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2022.05.13

【報告】金子文子『何が私をこうさせたか』を読む

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昨年度の授業では幸徳秋水のあとに鶴見俊輔を読んだが、そこには石川三四郎をあいだに挟めばアナキズムの流れでつながるとの見立てがあった。しかし、幸徳秋水のあとに大逆事件の系譜として朴烈事件を取りあげ、金子文子を経由しても鶴見俊輔にたどりつけるという視点は去年の自分にはなかったものである。それに気づいたのは、今年1月に「GYAO」で無料配信されていた映画「金子文子と朴烈」(韓国では2017年/日本では2019年に一般公開)を観たことによる。

1923年91日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人暴動」の流言が飛び交い、武装した自警団や警官によって多くの朝鮮人が虐殺された。916日には、憲兵大尉の甘粕正彦らがアナキストの大杉栄と伊藤野枝そして彼らの甥で若干6歳だった橘宗一を殺害している。朴烈は93日に保護検束の名目で、1922年から同棲生活をしていた金子文子とともに逮捕された。

朴烈(1902年生まれ)は、1919年に31運動に参加し、同年秋から日本で抗日闘争を展開していた。文子と一緒になってから、在日朝鮮人と日本人とで構成される不逞社を結成し、『太い鮮人』という機関雑を発行していた(当時の朝鮮人に対する蔑称「不逞鮮人」のスティグマを逆手に取るユーモアと義侠心が見られる)。民族主義でも社会主義でもないアナキズム団体だが、取調べ中に文子が皇族や政治の実権者に爆弾を投げようかと考えたこともあった、朴とそれについて話し合ったこともあった、上海から爆弾の入手を試みたことがあったという証言から、大逆罪適用の可能性が出てきた。適用されれば大審院での審理のみで死刑となる。

1925年7月に金子文子と朴烈は大逆罪および爆発物取締規則違反の容疑で起訴され、1926325日に死刑判決が言い渡されたが、45日には恩赦によって2人は無期懲役に減刑になった。恩赦が出たのは朝鮮人の暴動をおそれたためとも言われる。文子はその減刑状を受け取らずに破り捨てたが、当時は2人とも感激して受け取ったと報じられた。その後2人は市ヶ谷刑務所から別々の刑務所に移送され、文子は723日の早朝に独房内で縊死したとされている(自殺と言われているが、議論の余地もあるようだ)。

『何が私をこうさせたか』は、起訴された1925年の夏または秋頃から、自分が確実に死刑になることを意識しつつ「遺書」として執筆したものである。不逞社の仲間に託された原稿はところどころハサミで切り取られていて簾のようだったというが、加筆添削した栗原一男の手によって死後5周年の1931年に出版された。

本書で朴烈と出会ってからの経緯が描かれるのは最終盤で、金子文子(19031926)の幼少期からの過酷なという形容詞を使うほかない半生が、しかし湿っぽくはない筆致で綴られていく。生まれ育った家は貧しく、また親が戸籍登録をしなかったために、彼女は無籍者として社会の底辺かつ外部から同時代の日本社会を眺めることになった。最も古い父親の思い出は悪いものではなかったが、やがて父は母の妹(文子の叔母)と夜逃げする形で文子を捨てた。母は男に依存しないと生きていけない性質だったようで、同じような失敗を繰り返した挙句、文子を女郎屋に売ろうとしたこともある。無籍者ゆえ学齢に達しても学校に通えず、通えることになっても級友とは違う扱いを受けた。朝鮮に渡っていた父方の祖母は、文子を家の跡継ぎにと迎えにきたが、いざ芙江にあったその岩下家で暮らし始めると、素直に言いつけにしたがわないのを生意気と思われたのか、徹底的にいじめ抜かれて「地獄」のような日々を送る。年頃になると無駄金がかかると思われたのか、体よく日本に帰される。自分の身を立てようと東京に出て苦学生をし、経済的・精神的・性的彷徨を経た末に朴烈に出会い、同志として、交際相手として、共鳴していく。

