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2023.04.29

【報告】内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を読む

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嬉しい悲鳴である。「世界歴史と東アジアIII」と題されたこの授業は、近現代日本の名著を2週間で1冊のペースで読んでいく形式にして3年目になるが、1年目は正規の受講生として登録したのはたった1人、有志の受講生を含めて3人だった。それでEAAのブログで授業の報告をはじめたところ、2年目は5人で毎回内容の濃い授業ができた。今年蓋を開けてみたら、事前登録者数が27名に膨れあがっていた。

もっとも、それにはひとつからくりがある。昨年度と同じ「世界歴史と東アジアIII」の授業として登録してきたのは6名なので、去年とほぼ同じ数なのだが、今学期は「地域文化研究高度教養(ヨーロッパ)」という看板も掲げていて、そちらで登録してきた学生が21名と私の予想を大きく超えていたのである。

それで、授業運営上、2つの試練に直面することになった。ひとつは、毎回全員に発言や発表を求めるには規模が大きすぎることである。もうひとつは、もともとわかっていたことではあるが、近現代日本の著作を読むという授業を、ヨーロッパ研究としても扱うということである。

私としては、「世界歴史と東アジアIII」の授業を、もともとGSIの小国論のプロジェクトと連動させてきた。近現代日本の主流派は「大国になりたがる小国」であって、その過程で「核心現場」(白永瑞)と呼ばれるさまざまな歪みを国内外に作り出してきたが、傍流としてそうした動向に批判的眼差しを注ぐ小国論の提唱者もいたことに注目し、そのような観点から近現代日本の名著を掘り起こす形で読み直そうと考えている。

私自身は宗教学を専門とし、フランス、ケベック、日本をフィールドとしながら宗教と世俗の関係を考えてきた。その過程で、日本の「宗教」は必ずしも実体的な領域があるものとして切り出すことができるわけではなく、「宗教」と「世俗」の枠組みをいったん取り払ったほうがよいかもれないと思うようになった。

このような観点に立つと、世俗と宗教の区別より、何が周辺化されるのかという力学、そのなかでどう生きるかというテーマが浮かびあがってくることになり、宗教のみならず、ジェンダーや階級なども重要で、アナキズムやインターセクショナリティも関係してくるというふうに見えてきた。ただ、こういうと話が大きくなるので、いわば勝手に飛んでいこうとする凧を、具体的なテクストを糸として、つなぎとめるような授業ができればと考えている。

それは昨年度あたりに自分の態度としては少しずつ定まってきたところだったが、今年度はそこに特にヨーロッパを意識せよという課題がつけ加わっている。さしあたり前半は内村鑑三、有島武郎、林芙美子の3人を予定している。内村鑑三と有島武郎はアメリカ留学組とすることができるので、授業のタイトルが「西洋」なら問題ないのだが、「ヨーロッパ」の枠をどこまで意識したものか。

もっとも、受講生には優秀な学生、勘の鋭い学生、面白い学生がいるに違いない。もちろん私のなかにも見通しがないわけではないので、まずはやってみることにしよう。授業のなかでの発言や発表の時間が十分に確保できないぶん、ブログ記事を受講生にも書くようにしてもらうことを考えた。

今学期最初に選んだのは、内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(鈴木範久訳、岩波文庫)である。札幌農学校の二期生として太田(新渡戸)稲造と宮部金吾とともに将来を「2つのJ」(イエスと日本)に捧げることを誓い、一高で「不敬事件」を起こし、無教会運動をはじめ、日露戦争で非戦論を唱えたことで有名な内村は、「日露戦争後、日本の大国主義への批判としてはじまった内村の小国主義」(田中彰)と言われるように、日本で少数派のキリスト者として小国論の系譜に位置づけられる人物である。

『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、1895年にHow I Became a Christianのタイトルでまず英語で出版され、全体の日本語訳は内村の没後に出ており、以後数種類の翻訳が刊行されている。1861年に高崎藩士の息子として生まれ、札幌農学校時代のキリスト教への入信、アメリカ留学を経て、1888年に帰国するまでの半生が描かれる。

