2021年11月1日、「『近代世界の公共宗教』再読」がオンラインで開催された。宗教学者のホセ・カサノヴァは、1994年に原著が刊行された『近代世界の公共宗教』で、戦後西洋の宗教社会学を席巻した世俗化論を問い直し、近代世界には「脱私事化」した「公共宗教」が存在することを記述的に示しただけでなく、この「公共宗教」が近現代に占めるべき場所を規範的に論じた。今や古典と呼びうる同書の邦訳は、1997年に玉川大学出版部から刊行されたが、その後絶版となり入手困難な状況が続いていた。本イベントは、同書が2021年9月に筑摩書房の「ちくま学芸文庫」に収められたことを記念して企画されたものである。
本イベントは、伊達聖伸氏(東京大学)を代表とする科研「西洋社会における世俗の変容と「宗教的なもの」の再構成――学際的比較研究」の主催であり、同科研から渡邊千秋氏(青山学院大学)、佐藤清子氏(成城大学非常勤講師)、伊達氏が報告者を務め、それぞれスペイン研究、アメリカ研究、ケベック研究の観点から『近代世界の公共宗教』の再読を試みた。さらに特別ゲストとして、同書の翻訳者である津城寛文氏(筑波大学)を招き、翻訳者の観点から『近代世界の公共宗教』を論じていただいた。以下は司会を務めた筆者によるイベントの開催報告である。
最初の登壇者である渡邊氏は、「スペイン現代史研究からみる公共宗教論」と題した報告を行なった。渡邊氏は、日本とスペインにおける『近代世界の公共宗教』の受容を紹介した後、現代スペインではカトリック教会が今日でも特別な地位にあることを指摘した。法制面では、1978年憲法がカトリック教会に他宗教とは異なる特権的な地位を認めている。たしかに近年では、公共空間のカトリック色を薄めようとする動きもあるが、コロナ禍では社会的役割への期待からか、所得税から教会に寄付される額が増えているという。カサノヴァは現代のスペイン・カトリック教会が政教分離を受け入れたことを強調しているが、カトリック教会は実際のところ、法制的にも社会的にも特別な存在であり続けているのである。
渡邊氏はまた、カトリック教会と地域主義の関係の複雑さを強調した。『近代世界の公共宗教』には、カトリック教会は常にバスクやカタルーニャの地域主義を支援してきたとする記述がある。だが渡邊氏によれば、事態はより複雑である。例えばバスクでは、たしかに独裁期に独立運動を支援してETAの闘士を匿った教会もあるが、打倒独裁の大義が失われた後には、ETAの暴力行為が強く非難されてきた現実がある。現在では、教会による独立運動支援の是非に関しては現地の聖職者も大きな葛藤を抱えているという。教会と地域主義の関係を正確に理解するには、スペイン・カトリック教会を一枚岩に捉えてモデル化するのではなく、具体的な地域史に寄り添う必要があるというのが渡邊氏の見解である。
次に登壇したのは佐藤氏である。その報告「21世紀アメリカ宗教と「デノミネーショナリズム」」は、『近代世界の公共宗教』刊行後のアメリカの宗教状況を踏まえ、カサノヴァの議論の先見性と規範性を指摘した。先見性とはどういうことか。カサノヴァは『近代世界の公共宗教』以降、西洋社会における「世俗」と「宗教」の領域分化と宗教的多元化がもたらす「デノミネーショナリズム」の拡大を指摘してきた。佐藤氏によれば、近年のアメリカでは「無宗教」を自称する人が増え注目を集めているが、これもカサノヴァの言う「デノミネーショナリズム」の拡大の帰結として理解できる。「事実」としての宗教的多元化を強調するカサノヴァの議論は、現在もなおアメリカの宗教状況を分析する上で有効なのである。
だが同時に、カサノヴァの「デノミネーショナリズム」論には規範性もある。佐藤氏によれば、カサノヴァは宗教的多元主義が望ましい「規範」であり、多様な思想の共存を可能にすると考えている。しかし、近年のアメリカの宗教状況はこの期待を裏切りつつある。佐藤氏が強調したのは、近頃のアメリカでは「宗教の自由」が公共空間の分裂をもたらしていることである。宗教的多元主義の理念に則って誕生した「宗教の自由」だが、近頃ではワクチン接種や妊娠中絶の是⾮に関して、法的縛りを回避するための抜け穴として期待され、社会の分断を広げているようにみえるという。多元的な公共空間は必ずしも調和に導かれるわけではない。現実の公共空間には常に亀裂が走っているのである。
