講座「世界歴史と東アジアIII」では5月10日・17日の二週にわたり、幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』(1901年、以下『帝国主義』と略記)を講読した。伊達聖伸氏が担当する今学期の本講座では、近現代日本の古典的著作を数点選び、それぞれ2週間かけて講読している。4月19日・26日には、秋水の師である中江兆民の『三酔人経綸問答』(1887年)を読んだ(その様子については伊達氏の報告「中江兆民『三酔人経綸問答』を読む」を参照されたい)。秋水の『帝国主義』を取りあげた二週間は報告者が講義の進行役を務めることになったため、以下にその様子を簡潔にまとめる。なお、本講座は「東アジア教養学」プロジェクトの一環であり、その内容はグローバル・スタディーズ・イニシアティヴのキャラバン・プロジェクト「「小国」の経験から普遍を問いなおす」と連動している。
1週目の5月10日には、秋水と『帝国主義』の基本情報の共有に加え、『帝国主義』がこれまでどのように読まれてきたのかを紹介した。『帝国主義』に対する評価はおよそ1960年代まで、ホブソンやレーニンの古典的な帝国主義論に比べて、時期的には「早い」が内容的には「未熟」というものだった。だが1970年前後には、『帝国主義』を起点に秋水の思想的変遷の内在的な理解を試みる研究が現れるとともに、『帝国主義』に今日的意義を読み取ろうとする動きが活発になる。例えば東大元総長の大河内一男は、国内で反戦運動が高まるなかで『帝国主義』を「反戦の書」として評価。歴史家の遠山茂樹は、帝国主義に経済学的分析ではなく政治学的・社会学的分析を与えた点に『帝国主義』の「現代的意義」をみた。『帝国主義』の今日的意義を探る試みは21世紀も続いている。例えば思想史家の梅森直之氏は、グローバル社会において新しい倫理を創出するプロジェクトとして読み直すことで、まったく新しい視点から『帝国主義』を現代に蘇らせている。一週目の講義の最後には、「刊行からちょうど120周年の今年、私たちは『帝国主義』をどのように読み直すことができるでしょうか」と問うてみた。
2週目の5月17日には、『帝国主義』をどう読むかについて、参加者のそれぞれが論点を持ち寄って議論を交わした。そのひとりは、例えばアメリカの中東政策には帝国主義的な側面があるとして、現在でも「20世紀の怪物」ならぬ「21世紀の怪物」が生きていると指摘。もうひとりは、昨今のパレスチナ・イスラエル問題、アメリカにおけるポピュリズムの台頭、日本における靖国問題を取り上げながら、秋水による愛国心批判は現在でも有効だと論じた。こうした参加者の意見を受けて、伊達氏はいわゆる「テロとの戦争」に言及しながら、従来の戦争は主権国家のあいだで行われることになっていたがその前提が崩れていること、戦争をする主体間で軍事力が非対称化していることを指摘し、『帝国主義』が著された20世紀初頭と現在の違いにも目を向ける必要があるとした。最後に、報告者は『帝国主義』とその前後に書かれたテクストを取りあげて、秋水が「帝国」に代わる国家像として「小国」に期待していたこと、ただし、秋水の「小国主義」は「帝国主義」には批判的だった反面、朝鮮半島に対する「植民地主義」とは共存していたことに注意を促しておいた。
今回2週間分の講義進行の準備を進めるなかで気づいたのは、遠山茂樹が1968年、法政大学の大学院ゼミで秋水を講読していたということである。『幸徳秋水全集』の刊行に合わせて、秋水が『萬朝報』に載せた論説と『帝国主義』を比較検討するという内容だったようである。遠山は先述のように、レーニンが経済の観点から帝国主義を分析したのに対して、秋水が政治的・社会的観点から帝国主義を分析したことを評価したわけだが、『帝国主義』の刊行から120年、遠山ゼミでの講読から約半世紀が経過した現在、秋水の『帝国主義』はどのように読み直すことができるのだろうか。なにより、この講座が「東アジア教養学」プロジェクトの一環であることを考えれば、東アジアという観点から、今この古典とどのように向き合えばよいのか。こうした問いが準備を進めるなかで次第に大きくなってきた。
無論、安全保障をめぐる近年の国内情勢や世界情勢を鑑みれば、『帝国主義』は「反戦の書」として現在もアクチュアリティを帯びている。秋水自身の生涯も、国家権力に社会主義を掲げて対峙した「志士仁人」のそれとして評価できよう。また「小国」の観点に立てば、開国以降大国への道を模索していた近代日本に、オルタナティヴな国のあり方を提示した秋水の議論は、今日もなお魅力を失っていない。だが、秋水の議論が持つ植民地主義的な側面を無視することもできない。これまでの秋水研究が指摘してきたように、自由・平等・博愛という西洋由来の理念を掲げた秋水だが、同時代の中国や朝鮮に対してはむしろ抑圧的な言辞(あるいは沈黙)が目立つ。刊行から120年後の現代日本という場所で、この古典に正面から向き合うには、秋水の議論に見え隠れする負の側面をみずからの問題として引き受けながら、それでもなんとか正の側面をすくいあげようとする反省的な構えが求められるのだろう。
報告:田中浩喜(東京大学大学院博士課程)