今学期の東アジア教養学「世界歴史と東アジアIII」では、昨年度に続き「世界歴史」の観点から、またグローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)のキャラバン・プロジェクト「「小国」の経験から普遍を問いなおす」のテーマとして、再検討に値すると思われる近現代日本の宗教や世俗に関係する「古典」を2週間かけて検討していく。
選ぶ本は基本的に文庫か新書で入手しやすいもの。1週目は、教員側が著者と当該書物の位置づけおよび内容を概説的に示し、学生には読んで興味深いと思った点を挙げてもらい、議論を通して掘り下げるべき論点として浮かび上がらせていく。2週目は、学生のプレゼンが中心で、当該書物におけるより踏み込んだ分析、他のテクストなどへの接続を試みてもらう。
昨年度最後に読んだのが石牟礼道子の『苦界浄土』で、女性が書いたものを意識的に取り入れようと、今学期の前半は安丸良夫『出口なお』、金子文子『何が私をそうさせたか』、茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』を取りあげる。最初の著者は男性だが対象が女性教祖、2人目は社会主義者またはアナーキスト、3人目は文化人類学者とは言えないかもしれないがアイヌの聞き書きを行なった人物である。幕末維新から明治期、大正期、戦後のそれぞれ互いに距離感のある3人における「宗教」の位置づけも考えてみたいと思っている。
安丸良夫(1934〜2016)は、言わずと知れた日本民衆思想史研究の第一人者。少年期に終戦を迎え、1960年の安保闘争を「忘れがたい」という世代に属する。「近代化論者」との差異を意識し、民衆の視点から「近代化していく日本社会の偽善と欺瞞のふかさ」、「歴史の暗闇にうち捨てられていった人々の想いの重さ」に光を当てたいとの思いを抱いたという(『日本の近代化と民衆思想』「あとがき」)。
岩波書店創業100年に当たる2013年に『安丸良夫集』が全6巻で出ているが、最終巻の座談会で成田龍一が、「書き下ろし単行本、統合性の高い本は、敢えて収録しない方針で編集に臨みました」と述べている。該当書は『出口なお』、『神々の明治維新』、『近代天皇像の形成』、『現代日本思想論』の4冊で、島薗進はそのなかで「安丸さんが一番愛着がある本は『出口なお』じゃないだろうか」と応じている。
本書『出口なお』の関心を支えているのは、「無学文盲で、誰からもほとんど注目されることのないような貧しい老婆としてのなおが、どのようにしてこの世界の全体性についての独自の意味づけに到達してゆくのか」、またその「意味づけの独自性」はどこにあるのかである。そこに焦点を合わせながら「日本人の精神史的伝統」における位置づけも探ろうとしている。
安丸によれば、なおは「通俗道徳」によって自己規律・自己鍛錬をしていた民衆のある意味では典型だった。この民衆のエートスによる生き方は、条件が整えばそれで幸福に生きることができるが、うまくいかないときにも通俗道徳の説得力は簡単には失われない。むしろ、努力すればするほど、亀裂と疎外が深まる場合がある。その果てになおの「神がかり」が起こった。
すでに金光教との接点があったなおに住みついた「未知の神」は、「艮の金神」を名乗り世の中の根本的な変革を要求してくる。「おかげ」をいただく金光教の発想とはどうも様子が違う。自分に憑依した「神の神格」を知ろうとしたなおは、「神を見分ける」能力を持つ上田喜三郎(のちの出口王仁三郎)と出会い、金光教から自立した教団の教祖となる。開祖なおの言葉は「明治国家の全体」を「告発し、トータルに拒絶したもの」だったが、聖師と呼ばれる王仁三郎は「国家神道」の立場からの会則を設けて合法的な活動を可能にする。王仁三郎がいなければ、なおのメッセージは広く伝わることはなかったが、なおのメッセージは王仁三郎によって別のものになった面もある。
「小国」論の観点から出口なおと王仁三郎の思想を検討すると、そこには魅力と危険の両義性や逆説が認められる。なおの筆先によれば、日本は「小さい国」で、神が面倒を見てくれなければひとたまりもない。「日本は神道、神が構はな行けぬ国」、「外国は獣類の世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国」である(「初発の神諭」)。「外国人よ用意を致されよ」と警告するなおは現代の基準に照らせば危険な排外主義者(ゼノフォビア)のようにも映るし、「種痘は穢れ」と主張するなおは現代のコロナ禍での反ワクチン派をも連想させる。しかしこれは「原神道的なナショナリズム」であって、国家神道的なものではなく、外国は「利己主義(われよし)」で「獣類(けもの)」の魂だと告発するなおは、反文明的で排外主義的な小国主義者と言える。大国ロシアとの戦争である日露戦争は、負けた日本で立て替えが始まるとなおの終末的期待をかき立てたが、日露戦争に日本が勝利すると信者は教団から離れた。
教団を立て直して大きくした王仁三郎は、なおの社会批判の精神に強く共感する一方で、なおの終末的世直し思想を迷信のように見ていた節があり、正統的で国家主義的な神道思想をむしろ先回りして取り入れたところさえある。日本の体制的イデオロギーと妥協をはかりながら外来思想の長所も取り入れようとする「モダン」なスタイルで、「日本魂」には「平和」「文明」「自由」「独立」「人権」などの概念が取り入れられている。なお流の排外主義は見られない代わり、日本主義や神道こそが最も普遍的で優位に立つという論理になっている。こうなってくると、もはや国家のイデオロギーに迎合しているのか、カムフラージュされた抵抗なのか、天皇制国家よりも過激な超国家主義なのか、見分けるのがかなり困難になってくる。
