。ホイ氏からすれば、こうした精神は産業資本主義の発展に伴う数百年間のグローバル化と近代化を通じて世界を植民地化してきた。ヨーロッパ哲学をヨーロッパ的かつグルーバルなものにしたのは、スティグレールのいうように、テクノ-ロゴスとしてのヨーロッパ的テクノロジーにほかならない。なぜなら、このヨーロッパ的テクノロジーはヨーロッパ的精神によって支えられたからである。つまり、哲学もテクノロジーも根本的には偶発的だったにもかかわらず、ヨーロッパ的精神が自己意識を形成して科学技術的な外在化を介する運動を自覚的に必要視するようになったということである。
今日、ヨーロッパ自体が深刻な危機に陥っているといわれる。スティグレールとパトチカのような論者たちはすでにヨーロッパの危機について様々な議論を行っていた。しかし、ホイ氏は彼らの論述を丁寧に紐解きながら、そこにある一つの盲点を看取した。つまり、ヨーロッパ的精神の拡張に伴う技術的な進歩のもとで、グローバル化はアジアやラテンアメリカのようなヨーロッパ以外の地域においても進行しているため、ヨーロッパ的テクノロジーは明らかにもはやヨーロッパに限定されず、世界の隅々まで拡散しているという。したがって、この危機もテクノロジーもヨーロッパ内部のものではありえなくなっている。
こうしたポスト・ヨーロッパ的な状況に対処するため、ホイ氏はフランスの哲学者ジルベール・シモンドンの「個体化」概念を援用して、ある種の「思考の個体化」(individuation of thinking)を提起した。個体化の過程は非互換性を発見・解決することである準安定状態に達することを指しているという。ホイ氏によれば、哲学が生き残るにはポスト・ヨーロッパ的なものになる、つまり脱ヨーロッパ化するしかない。脱ヨーロッパ化は思考の個体化を要請するが、この個体化は偶発的な出来事としての他者の到来を条件とするという。講演の最後に、ホイ氏はコロナ禍以後の人間社会になお共同の未来があるとすれば、それはきっと惑星的なものであり、そのような未来を構想するにあたって、もっとも喫緊な課題は精神よりもテクノロジーと個体化を問うことであると締め括った。
その後、石井氏と張氏がそれぞれのコメントを述べた。石井氏はホイ氏のいう「個体化」概念に関心を示し、『荘子』応帝王篇における「渾沌」のエピソードを例に、カオスに対する中国哲学のアプローチと目的論的な性格を色濃く帯びたヘーゲル的な歴史観との違いを述べた。張氏はヨーロッパのみならず東アジアにおいても現象学が衰退しはじめており、また日本国内でさえ「日本哲学」という学問の存在を認める研究者が少ないという現状を指摘したうえで、現象学と日本哲学の将来性について質問を投げかけた。
ホイ氏の講演を聞きながら、報告者は戦前の日本主義や文化主義に見られた反技術主義に対する戸坂潤の批判を思い出した。日本主義や文化主義の論者たちは精神・文化の危機を強調し、そういった危機をもたらしたものとしてテクノロジーを非難していた。だが、戸坂からすれば、こうした議論は社会の下部構造に深く関わったテクノロジーから分離されたような文化的なカテゴリーを前提としており、そこにはファシズムに滑り込む危険性があるのである。報告者にとってもう一つ興味深い点はやはり講演で言及された「個体化」の問題にある。というのも、近代日本思想史に見られる根強い個人主義批判の言説のなか、いわゆる東洋哲学の発想をも利用して西洋哲学における「個体化の原理」(principle of individuation)を批判した形で理論的に展開されたものがあったからである。今後、個体化とテクノロジーの問題をめぐる東西哲学の対話が一層深まることを期待したい。
報告:郭馳洋(EAA特任研究員)
写真:ニコロヴァ・ヴィクトリヤ(EAAリサーチ・アシスタント)