金子文子『何が私をこうさせたか』(岩波書店、2017年)。

前回読んだ安丸良夫『出口なお』と比較すると、そもそも評伝か自伝かという本の形式の違いがあるが、なおと文子の2人は共通点と相違点を対照させてみると面白い。「無学文盲で、誰からもほとんど注目されることのないような貧しい老婆としてのなお」(安丸良夫)に対して、金子文子は「小学校さえまともに行っていない」(鶴見俊輔)無籍者の若い女性だが、ともに自分の生き方を通じて日本社会の体制批判にまで進んだ。なおの文明批判にも似て、文子も貧窮の度を増す田舎とそこから利益を吸って肥え太る都会の姿を対照的に描いている。通俗道徳を生きたなおは追い詰められた果てに「神がかり」を起こしたが、『何が私をそうさせたか』で最も印象的な場面のひとつは、朝鮮で父方の祖母たちから虐待を受けた13歳の文子が「いっそ死んでしまおう」と芙江を流れる白川の淵に身を投げようとしたところ、油蝉が鳴くのを聞いて「世にはまだ愛すべきものが無数にある」と開眼するくだりである。ブレイディみかこはこの箇所に触れて、「文子の楽天性は、どん詰まりで返すきびすのような、砂が下に落ち切った砂時計がひっくり返るときのような、起死回生の裏返りを見せる」と述べている(『女たちのテロル』)。なおの場合は憑依した神が筆先を書かせたことになっているが、文子は自分で文字を綴って自分の思想を表現した。宗教者なおの世界観には終末思想が色濃いが、社会主義に親しんだ文子は自分の境遇では「今の世では、苦学なんかして偉い人間になれるはずはない」とはっきりと悟る。通俗道徳に支えられていたなおは禁欲主義的だが、「若い生命は伸びたがる」と記した文子は生命主義的である。なおと王仁三郎の関係(開祖と聖師)、文子と朴烈の関係(同志にして恋の相手)も比べてみると面白いかもしれない。瀬戸内寂聴は、『遠い声』で管野須賀子と幸徳秋水、『美は乱調にあり』と『諧謔は偽りなり』で伊藤野枝と大杉栄、『余白の春』で金子文子と朴烈の関係を描いている。出口なおは「利己主義(われよし)」の世の中を批判したが、出家して瀬戸内晴美から寂聴になった彼女の座右の銘は「忘己利他(もうこりた)」だった。

管野須賀子について書いた瀬戸内寂聴に、次は金子文子について書くよう勧めたのは鶴見俊輔だったという。授業参加者の1人(SNさん)は、最初の週に「文子はずいぶんひどい大人に囲まれて育ったのに、どうして高潔な正義感をまっすぐに保つことができたのか」という問いを出してくれたので、鶴見俊輔が『何が私をこうさせたか』の書評で文子を「誇り高い彼女」と評していることに思い当たった。質問には、経済的には貧しく社会の底辺にあり、行政的には無籍者として社会の内部で苦しみつつその社会を外部からも眺めえた彼女には、逆説的な高貴さがあるのではという趣旨の返事をした。するとSNさんは次の週に、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で貴族性を「社会階級」ではなく「苦行者」としてとらえているくだりを参照しながら、文子が「私自身の仕事」と呼ぶものについて議論を掘り下げてくれた。

宗教と世俗の観点から『何が私をこうさせたか』が興味深いのは、文子が「私自身の仕事」を見出すに至るまでに、宗教と社会主義を遍歴していることである。白旗新聞店の売り子として苦学生をしているときに彼女の売り場の近辺では、仏教救世軍が王法為本を唱え、救世軍が讃美歌を歌い、社会主義者が演説して、互いにいがみ合っていた。新聞店を追い出された彼女は、行き場をなくして、一、二度会ったことのある救世軍小隊長のもとを訪れる。すると「いつの間にかクリスチャンの仲間」になっていた。しかし、キリスト教徒の下宿を出る頃には「基督教」は「人の心を胡魔化す麻酔剤にすぎないのでは」と思うようになっていた。そうして出会った社会主義は、文子にとって格別に新しいものではなく、それまでの境遇から培われていた自分の感情の正しさに理論を与えてくれたにすぎなかったという。社会主義思想は、彼女の心のなかで燃えていた「反抗」や「同じような境遇にある者」に対する「同情」に「ぱっと火をつけた」が、彼女はそれを教条的に受け入れることはしなかった。指導者が権力を握れば「それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってすることにすぎない」点を見抜いていた。

金子文子のアナキズムには、虐げられた者たちへの同情がある。朴烈の詩「犬ころ」を読んで感銘を受けた文子に触れて、「弱い者たち同士は互いに助け合って生きてゆくしかないというという悟りこそが、アナキズムの真髄であろう」と『ケアの倫理とエンパワメント』の著者である小川公代は書いている(「女たちのアナキズム――〈生〉を檻から解放する」『文學界』20224月号)。そして文子は、自然や動物とりわけ犬に深い愛着を抱いていた。「私は犬が大好きだ」という彼女は、居所や行くところのない自分自身を「野良犬」や「泥棒犬」にたとえている。朝鮮の祖母と叔母の家にも犬がいた。「犬と自分は同じように虐げられ同じように苦しめられる最も哀れな同胞かなんかのように感じていた」。そのような経緯があってこそ、朴烈の「犬ころ」という詩との出会いもあったのだろう。

