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2021.12.20

閉会の辞に代えて 東アジア藝文書院と一高プロジェクト

閉会の辞に代えて 東アジア藝文書院と一高プロジェクト

この記事は現在編集中のEAAブックレット『一高中国人留学生と101号館の歴史』からの抜粋です。

 


 

1.東アジア藝文書院の理念

 東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, EAA)が旧制第一高等学校に併設されていた特設高等科に関する研究を始めた直接のきっかけは、その駒場オフィスが置かれた駒場キャンパス101 号館がかつての「特高館」、すなわち、一高の駒場移転にあわせて新たに建築された特設高等科校舎であったからだ。ここでは、EAA の理念を紹介しながら、EAAがなぜ、「一高プロジェクト」に注力するのかについて簡単に紹介したいと思う。

 EAA は2019 年度に発足した新しい研究教育プロジェクトであるが、その最大の特徴は北京大学と東京大学とのジョイント・プログラムであるという点にある。設立の経緯に関しては、『駒場の70 年』(東京大学出版会、2021 年)の中で詳しく述べたので省略するが、そのエッセンスをまとめると、日本と中国を代表する二つの大学が「特別な関係」を築くために、新しい東アジア学を共に創造することがこのプログラムに託されているということになる。

 EAA の理念はそのロゴマークに集約されている。全体の意匠は「魚尾」(線装本に閉じられた一葉一葉の紙の中央の折り目に附された目印)を象ったもので、左側の赤と右側の青がそれぞれ火と水を表し、それらを下で支える土色とともに、三色の基本カラーを構成している。赤と青はまた北京大学と東京大学のスクールカラーを模したものであることにも、両大学の事情に通じている人なら容易に想到することだろう。火と水のイメージは、現在EAA 院長を務める中島隆博さんと小林康夫さんによる対談形式の共著書『日本を解き放つ』(東京大学出版会、2019 年)のなかで、小林さんが放った「火と水の不可能な結婚」ということばがそのままヒントになっている。

 火と水はお互いに打ち消し合うものだから、それらが「結婚」することはふつうに考えれば不可能であろう。しかし、両者は共に、わたしたちが生きる宇宙を構成する基本的な要素であることもまた、古代の賢人たちが認識していたとおりだ。東アジア漢字圏の伝統にそれをたどってみると、漢代には、陰陽の二元的作用に加えて木、火、土、金、水という5 要素(五行)がお互いに打ち消しあい(五行相克)、またお互いに生じ合う(五行相生)という陰陽五行説が盛んに行われていたことに思い至る人も少なくないだろう。また、宇宙の生成要因として火と水の作用をより端的に表したものとして、例えば、『淮南子』がある。その中で「天文訓」においては、道(不断の生成変化プロセスを繰り返す宇宙の全体)における天地生成のプロセスが述べられており、天地に充満する陰陽の精(エネルギー)の作用について次のように述べられている。

 

天地の精が合わさると陰陽となり、陰陽の精が集まると四時となり、四時の精は散らばって万物となる。陽が積もってできた熱気は火を生じ、火気の精なる者は日となった。陰が積もってできた寒気は水となり、水気の精なる者は月となった。日月がながれでた精なる者は星辰となる。天は日月星辰を受け、地は水潦塵埃を受ける。(『淮南子』天文訓)

 

 陽と陰という二大エネルギーが作用することによって火と水が生じ、それらは太陽や月、さらには星々となっていく。それのみならず、火と水は天と地を満たしていくというのである。

 思えば、わたしたちがその生を受けている地球の表面には、天上の太陽光と地表の水とが相互に作用して巧みな大気の循環システムが成立している。「火と水の不可能な結婚」は、この地上において実は最初から果たされていたのだ。一方、今日、人類が地中に閉じ込められていた化石燃料を掘り出して大量に消費することによって、その循環システムは異状をきたし、人類の生存そのものを脅かすまでに深刻化している。そして、人類はこの加速する気候変動を生き抜くべくテクノロジーを駆使しながら「持続可能な発展」の可能性を追求している。だが、そこで真に問われているのは、事ここに至ってなおかつ「発展」への信仰を疑うことなく、テクノロジーによる生命と物質の止めどない改変を試み、中国哲学にいうところの「道」そのものを我がものとして思い通りに支配せんとする意志と欲望の是非そのものであるはずだ。これを問うためには、少なくとも、近代と呼ばれ、また人新世とも呼ばれる、わたしたちの産業文明そのものをもう一度見なおさなければならないだろう。EAA は、こうした世界的課題、人類的課題を見据えながら、北京大学と東京大学が協力し合って次世代の若者と共に新しい学問のあり方を模索する研究教育一貫プログラムである。