回心が一度きりではなく、何回かにわたっていることがひとつのポイントだろう。幼い頃から祖国の神々に祈りを捧げてきた内村は、札幌農学校で先輩の一期生から強制的な勧誘活動を受けて、「イエスを信じる者の誓約」には半ば強制的に署名させられた。だが、それによって四方の神々に祈りを捧げる必要はなくなり、唯一神信仰は内村を新しい人間にした。札幌農学校で実用科学を学んだ理科系の内村は、キリスト教を聖職階級性や教会制度として理解することはなかったという。英語を話すキリスト教国アメリカに内村は大きな期待を抱いていたが、実際に留学して自分の目で見たアメリカは、金がものを言う社会で、「根強い人種的偏見」にも直面し、失望を味わう。留学前は帝国政府の役人だった内村は、ペンシルヴァニアの養護院に看護人として勤務する。障碍児たちから「ジャップ、ジャップ」と侮蔑の言葉を投げかけられながら、糞尿始末をする生活に耐えていた(鈴木範久「若き内村鑑三と心の世界」)。最初はそれを試練と考えていたが、養護院の創設者JB・リチャーズの話を聞き、自分の仕事が障碍児の心霊の開発という「高き宗教的目的」を持つものであると理解する。アマスト大学では学長シーリーの感化を受け、「故国で受洗してからおよそ十年後」、内村はそこで「ほんとうの意味での回心」をしたと述べている。

「私はキリスト教国に何もかも取り込まれはしませんでした」というのが重要だろう。佐幕派だった高崎藩の儒学者の家に長男として生まれた鑑三は、明治維新後没落していく一家のなかにあって、誇り高き武士が儒学を学ぶ感覚で「英学」を学んだ。普通は東京英学校から東京大学に進んでエリートコースを歩むところだったのを、貧しい士族の長男には官費生待遇の北海道行きは魅力的に映った。人種差別的な「金ぴか時代」のアメリカに対しては批判的でありながら、「真人」と呼んでよいアメリカ人も「人目にはつかない」形で存在していることも見出すのである。

キリスト教と日本の折り合いをつけることなら、海老名弾正もやったことである。これに対して内村の「2つのJ」は、〈楕円的批判力〉とでも呼ぶべきものではないだろうか。楕円が2つの焦点を持つように、「2つのJ」に立脚することで、「鑑三は、ただの愛国主義者でもなければ、西欧的なキリスト信徒でもなかった。西欧のキリスト教に対しては、それを相対化する目を「日本」からえた。愛国心に対しては「イエス」の目で、これを浄化してとらえた」(鈴木範久『内村鑑三』岩波新書、1984年)。竹内好は「方法としてのアジア」(1961年)で「西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値の上の巻き返しによって普遍性をつくり出す」と述べているが、「かえって私は自分が異教徒の立場にあることを特権と思いました」という内村も、キリスト教的西洋の普遍を、日本から包み直すことで新しい普遍を作る動きを生み出そうとしていたのではないか。

それは軍事大国化する日本を批判することでもあった。講演「デンマルク国の話――信仰と樹木とをもって国を救いし話」(1911)は、ヨーロッパの「小国」デンマークが、ドイツとオーストリアの2強国の圧迫を受けて南部最良の2州を失いながら、「ユトランドの荒漠」を植林と粘り強さによって「沃饒の地」に変えた話である。「彼らは国を削られてさらに新たに良き地をえたのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己の国を改造したのであります」。

内村の愛国主義は日本中心主義ではなく、台湾や朝鮮の人びとに心を寄せていたことも重要である。1910年の日韓併合について内村は、日本が領土を増大して霊魂を失ったと嘆いている。内村の聖書研究会に参加した朝鮮人留学生の金教臣と咸錫憲は、朝鮮帰国後『聖書朝鮮』を発行、1940年に共著『内村鑑三先生と朝鮮』を刊行した。1942年に検挙されたが、金教臣は『聖書朝鮮』主筆として「朝鮮的キリスト教」を追求して抵抗を貫き、咸錫憲は戦後韓国の民主化を導いて「韓国のガンディー」と呼ばれた。

