2021年11月6日、東京大学グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)キャラバンプロジェクト「主権の諸条件」第3回ワークショップがEAA共催のもと、オンライン上で開催された。これまでのワークショップでは、第1回にジャック・レズラ氏(カリフォルニア大学リバーサイド校)、第2回にキム・ハン(金杭)氏(延世大学)をお招きし、「主権」について批判的に考察するための議論を交わしてきたが、今回は汪暉氏(清華大学)をゲストスピーカーにお迎えし、 “The Birth of the Century: China and the Conditions of Spatial Revolution” という題で講演をいただいた(講演の様子は東アジア藝文書院のYoutubeチャンネルにてご覧頂けます)。
はじめに石井剛氏(EAA副院長)から紹介されたように、汪氏は現代中国思想史研究の泰斗であり、その著作は既に5作が日本語にも翻訳されている。汪氏の研究は中国における「革命」の歴史を批判的に検討しながら、世界の政治的状況全体へと視野を広げていくところにその卓抜さがある。今回の講演および議論も、具体的な歴史的事象を取り上げつつ、「主権」概念そのものについて吟味しなおす視座を与えるものであった。
まず汪氏は、「主権」概念を単に規範的なものとして捉えるのではなく、むしろそれが成立する歴史的条件と関連させて理解するという趣旨を述べられた。だが歴史的条件を考察するにせよ、その「歴史」をそもそもいかに捉えるべきなのか。ここに汪氏の根本的な洞察が光る。私たちは歴史をしばしば古いものから新しいものへの発展と捉えたがる。あるいはそれに対して、新しいものは古いものの繰り返しに過ぎないのだなどと。こうした把握の前提となっているのは、時間が単一のものであるということ、言い換えれば一つの場所における時間の経過を問題とすれば事足りるのだという認識であろう。ところが20世紀とは、汪氏によれば、まさにこうした前提が崩れ去った世紀であった。汪氏はそれを「空間革命(spatial revolution)」と呼ぶ。20世紀とは、複数の時間軸が共時的・空間的に作用しあうようになり、単に「過去から現在へ」という語り口では理解できなくなった時代であった。
こうした歴史的・空間的状況にあって、政治的運動を方向づける諸概念もまた空間の問題と無縁ではない。つまり、翻訳の問題を避けられない。中国の革命を導いたのは実際のところ、西洋由来の(しばしば日本を経由した)翻訳概念であった。そこでは、元来の歴史的文脈から切り離された、例えば「プロレタリアート」といった概念が、その指すものを中国において新たに探し求めて用いられる、といったことが生じる。しかしこれは、単に概念の誤用といった仕方で片付けられるものではない。というのもこうした概念ないしカテゴリーが、実際にその後の政治的言説を形作ってゆき、また社会的体制そのものを変容させるからである。それゆえ私たちは20世紀の中国を理解する際、単にそれらの西洋由来の概念に従って事態を眺めるわけにもいかず、かといってそれを歪んだ見方として斥けるわけにもいかない。あくまでそうした概念が政治的にどのように展開されてきたか、という点を注視せねばならないのである。
こうした視座のもと、国家の形態および主権というものの含意がいかに変容してきたか、ということが分析される。主権は空間の構成そのものに関わるものであるから、単に「空間革命」という条件の下でその概念の動向が検討されるのではなく、むしろ「空間革命」がどのように起こったかという観点で検討されねばならない。この点に関して汪氏はまず、マルクスの議論とシュミットの議論とを参照しつつ検討する。マルクスによれば、「政治的な中央集権化」は「生産手段の中心化」に基づくものであった。他方シュミットは空間革命を、植民地獲得競争における海洋支配および領土支配の構図に基づいて捉える。それは単に各国の利害をめぐる競争というばかりでなく、カトリックとプロテスタントという宗派間の対立でもあった。この闘争を通じて、「主権国家」の概念は西洋に根付くことになる。