 「火と水の不可能な結婚」は、一見するとお互いに打ち消し合い、反発し合っているかのような両者が、実は共にその持てる性質を活かし合うことによって、世界の循環的平衡を保つ動力として機能し合っているのだということをわたしたちに気づかせてくれる。これを日本と中国という二つの国の関係に当てはめた場合、その寓意が示唆することの意義深さについては贅言するまでもないだろう。近代以降の両国の歴史は「友好」(一高時代はしばしば「親善」と称された)というトーンを一方で維持しながら、現実の関係においては著しいきしみ音を立て続けてきたと言うべきである。両者の平和な結合はつねに望まれ続けてきたにもかかわらず、蜜月期間が長かったとは到底言えない。そうした不幸な現実がその間に横たわっていることを否定することは、いかなる意味においても不可能だろうし、倫理や正義にも反する。それは、産業文明の副産物でもあったのかもしれないが、物質の問題であるよりも、より人間の思想の近代によって産み出されたものである。そうであればこそ、わたしたちは、もう一度、この「不可能な結婚」に挑んでいく必要がある。そうすることによって、わたしたちは、近代を否定するのではなく、それを負の遺産ともども受け継がなければならない。新しい平和と善の生成的循環に寄与する未来は、その先において初めて切り拓かれていくだろう。

 

2.一高プロジェクト発足の経緯

 こと駒場キャンパスにおける一高時代とそこでの特設高等科に対して視点を向けることは、第二次世界大戦から今日に至るまでの複数世代の歴史を経て、今日まで受け継がれている遺産をわたしたちがいかにして清算し、かつ未来の礎に転換していくのかという課題を直視することを意味する。かくして、特設高等科と中国人留学生の記憶を掘り出すことは、まるで運命に導かれるように、EAA のオフィスが101 号館に定められて間もないころに、わたしたちにとって取り組むべき最初の、しかも根源的な研究テーマとなった。当初、目指すところはより単純なものだった。実際に訪れてみるとわかるように、北京大学のキャンパスや建物の中には随所にその歴史が刻み込まれ、通りがかる人々が、キャンパスを彩ってきたかつての校友たちの気配を自然に感じ取る仕掛けが施されている。そのような仕掛けが駒場キャンパスにも欲しかった。101 号館をその手始めにして、特設高等科時代をしのばせる写真や資料を壁に展示できないかと思ったのである。

 駒場キャンパスには1935 年の一高移転に併せて築かれた建築物が今もなお残り、また、一高時代を彷彿とさせる校章や遺構なども保存されている。だから、ここに暮らすわたしたちは、知らず識らずのうちにこのキャンパスに沈澱した歴史のにおいを感じながら日々の仕事に携わっているということができる。古いものが残っているのはただ自然に残っているのではなく、誰かがそれらを残そうと努力してきたからだ。しかし、実はわたし自身は、EAA が発足するまで101 号館がそのような歴史のある建物であることを知らなかった。駒場の同僚たちに聞いても、このことを知っている人は決して多くはないようなので、こと一高時代に築かれていたはずの中国と日本の「特別な関係」の記憶についてはいつの間にか風化して久しかったということなのだろう。折しも、田村隆さんと折茂克哉さんが一高校長を務めた狩野亨吉が残した文書(駒場図書館所蔵)の調査研究を行い、その成果を駒場図書館で公開しているところだった。わたしたちが早速協力を仰いだところ、お二人ともたいへん快く応じてくださることになった。また、藤木文書については、今は同志社に移られた村田雄二郎さんが、故並木頼寿氏の遺品として歴史学部会に保管されている箱詰めの書類が特設高等科に関する貴重な史料であることを知らせてくれた。こうした偶然が機運を醸成し、素人のわたしたちが素朴な願望と共に始めたこのプロジェクトを一気に前に進める大きな原動力になった。