『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』の記述に戻ると、米国滞在中の内村は『エレミヤ記』を読んで日本に対する愛国心を取り戻している。ロシアをバビロニアに見立てた内村は、日本を「義の神を認めることによってのみ救われる無力なユダヤ」になぞらえている。

ところで、エレミヤは偶像崇拝を不倫にたとえているのだが、内村が『エレミヤ記』第315節を読んで「だれがこの願いに逆らいうるか」と記していることに注目したい。該当箇所をひもとくと「お前は多くの男と淫行にふけったのにわたしに戻ろうと言うのかと主は言われる」などとある。

内村のアメリカ行きは、最初の結婚の破局とも関係している。同志社と横浜の女学校に学んだ相手のタケについて、鑑三の母が「賢すぎる、学問がありすぎる、知的すぎる」と反対していたのを押し切って、2人は18843月に結婚したが、秋には別居となり、鑑三はその年の11月に渡米するのである。破局の原因は、鑑三側から見るとタケの異性関係らしく、「羊の皮を着た狼」と評している。

2人目の妻かずは、1889年に鑑三と結婚したが、1891年の不敬事件後、流感にかかった鑑三を看病しているうちに自分も流感にかかり、そのまま亡くなってしまった。

1900年には、1898年に内村が創刊した『東京独立雑誌』が突如廃刊となっているが、それは内村自身の言葉によれば「余の女子独立学校における或る公的行為」が東京独立雑誌社社員から大きな非難を浴びたからだという。「一女子教員に対するスキャンダル」説もあるようだが、鈴木範久によれば「にわかに信ずることはできない」とのことで、「トラブルの真相は、いまだ鑑三の生涯の一つの大きな謎」のままだという(『内村鑑三』岩波新書)。今の言葉で言えば、「セクハラ」というよりは「パワハラ」だろうか。

内村は武士階級の出身で、文体も生き方も非常に男性的である。日本のキリスト教徒は西洋文化に触れて比較的進歩的なところがあったが、「女性の地位と役割についていえば、内村は、他の大勢の宣教師や日本人教会指導者に比べて、はるかに保守的だった」(マーク・マーリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』)。現在の感覚を当時に当てはめることは時代錯誤を犯すことになるが、内村の女性観についての研究はあまり多くなく、検討の余地があると思われる。

最後にヨーロッパとの関係を意識して、本書の仏訳について触れておこう。書誌情報は次の通り。Kanso Outchimoura, La crise d’âme d’un Japonais ou Comment je suis devenu chrétien ? , tr. par Jules Rambaud, Genève, J.-H. Jeheber ; Bale, Ernest Finckh, 1913. パリ・プロテスタント神学部のラウル・アリエ(Raoul Allier)が序文を書いている。「愛国心は士族の息子たちが打ち立てた若きキリスト教共同体の魂である。この魂の状態のひとつの帰結は独立の意志であって、それはそもそもの初めから表明されていた。この若きキリスト教共同体は真に日本的であろうとした。外国人の精神的植民地となることを拒んだのである」。フランスのプロテスタントがこう書いているのを読むと、日本が西洋列強による植民地化をまぬがれて、日本の近代化の主流からやや外れた少数派の武士階級の子弟たちが、キリスト教と愛国心を結びつけたことの意味が改めて浮かびあがってくるように思われる。

【以上、報告者:伊達聖伸(総合文化研究科教授)】

内村の思想は確かにキリスト教であったわけだが、キリスト教、聖書解釈であるとの理解だけでは内村の思想は到底汲み尽くせない。これは李慶愛の『内村鑑三のキリスト教思想――贖罪論と終末論を中心にして』に詳しく、これに沿って内村の思想を概観することから始めたい。内村のキリスト教解釈とは、キリストの磔が全てである。「肉なる横木」と「霊なる縦木」が交わる交叉点にキリストは磔にされたのであり、「肉体」は横木から縦木へ、天へと向かう力によって霊化することができる。これにより肉体は不滅になるが、この思想を担保するのがキリストの再臨である。そしてまた、十字架は「聖なる神」と「罪ある人」の「会合所」であるとされる。

