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2023.02.17

【報告】公開合評会:森山工『「贈与論」の思想─マルセル・モースと〈混ざりあい〉の倫理』

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2023211)14時より、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会と加藤周一おしゃべりの会/羊の談話室(仮称)との共催により、東京大学東アジア藝文書院セミナールームからのハイブリッド形式にて、森山工氏(東京大学教授)の新著『「贈与論」の思想─マルセル・モースと〈混ざりあい〉の倫理』(インスクリプト、2022年)の公開合評会が開催された。

本書はどういう本かをあえて一言で言い当てるならば、1923年から1924年にかけて執筆されたモースの代表作「贈与論」を、「外側から」かつ「内側から」読み解く試みと言えよう。「外側から」というのは、ボリシェヴィズムと異なる社会主義運動に身を投じたモースと「贈与論」という著作の関係を解き明かすことの謂である。「内側から」というのは、普通は「与える義務」、「受け取る義務」、「返礼の義務」という3つの義務の体系として理解される「贈与論」において、贈与されざるものとは何かを問い、また〈混ざりあい〉という隠れた重要キーワードを手がかりにこの著作を再読することである。森山氏は岩波文庫の『贈与論』(2014年)の訳者でもあり、『贈与と聖物――マルセル・モース「贈与論」とマダガスカルの社会的実践』(東京大学出版会、2021年)に続く本書は、著者が翻訳を通してモースのテクストを精読し、時間をかけて多くの着想を得てきたことが窺える本になっている。

森山工『「贈与論」の思想——マルセル・モースと〈混ざりあい〉の倫理』インスクリプト、2022年

1報告者の山田広昭氏(東京大学名誉教授)は、専門とするポール・ヴァレリーについて「外側から」かつ「内側から」読んできたと言えるプロフィールを持つとともに、本書の版元と同じインスクリプトから『可能なるアナキズム――マルセル・モースと贈与のモラル』(2020年)を刊行している。そして、同時代的にはアナキストとは言えないモースが、現代的課題としてのアナキズムを理解するうえで非常に重要な位置を占めていることを解き明かしている。

 山田氏は、森山氏の前著『贈与と聖物』において展開されていた贈与と交換をきちんと腑分けすべきであるという主張が本著では後景に退いているように見える点に着目し、「贈与論」の根本的なモチーフとして「混ざりあい」を取り出すことと、贈与と交換の区別にこだわる姿勢は矛盾ではないかと問い質した。また氏は、森山氏が論じるようにモースは本当にものに内在するという霊の存在を信じる徹底的な内在論者だったのだろうかと問題提起したうえで、ものの霊を考察するにはフェティシズム概念を導入するのが有効ではないかと議論を展開した。さらに氏は、モースが提唱した概念である「全体的社会事象」とは、はたしてアクセス可能なものなのか、どのように接近できるのかと問うた。

山田広昭氏

2報告者の藤岡俊博氏(東京大学准教授)はレヴィナス研究者であるとともに、「利益」や「功利性」に関する思想史的研究にも従事してきた。「社会科学における反功利主義運動」(Mouvement Anti-Utilitariste dans les Sciences Sociales:MAUSSの通称はマルセル・モースの姓と同じになる)の主導者アラン・カイエによる『功利的理性批判——民主主義・贈与・共同体』(以文社)の訳者でもある。

藤岡氏は、本書にはさまざまな「混ざりあい」の様相が見られることに注意を促すと同時に、モースのテクストにも「混ざりあい」(mélange)に関連するいくつかの用語が見られることを指摘した。そしてモースにとっての「混ざりあい」とは、始原における純粋さを措定するものではなく、原初において「混淆」「融合」「混沌」が想定されていることだと述べる森山氏の議論を取りあげ、始原における混ざりあいの想定もまたある種の純粋性の仮構に陥ってしまうのではないかと問いかけた。そして、目指されるべきは失われた未分化の「混ざりあい」の回復ではなく、分化を前提とした可能性のつぎはぎのようなものではないだろうかと述べた。また氏は、「個人と集団」「個人と社会」「個人主義とホーリズム」などの二項対立を念頭に、「混ざりあい」の倫理から出発したとき「個人」をどのような概念として理解できるのかと問題提起した。さらに氏は、「混ざりあい」の思想史を考えるとき、モンテーニュ、マルクス、エリー・アレヴィらが注目に値するとの展望を垣間見せてくれた。

藤岡俊博氏

3報告者の片岡大右氏(批評家)は、フランス・ロマン主義文学を専門とするが、現代フランスの社会思想についても造詣が深い。また、デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について——「あいだ」の空間の民主主義』(以文社、2020年)の訳者でもある。加藤周一研究も手がけ、今回の合評会の主催団体のひとつ加藤周一おしゃべりの会/羊の談話室(仮称)の発起人の1人でもある。