犬に救われる。もっと言えば、犬が救い主である。そう解釈できるメッセージが、『何が私をこうさせたか』というテクストには残されている。朝鮮から郷里の村に戻った文子が、叔父の飼っている犬と遊び出すシーンがある。犬の名前を尋ねると、叔父は「エス」と答える。

「エス? 変な名前ね、エス! エス! エスお出で!」

そしてエスを抱きしめた文子は、「エス、お前は仕合わせかい」と小声で呼びかける(214215頁)。

のちに東京に出た文子が、新聞店を追い出されたときのこと。すでに言及したように、他に行く当てもない彼女は、救世軍小隊長のもとを訪れるのだが、そこでは集会が開かれており、祈祷が済むと、信者たちによる「あかし」が始まった。そのとき文子は、側にいた老女が「わしゃ、エス様に救われてほんとに仕合せです」と言うのを聞くのである(317頁)。「イエス」ではなく「エス」と文子が記したのは確信犯だろう。

朝鮮の祖母と叔母の家にいた犬は、「あの寒い寒い朝鮮の冬の夜を、筵一枚与えられずに外に寝させられた」。文子の脳裏には「小さい時分、父が刺し殺した犬の哀れな死に様」も蘇る。叔父のところにいた犬「エス」と遊んでいて文子が思い出す犬の姿は、貧しい家に生まれながらも苦行を重ねて高貴に生き、ほとんど裸の状態で人の手によって殺されたあの「エス様」のイメージに驚くほどよく似ているのである。

詩で名前を知った朴烈を初めて実際に見たときの文子の感想を、これに重ねてみよう。「あの人、まるで宿なし犬見たようね、それでいてどうしてあんなにどっしりしているのだろう? まるで王者のような態度だわ」。「宿なし犬」みたいな朝鮮人が「王者のよう」であること。文子にとっては、ここに(イ)エスがいるということだったのではあるまいか。

キリスト教に近づいて離れた文子にそれはおかしいと思うかもしれない。しかし、文子が離れたキリスト教とは別のキリスト教というものもあり、それはもはやキリスト教と呼ばなくても別に構わないものかもしれない。朝鮮の祖母と叔母の家にいた頃、女中部屋に追いやられて、若い文子はこのままではいけない、何かしなくてはいけないと焦燥する。自分自身の使命とは何かを追い求め、男にすがる生き方をしてきた母の姿を反面教師にしながら、朴烈を同志とする「私自身の仕事」を見出すに至る。そのような文子の姿に、授業に参加した若い学生たちは総じて共感を抱いたようで、そのうちの1人(HTさん)が「やりたいことがなかなかわからなかったけれども、それを見つけた文子には召命(コーリング)があったということですね」と言った。

ブレイディみかこの『女たちのテロル』は、金子文子のほか、イギリスのサフラジェットの闘士エミリー・デイヴィソンとアイルランド独立運動の闘志マーガレット・スキニダーを論じた本だが、そのあとがきは「ガールズ・コーリング」と題されていて、これら3人に呼ばれるようにして本を書いた経緯が綴られている。その最後の見出しが「フミコ・コーリング」で、そこでは金子文子『何が私をこうさせたか』が初めて刊行された1931年に林芙美子が『読売新聞』に寄稿した書評の一節が引用されている。「これこそはえぬきのプロレタリヤ小説である。我々の聖書でさへある」。この境地まで行けば、プロレタリア文学と聖書を重ねてみても構わない。ここへさらに「仏教」も重ねてみようか。瀬戸内寂聴は出家直前に書いた『余白の春』で、文子の死の直前に市ヶ谷刑務所に面会に行った望月桂が描いた文子の肖像画は「林芙美子の生前の写真顔に非常によく似ている」と評している。新聞販売をしていた時代の文子の周りでは、仏教とキリスト教と社会主義が互いにいがみ合っていたが、林芙美子の書評と瀬戸内寂聴の寸評は、仏教とキリスト教と社会主義を別の回路でつなぐことになっている。

報告者:伊達聖伸(総合文化研究科)