内村は札幌農学校時代、水産学を学んでおり、ダーウィンの進化論に大きな感銘を受けたという。そして、当時の内村は進化論をもってキリスト教を「解明」しようとしたのである。『種の起源』が発刊以来、創造論に拠るキリスト教から強烈な反発を受け、同時にキリスト教への疑義の高まりが生じたことは周知の通りであるが、内村はその水と油の理論の両方に魅了され、統合を試みたのである。内村が人間の起源として類人猿を想定したかどうかは判然としなかったが、内村は歴史的な人間の「進歩」というものを認める。この人間の進歩と自然の進歩の「調和」を見ることで、キリスト教と進化論が折衷するのである。この折衷は、アマスト大在学中の思想における転回によってもたらされた。すなわち、進化論でキリスト教を解明しようとすることから、「十字架のキリスト」をもって、進化する宇宙を解明しようとする、キリストを中心とする宇宙観への転回である。宇宙生成、及び深化の目的は愛=キリストであるとの気付きを得たのである。「宇宙の目的は愛、其成し手段は愛、其原理と精神とは愛」(「キリストは如何なる意味に於て万物の造主なる乎」1909)なのである。愛に加え、内村のキリスト教において重要な概念は「義」である。授業では「2つのJ」が「楕円的」と紹介されたが、内村のキリスト教解釈とは「愛と義の楕円的解釈」であったとされる。義とはつまり贖罪である。内村の罪をキリストは義をもって贖うのである。

内村にとっての「最大の難問」は、「霊魂の解放」であったわけだが、これには内村の罪の意識が大きく関係している。いつから、どのように内村は強烈な罪の意識を抱くようになったのかが問題である。李の前掲書では、浅田タケとの離婚が主な理由として挙げられている。この離婚が内村の罪悪感を深め、内村自身の中に「真空」を生ぜしめたという。ところで、罪とは神からの隔絶であるとされる。この観点から考えてみると、罪の意識からキリスト教を求めたのではなくて、キリスト教を深く信じればこそ、内村のキリストを中心とする宇宙観を確かなものするにつれて、自身の罪深さへの気づきが自然と生じた、と考えたほうが良いのかもしれない。

いずれにしても内村のキリスト教は十字架と宇宙観によってよく理解されるわけだが、このような内村の思想の背景は何だったのだろうか。当時の社会情勢を渡辺浩の『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』から探りたい。明治維新は、世襲制度に縛られ、鬱屈していた下級武士の怨恨がその原動力であって、「名」と「実」の一致の観点から、天皇に権力が委譲されるなど儒教の影響が大きかったとされる。注目されるのは、男女の違いである。「宇宙論的・自然的」に男性は「陽」、女性は「陰」にあてられるわけだが、これから、後述の「煩悶」の時期まで一貫して、男性が中心的に考えられてきたことを渡辺は指摘する。

明治維新後、「尚武」の気風から「英雄」や「豪傑」への関心が高まったり、激しい自由民権運動が展開されたり、学校制度を用いての「紳士」としての出世を狙うなど、権力や成功への渇望から男性的な野心的風潮が高まった後で、こうした英雄気取りの態度に嫌悪や軽蔑を示す知的な若い男性が、1887年の徳富蘇峰の『新日本之青年』を画期として出現したとされる。61年生まれの内村はこの世代と重なるのである。国木田独歩、三宅雪嶺、藤村操らに共通する意識とは、何が立派な男なのか、どんな男になるべきか、どう生きるべきか、という問いである。国木田は『我は如何にして小説家となりしか』(1907)でこのように問う。「我は何処より来りし」、「我は何処に行く」、「我とは何ぞや」。同様に、三宅は、「往きに国家的なりし物の、新たに社会的若くは個人的と為り来たり」(『慷慨衰へて煩悶興る』1906)とした。渡辺はこうした「煩悶」青年の男性性を指摘するが、この男性性から「煩悶」の性質に至るまで、同時代の内村の思想への影響が窺えるのである。本書『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』をきっかげに、内村の思想を考えてきたが、その実践との連関、及び影響力の背景には、激動の時代に合って自らの生と真剣に向き合う内村の内的格闘が存在したのではないだろうか。