 キャンパスの歴史を知ることは、わたしたちの想像力を開放し、その結果として大学生活そのものを豊かにしてくれるはずだ。とくに、このキャンパスを巣立っていった数知れない先達たちがその後いったいどのように生きていったのかについて、このキャンパスにいながらにして感じることは、これから社会を目指す学生にとっていかに重要であることか。大学で行われる学問は、まず直接的にそこで学ぶ学生のためにあるはずだ。この基本は東大のような研究型大学であっても変わらないだろう。そして、学生はわずか数年間の大学生活を経た後は、そこで得た学問の基礎を携えて、その後に始まる長い人生を歩んでいく。そうした彼らの生活の拠点であるキャンパスは、彼らがそこにいながらにして歴史の気息を感じ取ることができ、それを無形の栄養分として、彼らが自らの未来に対する豊かな想像を膨らませる場であるべきだろう。未来に対する豊かな想像力を養うこと自体は学問の立派な目的であるにちがいない。だとすれば、キャンパスにおける生活もまた、学問の不可欠な構成要素であるのだ。EAA が「新しい学問」を担う組織である以上、駒場の歴史を現在化しようとする努力に呼応し、かつその力の一端を担うことは必然的ですらある。

 では、101 号館の歴史は、かかる意味での学問に対してどのように寄与していくことができるだろうか。くり返しになるが、101 号館の歴史、とりわけ特設高等科の歴史は必ずしも、この駒場キャンパスで学んだ多くの先人たちにとって共通の記憶とはなっていない。それは、特設高等科の存在自体が一高生にとって周縁的なものであったことを如実に表している。駒場の一高時代における特設高等科のそうした周縁性については、本論集の中でも触れられているし、この研究プロジェクトの中でも次第に明らかになって行くであろうから、ここでは詳述しない。1936 年に一高に入学した加藤周一は、「とめどなく進んでゆく軍国主義的風潮」に懐疑的な一高生たちが、日本の植民地主義と「国民精神総動員」とに対する強い批判を、講演に招いた横光利一に向かって容赦なく浴びせかけるさまを克明に記している。だが、その『羊の歌』には、同じキャンパスで同じ時期に学んでいたはずの特設高等科生について、遂に一言の言及もない。大正教養主義とエリート主義のもとで「選良」たることに高いプライドを隠さなかった一高生たちの目に、特設高等科生はいったいどのように映じていたのだろうか。一高から東京帝国大学経済学部に進み、文化大革命後には中国社会科学院経済研究所の教授を務めた朱紹文(一高時代は朱朝仁)について、彼と親交のあった田島俊雄さんは、彼が一高から東大へ進んだことについて「胸を張って」いたと回顧している1。朱紹文にとっても、一高は加藤周一にとってと同じくらい、青春の時代に学問の基礎を固めたかけがえのない場所だったにちがいない。しかし、彼らが駒場で見ていたものは同じではなかったのかもしれない。いや、「一高精神」を称揚し、寮生活とともに一高アイデンティティに誇りを見いだしていた当時の一高生たちにとって、特設高等科は努めて意識しようとしない限り、自分たちの生活との接点が乏しい後景の存在でしかなかったのかもしれない。

 101 号館と特設高等科の歴史を掘り起こすことは、したがって、一高生たちの歴史記憶の背後にある時代の無意識をあぶり出すことにつながる。1935年に当時「向陵」と呼ばれていた弥生キャンパスから駒場に移転する際の勇ましい行軍の姿が、101 号館エントランスに展示されている(「一高中国人留学生と101 号館の歴史展」会場1)。翌年には二・二六事件が起こり、さらに移転3 年目の1937 年には盧溝橋事件(七七事変)が勃発し、日本の対中侵略が本格化する。同じ年の12 月には国民政府のあった南京が陥落したことで全国に慶祝気分が盛り上がったこともわたしたちがよく知るとおりだ。だが、その陰で、7 月以降、多くの中国人留学生は帰国の途につき、中には延安の抗日革命運動に身を投じていった者もいた。また、朱紹文のように敢えて留まって学問を継続する選択をした者もいた。その後は、東亜新秩序建設の政策に呼応して再び来日留学生の数は増加に転じる。特設高等科にもそうした学生はいたであろう2。1943 年から一高の留学生課長を務めた日本史研究者の藤木邦彦は、特別高等警察の留学生に対する警戒が厳しくなったころに、自身も取り調べを受けたことがあるという3

