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2021.05.11

【報告】2021 Sセメスター 第3回学術フロンティア講義

2021年4月23日(金)、ガイダンスを含めて3回目となる学術フロンティア講義がオンラインで行われた。今回の講師は、分子生物学・遺伝学を専門とする太田邦史氏(総合文化研究科)である。太田氏は昨年度までの2年間、教養学部の学部長、大学院総合文化研究科の研究科長も務められ、学内者はとりわけ新型コロナウイルス感染症への対応でもそのお名前を頻繁に目にしたはずである。

今回の講義は、太田氏の専門領域である生物学、とりわけ進化と多様性という観点から、私たちの生きる現在および将来を考え直す視座を提供するものであった。「30年後の世界へ――学問とその“悪”」という本講義の主題に照らしていえば、「30年後」というスケールを問い直すものであったとも言えよう。生物の生が紡ぐ時間は、必ずしも私たち人間が社会生活を営むうえで基準とする時間とは一致しない。私たちが「環境のため」といって設定する目標も、政治的な思惑を免れるものではない。今回の講義は、私たちがいかに問題を設定すべきかという、その根本的な部分に対する反省を促すものであったと言える。

生物にとって何故多様性が大事かと言えば、それは環境の変化を乗り越え、それどころか「ピンチをチャンスに」するためである。遺伝的多様性が保たれていれば、大きな環境変化に直面したときでも、外れ値にあたる遺伝的特質をもつ集団がその環境に適応し、そこから新たな種が生じてくるということも起こる。実際のところ、過去には大規模や火山活動や隕石の衝突等によって環境が激変し、生物は大量絶滅を経験してきたのだが、それはまた後に生物種の増加をもたらしたのであった。生物はいわば「無駄」を作ることで、変化に備えているのである。

人間が環境に対してもたらす影響は、この多様性という観点から捉えられる必要がある。地球上の生命にとって人類の活動が問題であるのは、エネルギーの蕩尽や環境変動においてというよりむしろ、その多様性を減少させているという点においてである。もし多様性が保たれていれば、生命は環境の変化に耐えるだけのしなやかさを有している。そのしなやかさが人間の活動によって失われていることが問題なのである。

人類が生物の多様性を低減させてきたというのは、なにも最近に限ったことではない。有史以来、人間は多くの生物種を絶滅させてきたし、また動物および植物の家畜化(domestication)を行ってきた。具体的な数値を示すならば、地上の脊椎動物の総量(重さ)は、1万年前には99%が野生動物で占められていたのが、今日では32%がヒト、67%が家畜、そしてわずか1%が野生動物によって占められるばかりである。また生物多様性への人間の影響は、人為的なものに限らない。人間の移動や交通手段が、本来であれば隔離されていたはずの生息域を繫いでしまい、生物種を均質化してしまう、という事態も起こっている。

こうした事情を踏まえて考えねばならないのは、人間も含めた生物が「ネットワーク」として存在しているということである。そのバランスによって成り立っているのだということである。太田氏の言葉をそのまま引いて言えば、生物とは「ノードの多様性によって強固になっているネットワーク」にほかならない。このことを理解し、関係そのものの自己修復能力の、不可逆的な破壊を避けることができるか。それが私たちの直面している課題なのである。

講義を受けて活発な質疑が交わされた。そのなかで太田氏が指摘した根本的な課題は、「幸福の定義を考え直さねばならない」ということである。上に述べたように、私たち人間自身が、ネットワークとして、関係として生きるものである。このことに自覚的にならねばならない。いま敷衍して考えるならば、おそらく生物種を絶滅に追いこむことや「家畜化」の過程も、ある種の「関係」であろう。だがそれは持続可能な関係ではない。人間の幸福と地球環境とを別個の条件と考えるのではなく、むしろそれらを関係として捉え直すこと、そこから考えねばならないのである。

冒頭では、私たち人間の問題設定が、必ずしも生物の生そのものに即しているとは限らない、と言った。しかしここに見た生物学の発見と示唆は、紛れもなく人間の営みの生んだものである。私たちは、私たち自身が元来そこに属していた関係へ、こうして関わり直す観点を得ることができる。そのような学問が、学問の成果として必要なのであろう。もちろん学問は、人間の営みとして為されるほかなく、その限り社会的な時間のなかで行われねばならない。「30年後の世界へ」とは、そうした学問そのもの可能性を、私たちが具体的に望み見るための時間設定であるとも考えられる。

報告:宮田晃碩(EAAリサーチ・アシスタント)

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)最近よく話題にあがる多様性の必要について生物的な見地から基礎づける授業で大変興味深かった(社会的人間の多様性の話と同一視していいのかは分からない)。人間のマインドセット、パラダイム、幸福の再定義がどのように可能かという疑問は前回の授業で話題になった時間概念の話と関係してきそうだと思った。直線的な時間概念で人間の生活を考えるとどうしても近代資本主義的な成長、拡大の方向に進んでしまいそうである。個々の人間の日常的な日々の繰り返しという円環的な時間概念、その中に成長とは違った幸福を見いだすこと。そこに自分の幸福の追求が多様な生物との共存につながるヒントがあるかもしれない。(教養学部後期課程)
(2)環境維持・生物多様性から一歩踏み込み、「人間の多様性」について考えたい。今回の講義から、多様性が動物種の存続に不可欠であることはよく分かる。一方、これはある種のエゴであるが、環境維持を考えるときには人間の存続が大前提になる。であるから、この手の議論には人間の多様性が不可欠であると考えられる。しかし、現代の情勢と歴史を鑑みるに、我々人類はむしろ多様性の反発を行ってきたのではないか。帝国主義下では「遅れている国々」を「進んでいる国々」へ同質化するという発想が少なからずあっただろうし、宗教戦争などは最もたる例だろう。今現在取りざたされている、黒人・ジェンダーマイノリティへの不寛容などもこの一部だと考えられる。利権がらみの事情なども大きいだろうが、これらの運動の背景には多様性への反発があると言ってほぼ間違いないだろう。集団単位での解決に向かうためには、個人個人が寛容の精神を持つことが不可欠なのではないか。生物多様性の精神のためには、まず人間多様性の精神が必要であると考える。(理科一類~三類)
(3)私は今、田辺明生先生の文化人類学の講義を受けているのですが、それと関連付けて考える中で思ったことについて書かせていただきます。太田先生の講義からは、生物が多様性を維持することが地球生命体の生存に関わってくることやそうした多様性を人類が脅かしていること、そして地球の均質化は環境の変化への弱さを生み出すことを学びました。だから多様性を取り戻すべきだ、と。しかし、ここで私が思うのは、地球の生命の持続、あるいは人類の存続、とは何のためなのかということです。地球の生命にしても、人類にしても、いつか終わりが来るのは自明の事実です。人間がいつか死を迎えるように。終わりばかりを意識すると、悲観的な考えに陥りそうになります。生あるものはいつか終わりを迎えるのだから、それが多少早まっても別に構わないじゃないか、と。こうした考えに陥るのを避けるにはどういう世界観を持つことが大切なのだろうか、という問いを私は持ちました。この問いに答えていく上で大きな手助けになるのが、田辺先生や太田先生がおっしゃる関係性の考え方なのだと思います。私という人間の、人類の、あるいは地球の、その終末の後まで想像力を巡らせ、無限に広がる関係性の編み目の中に自らを位置づけることが大切な気がします。それがどうすれば可能になるのか。それをじっくり考えてみたいと思います。(文科一類~三類)