2021年6月11日(金)、第9回学術フロンティア講義がオンラインで開催された。講師はロシア・ユダヤ史が専門の鶴見太郎氏(総合文化研究科)で、テーマは「人種・民族についての悪い理論」であった。生物学的に不変の身体的特徴を同じくする人間集団としての「人種」、文化的特徴を共有し、ある程度同族意識を持つ人間集団としての「民族」は、どちらもそれに対応する現実が実体としてあるわけではない、「いい加減」な概念である。しかし、そうしたものが信じられることから、歴史を通して確固とした現実が作られてきたこともまた事実である。それゆえ、人種や民族の概念を虚妄だとして単に批判するのではなく、それらが具体的な環境の中でどのように機能してきたのかを問わなければならない。このような基本的視座から、講義は展開された。
人種・民族概念の歴史
そもそも、人種・民族は近代になって生み出された概念である。講義では、前者についてはゴビノー『人種不平等論』(1853-1855)、チェンバレン『19世紀の基礎』(1899)、後者についてはヘルダー『言語起源論』(1772)、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(1807-1808)に言及しつつ、それぞれがフランス革命の平等理念や啓蒙思想の普遍主義への対抗として提起された経緯が説明された。また、戦前の日本では、白人中心主義に反対して人種間の平等を求める動きもあった一方、高田保馬『民族論』(1942)に見られるように、日本の膨張主義政策と適合的な、極めて流動的な民族概念が語られたことも紹介された。
ソ連のユダヤ人の場合
概念が状況に応じて異なった意味を担うことは、鶴見氏の専門に関わるソ連のユダヤ人をめぐっても同様である。ソ連崩壊前後、約120万人のユダヤ人がイスラエルに移住したが、その動機はソ連の経済的・政治的混乱からの逃避が主であり、しばしば語られるようなシオニズム運動的性格は希薄であった。その背景として鶴見氏は、生活上ロシア人と同化していた都市部のユダヤ人において、多民族国家ソ連の一部として制度化されていた「民族」は、実質的には文化と関係のない「人種」的なものとして意識されていたことを指摘した。移住者の中には、自分とは異なる肌の色のユダヤ人を想像したことのなかった人もいたという(スライド参照)。結果的に「ユダヤ人」という単位で多くの人が動いたとしても、その動きを「民族」によって一括して理解するのは表面的であり、彼ら一人一人にとってユダヤ性がいかに意味づけられていたのかを問う必要があるのである。
個人の一側面としての民族
「人種・民族についての悪い理論」があるというよりも、むしろ人種・民族に基づく理論全般に警戒する必要がある。最後に鶴見氏は、民族をあくまで多面的な個人の一側面として捉えること、またマクロレベルの民族的現象を、個人の諸側面と同居する民族性というミクロレベルの現実と混同しないことの重要性を強調し、講義を締めくくった。
質疑応答では、社会主義国における民族概念と階級概念の実体化の諸相や、民族の実体性の否定可能性の程度などをめぐり、活発な議論が交わされた。
報告:上田有輝(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)「本講義の結論であった「人種をあくまで一つの側面として見るべきだ」、「人種という一側面と他の要素との連関を考えるべきだ」といったような主張は、語弊を恐れずに言えば当たり前のことだと感じた。こうした主張をいざ聞けば、殆どの人がそれに同意するだろうと思う。しかし、問題の所在は、それらの人が無意識のうちにこの主張に反する思考を行い、ステレオタイプに嵌った判断を下してしまっている現実である。つまり、授業やセミナーで受け取れるような「当然」の結論と、人間の日々の思考の結果には溝があり、学問は概してこの溝を乗り越えることに失敗することが多いと感じる。
この溝を乗り越えるには、人々の日々の生活に直接関連するような啓蒙が必要であると思う。例えば、今回の人種・民族について啓蒙を行うなら、つい最近ニュースになったような事件を取り上げて、「この事件について皆さんは(人種・民族というラベリングのせいで)こうした思考をしてしまってはいないだろうか」というような形で問題提起をする。これによって、聴衆は日常において犯してしまっていた短絡的思考を反省し、ステレオタイプから脱出する経験を得るのである。こうした、知識だけではなく経験も与えられる啓蒙が、真の問題解決につながると考える。」(教養学部三年)
(2)「今回の講義が終わってから私の中に残った疑問は人種と民族という概念はどのように異なるのだろか、ということだった。確かに定義の上では、そしてヒトの分け方では両者は明確に異なっている。人種は遺伝的形質や身体的外見で区分がなされ、民族では文化や人の主観的なものによって区別される。しかしながら、逆に言えば両者には区別方法において差異があるだけで、使い方によっては善くも悪くもどうにでもなるように感じている。このことは鶴見先生も「民族」の「人種」化という風に表現されていたが、ここでは民族や人種といった概念をより一般化させて「属性」として考えると、人の属性を他のもの(言語・宗教・経済活動・文化・嗜好など)と結びつけて、固定的に捉えてしまうと偏見や誤解を生じさせてしまう、ということが言えるのではないだろうか。そしてこの結びつけは学問においてしばしば行われていることではないだろうか。(もしくは人間としての性質?)前学期を思い返してみると、政治学では投票行動を分析する方法の1つとして政党支持者の属性分け(例えば共和党支持者は白人の低学歴者層など)が行われていた。社会心理学では実験結果において見られる国民性が紹介されていた。ここでは共に個人差の存在を留保しつつも、やはり属性との結びつきを行っている。このこと自体が有害なものだとは思えないが、それでもやはり「個人差」というものにも気を配らないと、いかなる属性に対する分析も悪用が可能なのではないだろうか。」(文科三類二年)
(3)「自分は日本人なのだが、社会心理学の授業などで日本人の傾向を紹介される時など、それが自分にどれほど当てはまりそうなものかとは無関係に、日本人という括りで話をされることに違和感を感じることがある。そうした言説は、それ自体では統計的に意味のある違いを表してはいるが、そこで抽出されている日本人という「側面」を自分の中でどう位置づけるのかを考えることで、そうした括りで語られる言説との距離を適切に保つことができるだろうと、今回の授業を聞いて考えた。」(文科三類二年)