「出口王仁三郎の思想」(『安丸良夫集』3に所収)によれば、第一次弾圧(1921年)のあと王仁三郎は『霊界物語』という「物語の形式」を編み出して、現実の社会を霊界の戯曲において暗に批判する方向を開拓した。また、諸外国の宗教運動との協調を進め、日本主義と普遍主義を媒介した。しかし、これは「全体としてみれば、日本の帝国主義的な進出政策と大本教の実践活動との結びつきは、否定しえない」と安丸は指摘する。満州事変後は軍部や右翼諸団体とのかかわりを強めて「大本教団の実践がファシズム運動と区別のつかないものになってゆく」。国家にすら管理しきれない皇道主義的ラディカリズムの芽を摘むための第二次弾圧(1935年)があまりに徹底的だったため、結果的に大本教は戦争協力をしなかった稀有な宗教団体となった。
大本教から分派してできた宗教団体は多い。生長の家もそのひとつである。戦後の宗教右派の代表格として日本会議の源流となる一方で、現在の教団はエコロジー志向で脱原発を唱えている様子を見ると、その母胎であった大本教の振幅の広さとも対応しているように思われる。
ジェンダーの観点から見ても、安丸良夫『出口なお』あるいは大本教は興味深く読むことができる。大本教では、開祖なおは「純粋できびしい正しさ」を特徴とする「変性男子」(へんじょうなんし)、聖師・王仁三郎は「この世界の汚れた具体性との媒介」を行なう「変性女子」(へんじょうにょし)とされ、実際の性と宗教上の役割としての性が交錯し、2人ともいわば両性具有的になっている。
仏教の「変成男子」(へんじょうなんし)は、女性はそのまま仏になることは難しいので、いったん男性になってから成仏するという考え方で、仏教における女性差別のひとつとも言われてきた。大本教の「変性男子」は、身体は女性だが霊的には男性という考えで、これを逆転させた形で、身体は男性だが霊的には女性である「変性女子」という対概念を持つ。ここには、ある種の男女平等観があるとも言えよう。
ただ興味深いのは、受講生のひとり(N・Mさん)が、「変性女子」=「王仁三郎」が持ち合わせている女性的な面(多様なものを包摂し、人間の弱さや愚かさを受け入れる優しさを持つ)と男性的な面(社会的経験を生かして宗教を時代とつなぐ)のギャップは小さく、「変性男子」=「なお」が持ち合わせている男性的な面(苦難に耐える強さ、逞しさを持ち、神の言葉の厳しい告知者として振る舞う)と女性的な面(家において完璧な献身という犠牲を払い、女が持つとされるより深い原罪性から神の意思を代弁するにふさわしい存在とされる)のギャップは大きいのではと指摘したことである。別の言い方をすると、安丸の見解あるいは大本教の教義とは異なり、「この世界の汚れた具体性との媒介」は女性的というより、むしろ男性的なのではという指摘である。これは、ある種の男女平等の地平においても残る男性の社会的優位という論点にも通じうる。
安丸自身が『出口なお』を必ずしも女性史研究と位置づけていなかった様子であるのも興味深い。実際、彼は1998年の「全国女性史研究者交流のつどい」において、自分の専門に日本思想史を選んだ頃、「けっして手を出すまいと心に決めた領域」として、「部落差別問題と植民地問題・アジア認識のような問題、そして女性史」の3つを挙げている。とはいえ、自分が取り組んできた「通俗道徳」の研究は「女性史」に関係するかもしれず、この道徳は「家父長制的な家族のなかの女性によってもっとも深く内面化されるもの」と述べている。そのうえで、「家型家族と「通俗道徳」は、戦後的な価値観からすれば前近代的に見えますが、じつは、近代化の過程でむしろ強められ、下層の民衆にまで浸透した」と指摘している(「「近代家族」をどう捉えるか」『安丸良夫集』1)。この発表に対して同じ場で報告した上野千鶴子は、「「家型家族」が近代化の過程で生まれたということに、安丸さんが賛成してくださったのは、大変心強い援軍であると、頼もしく思いました」と応じている。
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今回の授業では扱いきれなかった問いやテーマはほかにもある。かつては一般化していた通俗道徳が今日では必ずしも広く共有されていないとするならば、「零落するだけ零落したとき、特殊に自由な境地が拓かれつつあった」とか、「みずからの生の貧しさを、かえって、根源的なゆたかさにつくりかえた」といったことがなお(の時代)においては実際に起きたとして、そのようなことは今日でも起こりうるのだろうか。グローバル化にともない格差が拡大するなか、道徳の共有も難しくなっているとするならば、そのような逆説的大転換のための条件は、いっそう厳しくなっているのではないだろうか。それとも、膨れあがる「ブルシット・ジョブ」の裏側で、そのような「チャンス」は実はどこかで密かに生まれつつあるのだろうか。
なおにおいて色濃く認められる終末観は、今日の私たちにとってリアリティのあるものだろうか、それともあまりリアリティを感じることができないものだろうか。私たちはカタストロフィーの時代を生きていて、慣れてはいけないものに慣れていたりするのだが、地球環境の問題などを考えるときに、なおの危機意識や強い社会批判の態度は参考になるのではないか。
今回中心的になった話題も、なかなか結論めいたことを述べるのが難しく、議論をさらに発展させる余地がある。たとえば、なおの排外主義的な小国論をグローバル化の時代に擁護することはできるだろうか。現代日本の病理の型も、そこを突破する可能性も、さらに危険な方向に突き進む恐れも、ある意味では大本教にその原型のようなものを見ることができるのではないか。安丸良夫『出口なお』を今回読んで、このような問いを引き出すことができ、学生と議論することができたのは、貴重な経験であった。
報告者:伊達聖伸(総合文化研究科)