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2021.05.20

【報告】2021 Sセメスター 第5回学術フロンティア講義

2021年5月7日(金)、5回目となる学術フロンティア講義がオンラインで行われた。今回の講師は、日本哲学・現象学を専門とする張政遠氏(総合文化研究科)である。張氏は昨年5月の着任まで香港中文大学で講師を務めており、今回の講義ではその香港中文大学も話題に取り上げられた。

実は昨年度の学術フロンティア講義でも、張氏は「30年後の被災地、そして香港」と題した講義を行っている。今回の講義は、その後一年間に考えてきたことを「悪」の一字をめぐって提示するものであった。
「悪」の字は多義的である。張氏はその多義性を、少なくとも四つ、この字の動詞的用法(悪(にく)む)、形容詞的用法(悪い)、副詞的用法(悪く)、名詞的用法(悪)において捉えることができるとし、それぞれについて(1)価値問題、(2)人性問題、(3)悪搞問題、(4)原発問題に即して論じた。
価値問題とは、端的に言えば何を好み何を悪むかという問題である。そこに価値序列というものが生ずる。これが大きな問題となるのは、個人のみならず集団がなんらかの価値序列を有するからである。張氏は、特に「儒学」が価値をめぐる議論を展開してきたとして、その議論を紹介した。儒学の「儒」とは本来、国を亡くした遺民たちのことであるという。国を失ったがゆえにこそ、彼らは価値の復興を志す。そこで五常、五徳、五倫といった価値が示され、論じられることになるのである。
また人性問題とは、人の性が善であるか悪であるかという問題であり、これも儒学の論ずるところである。孟子の性善説、荀子の性悪説、さらには告子の性無善無不善説を概観したうえで、張氏は、いったいいかなる意味で「性」が捉えられているのか、それを検めることが重要であると指摘した。張氏自身の見解はこうである。人間はときに暴力的に振る舞い他者を傷つけるが、そのことよりも問題なのは、その振る舞いを理性的な働きによって合理化し、正当化してしまうことではないのか。そこに人間の性の「悪」があるのではないか。そうだとすれば、肝心なのは、暴力を覆い隠さず、暴くということではないのか。
「悪搞問題」および「原発問題」はこうした文脈で取り上げられた。前者は、香港中文大学が学生のデモ等を機縁にして、Google Maps上で「香港暴徒中文大学」と書き換えられた事件を指している。「悪搞」とはパロディのことである。これは悪意ある仕業には違いないが、しかしデモに限らず、学生が被ったものも含めて、大学は暴力に満ちていた、と張氏は認める。重要なのは、その暴力を隠蔽せず暴くことであろう、と。また原発問題についても張氏は、その「悪」を暴き出すことが必要であると訴える。ある点では良いがある点では悪いといった相対的な評価の問題ではなく、福島第一原発事故以後、故郷にもはや住めなくなった人々がいること、その絶対的な悪を見つめねばならないのだ、と。

 

「悪」をめぐるこの講義は、受講者の目に不思議なものと映ったかもしれない。これは「悪」という概念の分析でもなければ、「悪」についての体系的な議論でもない。むしろ「悪」という文字をめぐって、ぐるぐると歩き回るかの観さえある。手がかりとなるのは、最後に言及された「学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す」という老子の言葉であろう。これは「損す」の方に重点があるのである。知識を得るというよりも、むしろ様々なものを失うことによって、物事をよりはっきりと見ることができるようになる。巡礼の実践にも身を置く張氏は、そのような行き方の一端を示したのだと言えないだろうか。

 

報告:宮田晃碩(EAA リサーチ・アシスタント)

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)絶対価値とはなんだろうか。自分は価値とは何かを考えたときに、メタ価値なるものが必要になるのではないかと考えた。ではメタ価値とはなんだろうか。道を為せば日々に損すとあったが、道がなければ損することはないわけで、いわゆる巡礼することもないであろう。そして、巡礼することで初めて見える物事があり(暴力など)、先入観が揺らぎ、そして価値の序列が変わるきっかけとなるのである。そうして新しい価値の序列を暴露していくことで新たな価値が作られる。こうしてみると、自分にはメタ価値とは不安定そのもののように感じられる。不安定であるからこそ生であるという言葉をどこかで聞いたことがあるが、もしかしたら絶対価値が生だというのはこういう理由でも説明できるのかもしれないと思った。(理科一類)
(2)「生」は絶対価値である、という考え方には大賛成です。しかし、その実行が問題になると考えています。特に、お金、貨幣経済的側面、が実行の阻害要因になりうると考えます。具体的には、原発イシューであれば「原発マネー」の存在であり、また、昨今のコロナ禍においては「経済を回す」というフレーズが散見されることです。この2つの例は厳密には異なりますが、平穏な生活の揺らぎと金銭が密接な関係にあることは確かです。さて、本当のプライオリティは何であるのか? 現況を鑑みれば、金銭なしに生活することは不可能であり、金銭が優位に立っているように見えます。本当にそれで良いのか。これは「学」だけでなく「道」も含めて考えていかなければならないと思います。(教養学部後期課程)
(3)今回の講義でとりわけ自分の痛いところを突かれたと思ったのは、「道を為すことで損なう」ことに敢えて価値を見出す姿勢である。すなわち、安全なところ、離れたところからの議論ではなく、居場所を離れること、或いは居場所を失うことによって、崩れた状態、乱れた状態から価値観を再構築していくという姿勢である。
自分自身、機会があって、興味をもって、日本の貧困問題について考えること、他には現行政治の権威主義化の問題、世論形成の問題などについて考えてきたつもりだった。しかしながら、すべて文章を通じてのことであって、元の価値観から一度離れてみる、一度先入観を捨ててみるということには乏しかったのではないかと、今回はっと気付かされた。極端な現場主義的な考えを信奉するわけではないが、特に部屋に籠りがちな今にあって、直接にはできないにせよ、まだ見ぬ他者と出会いに行くこと、実際に見に行くこと、未体験のことを経験しに行くことを改めて重視したい。
学問的に有意義な問いではなく、極めて個人的な「学問にどういう姿勢で向き合っていくか」という点が今回自分の抱いた問題意識になるわけだが、自分を乗り越えていくために、時に自分の心地よい場所から出て、時に敢えて艱難を求める姿勢が肝要になってくるのではないかと感じた。(文科三類)