こうした「主権」概念が中国に影響を及ぼし始めたのが19世紀末の清朝の時代であった。こうした場面でどのように「主権」概念が成立し、また力を持つのかということが問題となるのである。中国の革命はこうして、空間革命への応答として捉えられることになる。
講演に続いて、キャラバンメンバーの各氏からの質疑とそれに対する応答、さらにフロアとのディスカッションが交わされた。中島隆博氏(EAA院長)からは、あらためて革命と主権との関係について問われた。王欽氏(総合文化研究科)からは、政治的概念の行為遂行性(パフォーマティヴィティ)についてのコメントと、今日の状況における概念使用についての問いがあった。國分功一郎氏(総合文化研究科)からは、民主主義の可能性をどのように考えればよいのかという問いが投げかけられた。張政遠氏(総合文化研究科)からは、必ずしも領土のカテゴリーで捉えきれない琉球、台湾、また朝鮮半島の「主権」について問われた。佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)からは、技術による主権の変容と、宇宙という新たな「空間」による条件の変化について問われた。さらにフロアからは、国際的な制度と中国の主権との関係についての質問があった。
こうした問いに対する汪氏の応答を大雑把にまとめるならば、ポイントは以下の点にあったと思われる。第一に、主権という概念はやはり単に規範的なものとして用いるのではなく、それが成立してきた政治的状況を踏まえて理解せねばならない。具体的に言えば革命も、理念による鼓吹のみならず社会的動態の帰結として捉えられる。その過程で主権の概念も機能し、絶えず新たに理解されてきたのである。第二に、政治的状況は現在と20世紀初頭とでは大きく変化している。必要なのは今日の状況に即した概念の使用であり、歴史的経緯をつぶさに辿るのでなくても、今日の政治的危機を考えなおすための内在的な批判の視点を持たねばならない。第三に、より具体的な論点として、「人民(people)」がどのように作られてきたのか、また現在形成されつつあるのかという点に注意を向けねばならない。民主主義は「人民」の形成とともに成り立つが、そこには様々な力が関与する。戦争もまた、動員という力によって「市民」を形成してきた力である。空間革命という概念はまさに、そうした諸力を把握するための図式であった。第四に、国家という主体もまた絶対的なものではない。空間革命の過程を描くことで汪氏は主権国家の成立を描き出したのだが、そのことは同時に、国家の地位が新たな秩序のもとで再び変容しうるということを示している。現行のデジタル化の潮流はまさに、国家が絶対的な制度ではなく、むしろひとつのプレイヤーとなるような事態をもたらしている、と汪氏は分析する。
最後に石井剛氏から、今回の講演では触れられなかったものの話題として用意されていた、魯迅の「絶望への抵抗」という論点について問いかけられた。一体私たちはどのようにして「友と敵の二項対立」を超えられるのか、という問いである。それに対して汪氏は、現今私たちの直面しているCOVID-19を取り上げて応答した。今日の状況は「COVID-19との戦争」とも喩えられる。ここには単純に、COVID-19という「敵」に対する「友」としての人類の結託、といった構図を見ることもできるかもしれない。だがより重要なことは、ここで新たな政治的主体が生じていることを見極めることであると汪氏は言う。シュミットは戦争を直ちに国家間のものと見なしたが、争いに立ち向かう「人民」は必ずしも国家に結びついたものとは限らない。その新たな政治的主体の生成にこそ注意を向けねばならない。おそらくは――敷衍して言うならば――その政治的主体の生成に積極的に関与していく点に、「友と敵の二項対立」を超える希望があるのである。
汪氏の講演とそれに続く議論は、私たちが「主権」について論ずる際、どのような状況において主権の概念に訴えようとするのか、またどのようにその概念をパフォーマティヴに用いることができるのかという点について批判的に考える視座を与えるものであった。考うるにそのスタンスは、私たちが人文学を担いつつ政治的状況に関わっていく、そのための条件を示すものであったようにも思われる。
報告者:宮田晃碩(EAAリサーチ・アシスタント)