(以上、ST

内村鑑三の自我のあり方は、私を含む現代読者の一部を大いに困惑させることと思われる。内村は肉親に働きかけて多神教から回心させ(岩波文庫、60頁)、その詩的な精神のあり方について東洋人を代表して告白している(210頁)。挙げた例はキリスト信徒であることと日本人の愛国主義者であることを両立させた「二つのJ」のことを言うのではない。肉親、東洋人、そして最も顕著にはキリスト信徒。内村は、内村が属するところのものを内村の延長──拡大された自己として捉えているように感じられるのである。

内村が属するところのものというのは、内村が信じるところのものという方が的確かもしれない。内村は何よりも己の意志と選択によって所属先とアイデンティティを確立している。キリスト教であれ、独立した教会であれ、日本人であり愛国主義者であったことは自我を得るまでの環境が大きかったかもしれないが、内村は、一度自己としたものをその外部へ出したがらない。と言って内村が多神教の信仰を捨てた反例が思い浮かぶかもしれないが、これはむしろ、多神教を内面化してしまい一般の日本人のように「神々とは適当につきあう」(368頁、鈴木解説)ことができなかったということで、信じると決めたものを自己に取り込んでしまう好例だろう。自己の拡大、拡張というと傲慢な人物のようだが、生活者たる小なる内村としては、拡大した大なる内村の取り込んだ信仰や価値観へ敬虔に従属していたのだから無私の極地である。

内村のこの「取り込んで、出せない」稀有な素質は伝道者・思想家として最大の魅力であった。過去からの自己の連続性である。明治の過渡期にあって「一身に二生」をくぐった人々は、いずれかの時点で今までの自己を捨てたり、客観視したり、克服したりせざるを得なかったと言われる。そこにおいて内村は「二つのJ」への献身を掲げた。キリスト教国で異教徒的視点を忘れず、日本においては言わずもがなである。

内村の拡大・拡張する自己は儒教的でもあるし、札幌農学校や独立後の教会での小さく密接な人間関係によって築かれたところもあるだろう。また、取り込んだものを軸とし、軸を自己全体に拡大し、自己から拡張した周囲の人間にまで同質化を求める内村のあり方は、まさにキリスト教の伝道師や愛国主義者像とのアナロジーではあるまいか。

しかしながら、内村の拡張自己は良い面ばかりではない。というよりも、私が批判的にしか見られないためにこうした文章を書いている。内村の自己は出会ったものを柔軟に取り込み、滅多に放り出さず、両立のために小なる内村が心を砕くことで素晴らしい業績を築き上げてきたものの、そこにどうしても取り込まれない者がいる。ペンシルヴェニアの精神障害児たちであり、彼が人生の中で出会った女性たちである。内村は彼らに冷淡であるわけではない。啓示を得てからは精神障害児たちとの交流を「神聖な清められた役割」と見なし、また結婚生活上で失敗をしたり、教員時代の女性同僚とのトラブルはあったものの、それは内村の対人技術的な問題であり人格を損なうものとは一概には言えない。実際に、ペンシルヴェニアの院母や院長夫人を賞賛してもいるのだ。問題は、彼らとの歩み寄りのためにキリスト教や彼なりの道徳・美徳を経由している点である。内村は拡張した自己越しにしか他者と触れ合っていないのではないか?

 精神障害児たちの人格やタケの境遇について、また女性問題について内村がどのような意見を持っていたのか、関連文献の読解が足りない私が邪推するのは厚顔ものである。しかし『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を私が読むとき、身の置き所がないこともまた事実だ。内村の拡張した自己に私は入れてもらえるのだろうか。私は彼の校友でなく、キリスト信徒でなく、明治を生きておらず、男性でも士族でもない。彼の自己拡張せる姿はその内部に入れる者と入れない者とで異なる印象を与えるのではないかというのが、男女で(ざっくりとして不正確な描写だが)読後感の分かれた教室を経た私の思いつきである。

(以上、RM