3番目に登壇した伊達氏は、「ケベックの「静かな革命」はカサノヴァの公共宗教論で読み解けるか」と題した報告を行なった。伊達氏の報告の特徴は、『近代世界の公共宗教』から認識論的視座を析出し、そこからケベックの事例の独自性を分析したところにある。伊達氏はまず、カサノヴァが『近代世界の公共宗教』の時点で、「世俗」と「宗教」の二元論的認識に批判的な視座を有していたことに注意を促した。この視座は、いわゆる宗教概念論に通じるだけでなく、宗教は衰退しているのか復興しているのかという議論を超えて、当該社会において「世俗」と「宗教」はどのように錯綜しているのか、ケベックを含む西洋社会には「宗教的世俗」と呼びうるものがあるのではないか、という問いを可能にするという。
ケベックは20世紀後半、「静かな革命」という社会変化を経験した。伊達氏によれば、その特徴は「世俗化」が「言語」と「宗教」の関係を変化させた点にある。かつてのケベックでは、プロテスタントが多数派の北米において、カトリックとフランス語が「フランス系カナダ人」のアイデンティティを支え、「信仰の守り手としての言語」と言われたように、カトリックが大きな比重を占めていた。だが、静かな革命の世俗化を経たケベックでは、所属率は維持したまま実践率が低下するカトリックの「文化化」が生じ、「ケベック人」のアイデンティティにとっては、フランス語がカトリックよりも重要性を帯びることになった。伊達氏によれば、ここには「宗教」から「言語」への宗教性の転移を見出すことができる。
3人の報告の後に登壇したのは津城氏である。津城氏は『近代世界の公共宗教』を翻訳していた当初から、公共宗教にグローバルな市民社会における人道的な役割を期待し、弱い立場に置かれた者に寄り添うカトリック教会を評価するカサノヴァに共感を覚えていたという。だが同時に、違和感や疑問もある。例えば、カサノヴァは対話による共通善の創出に資するという公共宗教の役割を強調しながらも、「聖なるもの」を求める宗教の動きにはほとんど触れていない。また『近代世界の公共宗教』では、公共宗教の射程がカトリック教会などの制度宗教に限られており、民族宗教やスピリチュアリズムは度外視されている。津城氏によると、公共宗教論にはこれらの非制度的な宗教を加味することも求められるという。
津城氏はさらに、自らの近年の関心と関連させて、現代の公共空間が抱える二つの問題点を指摘した。ひとつは、公共空間の理性的な討議倫理には、感情的な議論や少数者は十分に参加できないことである。これは、アーノルド・ミンデルが深層民主主義論で提起している問題にも関わるという。もうひとつの問題は、言語が公共空間を築く上での壁になっていることである。実際、ある公共空間の公用語の非ネイティヴは、その空間にアクセスする上で必要以上の負荷が求められることになる。この問題に関して津城氏が期待を示したのは、自動翻訳技術の発展である。例えば、情報通信研究機構の先進的音声翻訳開発推進センターでは現在、学術用語の翻訳までも視野に入れた同時通訳の開発が進められているという。
本イベントを通して明らかになったのは、原書刊行から約30年を経た現在、カサノヴァの『近代世界の公共宗教』という古典は、私たちに答えを示すというより、むしろ新たな謎を投げかけていることである。公共宗教の存在感が増すなかで、世俗と宗教の関係はどのように変化しているのか。制度化を逃れる民間信仰やスピリチュアリティは公共空間においてどのような位置を占めるのか。多様な仕方で宗教が進出するなか、公共空間自体はどのように変容しているのか。宗教が分断や暴力を生む事例を眼前に、公共宗教による調和的な公共空間の維持を期待し続けることはできるのか。こうしたアクチュアルな問いを思考しようとすれば、私たちは必ず『近代世界の公共宗教』再読に導かれることになるのである。
報告者:田中浩喜(東京大学大学院博士課程)