2022年5月6日(金)、本年度Sセメスター学術フロンティア講義「30年後の世界へ——『共生』を問う」の第四回がオンラインと対面のハイビリッド形式で開催された。今回は、生物保護学の専門家・呂植氏(北京大学)が、「Living in Harmony with Nature: Is It Possible And How?」をテーマにして英語による講演を行った。呂氏は、学術研究を進めると同時に、パンダ保護をはじめとする様々な環境保護活動に現場から取り組んできた第一人者であり、2007年に北京で誕生したNGO法人・山水自然保護センターの創設者でもある。
こうした現場からの豊かな経験を踏まえて、今回の講演では呂氏自身が今まで関わってきた自然保護プロジェクトに焦点を当てた。氏は、三つの異なる地域における人間の活動と自然の関係を取り上げ、小さな事例に潜む大きな発見と新たな可能性について紹介した。また、世界共通の課題となる環境問題を前に、私たちの自然保護に対する認識と価値観そのものの大幅な再検討が要求されていることも明示した。
報告者にとって印象的だった点の一つは、学生と呂氏のやり取りの中で言及された「言語」の問題であった。環境保護活動は世界規模で取り組まなければならない課題でありながら、その議論は主に英語を媒介にしている。ところが、環境保護がもっとも必要とされている地域はむしろ「非英語圏」に当たり、現在の国際的な取り組みには充分に包括されているとはいえない。多言語化された議論は、問題の発見につながり、より良い対処方法を提供することができる。まして、たとえ英語にしろ中国語にしろ、一つの言語のみでは人間を含む生物の多様性が確保できるとは考え難い。報告者は、私たちの価値観の再検討が必要とされるが、多言語によってこそ新しい地平が拓かれると考える。なぜなら、呂氏の取り上げたチベット仏教と自然保護の事例が示唆しているように、私たちが普段使い慣れている「言語」ではなかなか想像できない世界が、別の「言語」においては既に現実をなしているかもしれないからである。
報告者:ニコロヴァ・ヴィクトリヤ(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)「保护大熊猫就是保护人类自己」とは、どういうことだろうか。この言葉を検索したところ、あるページには「生物多样性保护是生态系统保护的重要组成部分,具有重要的生命科学价值,保护生物多样性,就是保护人类自己。(来源:群众新闻)」とあった。つまり、自然保護・生物多様性保護は、人間が住むべき地球の生態系を守るためにするのであり、さらには科学の進歩のためにするのだとここでは説得されている。だからこそ「就是保护人类自己」なのである。しかし、私はここに違和感を覚えるに耐えない。なぜなら、自然保護の最終的な目的を人間活動に転嫁してしまえば、将来、他の人間本位な目的の前に屈する恐れがあるからだ。言い換えれば、自然保護には自分達にも利益があるからこれをするのだ、という態度では、未来においてより大きな利益のためにこれを投棄してしまう可能性が残る。思うに、自然保護はそれ自体に価値が見出されなくてはならない。自然保護を真に強固なものたらしめるには、もしこれが人間社会の利益に背反することがあっても、それでもこれを続けるべきであるという社会合意が必要だろう。まとめに Only when the value of nature be recognized and appreciated by the entire society, could conservation be mainstreamed. とあったが、自然の価値が理解・受容される上で「どのように」理解されるかはヴァイタルである。(文科一類)(2)(前略)最後に,成果とともに印象的だったのは,呂先生の「ポジティブになれるのは,人々との出会いがあるからだ」という発言である.環境問題は深刻でありながら,人々は安易な誘導によっては往々にして動かない.だからこそ,それぞれの正しさと向き合い,人々が協力して環境問題を解決したいと願うような働きかけが求められる.呂先生がおっしゃった教育や啓蒙というのは権力的なものではなく,対話的な働きかけによる学びの意味なのだと思う.私は,正しさを排除するのではなく,包括的な意味を持つものとして,環境問題の解決にあたり,未来を生きる公共的な市民としてこの社会を次世代の人々へと引き継いでいかなければならないと考える.(理科一類2年)