片岡氏は、戦後日本の知的言論空間にはマルクスとウェーバーという枠組みがあったのに対し、フランスの場合は広義のマルクス主義的伝統に加えてデュルケム的伝統があったと述べた。そして、フランスにおける「社会問題」には、階級的な分断や経済的な不平等を強調するマルクス主義の系譜と社会統合の側面を強調するデュルケム的なものの系譜の緊張関係があると示唆し、モースの社会主義を理解するための文脈を踏まえることの意義を強調した。そのうえで、モースの1899年のテクスト「社会主義的行動」と19231924年に書かれた「贈与論」とのあいだでは、誰を社会の正当な構成要素と見なすかについて論点の移動があると指摘し、モース的な意味での社会主義における階級の位置づけをどう考えればよいのかと問いかけた。片岡氏によれば、マルクス主義には社会を転換するには全面転換しかないという発想があるのに対し、グレーバーがマルクスの最大の補完者とするモースには、発展段階説ではなく、ひとつの社会には複合的な論理がはたらいているという歴史貫通的な社会観や漸進主義的な着想がある。さらに氏は、加藤周一の雑種文化論と「贈与論」の隠れたテーマである「混ざりあい」の類似性とニュアンスの違いに言及しつつ、始原における混ざりあいと近代性をモースに即してどう考えればよいのかと質問した。

片岡大右氏

以上3氏の報告を受けて、森山氏は「著者からの応答」として3つの観点から質問に答えた。第1に、ものの霊や「混ざりあい」からの個人の構想は、森山氏のなかでは近いところに位置づけられる問題であるという。ものの霊は、モース自身は信じていたのではないかと思われるが、自分自身はそれに比べると躊躇があると回答した。また、最終章で参照したシモンドンの個体化論に依拠しながら、個体は個体としてとどまり続けるものではなく、存在の位相をずらしながら、違う個体性へと変換を遂げていくものではないか、超個体性とは個体を超えていくが個体に即しているもの、そのうえで他の個体と混ざりあったり、関係を持ったりできるものではないかと述べた。森山氏は本書の出版後、人類学者の関根康正から勧められて岩田慶治を何冊か読み、オカルトとは違うところで霊について語ることができる必要があるのではないかと考えるようになってきたという。

森山工氏

2に、歴史貫通的な視点から近代の特徴をとらえることについては、モースが構想していた贈与の倫理を西洋近代に復権させる方法が問題になるだろうと森山氏は論点を定めた。柄谷行人は近著の『力と交換様式』において『世界史の構造』以来の交換様式の4類型を提示している。交換様式Aは互酬性と贈与、交換様式Bは保護と服従からなり、交換様式Cは商品経済と市場経済を中心とし、交換様式DAの高次元での回復とされるが、森山氏はDにおける「高次元での回復」の意味合いが問題となると述べた。その回復を、どのような社会プロセスとして思い描くのかは、誰が社会の構成員で誰を異邦人と見なすのかという問いとも関わるし、商品経済と市場経済を中心とする交換様式Cと、交換様式Aの高次元での回復であるDがどのように混ざりあうのかという問いとも関わる。氏は、交換様式Cは匿名性のもとで交換が行なわれるが、互酬性は記名性の水準での交換であることに注意を促し、第3の水準として共同体を共同体として発足させる不特定多数への贈与というものがあるのではないかと展望を示した。

3に、森山氏は、社会の全体性にアクセスできるのかという問いについては、モースにおいて社会の全体性という概念は、具体的・客観的なものではなく、それ自体がヒューリスティックな概念であり、モースは目の前の事象からそれを説明できる因果体系を想像するアブダクションの立場に立っていたとの理解を示した。

森山氏からの回答を受けて、山田氏はさらに、主体客体の対立を軸とする近代的主体性を「空虚な中心のまわりに形成される関係性の束としての個人」という概念で乗り越えるのは問題を孕むのではないか、また「よそもの」であるほかない2つの人間集団が出会うときは、戦いの可能性も含めた「離れる」か「つきあう」かの二択しかなく、そしてあらゆる経済システムの根底にはこの「よそものとのつきあい」という問題があるというのがモースの思想のもっとも重要な基盤なのではないかと問いかけた。これに対して森山氏は、主体と客体という構図そのものを相対化することのモーメントの重要性を指摘するとともに、つきあいの技法とは相手の主体性を踏まえつつ、こちらの主体性も出していくことにあるのではないかと回答した。

フロアからは、堀江郁智氏がシモンドンの個体化論について、赤羽悠氏がモースの社会主義における合理性と意思について、それから民族学者としてのモースが展開した内在論に依拠する存在論について質問をした。三浦信孝氏は、おもに山田氏に対してモースの協同組合的社会主義と柄谷行人のアソシエーショニズムの関係について、藤岡氏に対してはルイ・デュモンの個人主義とホーリズムの対概念についてと、ルソーの一般意思(volonté générale)と個別意思(volonté particulière)は利益・関心(intérêtと功利性・有用性(utilité)の思想史の観点からはどのように理解できるかについて、さらにはルソーとモースの関係について森山氏に尋ねるなど、活発な質疑応答が行なわれた。

報告者:伊達聖伸(東京大学教授)