 一高の駒場時代に対する回想は数多ある。しかし、その中で特設高等科に言及しているものは少ない。そして、この事実は、ともすれば、当時における時代の無意識だけではなく、戦後の無意識を構成し、そして今日にまで続いているのではないだろうか。東京大学と北京大学がEAA を介して「特別な関係」を構築しようとするとき、その具体的なプロセスに携わるわたしたちが、真に東アジアから「新しい学問」を希求し、「火と水の不可能な結婚」に挑もうとするのであれば、この無意識の歴史に光を当てる必要がある。

 さらに付言するならば、「火と水の不可能な結婚」が地球の循環的平衡を可能にしているのは、火と水が単に結合していることによるのではない。それらが「不可能な結婚」という逆説的な「結婚」関係にあるからこそ、地球上に暮らす万物の生命が保証されていることに留意しなければならない。そのような関係が東アジアから築かれ、わたしたちがそれに寄与していくのであれば、日本と中国の関係だけに留まることのない、東アジアのそこかしこに刻まれた近代の負の遺産に向き合うことが自ずと求められることになる。101 号館を中心としながら一高の駒場時代を振り返るとは、このキャンパスから東アジアの近代を反省的に振り返ることにほかならないのだということもここで強調しておきたい。

 

3.一高プロジェクトのこれから

 偶然の機縁から始まった一高プロジェクトがこうしてEAA にとっての最重要研究課題になるまでに時間はかからなかった。現在、一高中国人留学生と101号館の歴史を繙く作業は、二つのまったく異なった角度から展開している。一つは、上述の藤木邦彦が遺した特設高等科関連の資料を整理する作業であり、わたしたちはこれを「藤木文書アーカイヴ」プロジェクトと名づけて、特任助教1名(宇野瑞木さん)とリサーチ・アシスタント5名(高原智史さん、日隈脩一郎さん、小手川将さん、横山雄大さん、宋舒揚さん)の体制を組織し、田村隆さんと折茂克哉さんの指導を仰ぎながら、2021 年度末を目標に一応の目鼻を付けることを目指している。もう一つは、101 号館と特設高等科にフォーカスを当てながら、駒場の学生生活自体を一つのフィルムとして作品化する「映像制作ワークショップ」プロジェクトである。こちらは特任助教1 名(髙山花子さん)にリサーチ・アシスタント3 名(高原智史さん、日隈脩一郎さん、小手川将さん)でチームを構成しており、同じく2021年度末までに短編の映画作品を制作する。

 わたしたちは、この二つのプロジェクトが両輪となることによって、特設高等科をめぐる歴史の輪郭を明らかにすると同時に、その背後にあって今日のわたしたちをも規定している時代の無意識に姿を与えることを目指している。どちらも容易に完成させられるものではないどころか、克服すべき多くの困難を含んだプロジェクトであろう。それらを積極的に担おうとする次世代の研究者たちの尋常ならぬ努力こそは、「新しい学問」の一つの実践のかたちであるにちがいない。彼らの奮闘に心から期待したい。

 また非常にありがたいことに、一高プロジェクトが発足して以来、駒場、そして東大の教職員の皆さんや、かつての一高生や駒場の卒業生、そして本論集にも原稿を寄せて下さっている学内外の研究者など、わたしたちの想像を超えた広がりの中で多くの方々が、さまざまなかたちで手を差し伸べてくださっている。こうした大きな社会的期待に応えるべく、わたしたちEAAは今後も誠実に努力していきたいと思う。

 

石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)

 

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1 田島俊雄「朱紹文研究員(1915-2011 年)とその時代──戦時下の日本留学と戦後の中国」『経済志林』87(3・4)、2020 年、p. 305。この論文は、一高プロジェクトを知った田島氏がご恵贈くださったものである。この場を借りて感謝の意を表したい。

2 同上、pp. 273-275。

3 笹山晴生「藤木邦彦先生の思い出」『史聚』41、2008 年、p. 14。