今学期の東アジア教養学「世界歴史と東アジアIII」では、「世界歴史」の観点からの再検討に値すると思われる近現代日本の「古典」を何作か選び、2週間かけて読むスタイルを試みている。1週目は、教員側が著者の生涯における該当書の位置づけと概要の紹介を比較的オーソドックスに行ない、参加者には最初の印象を自由に語ってもらう。そして、さらなる「深読み」のための論点を抽出し、それを検討するための文献などを提示する。思い切ってデフォルメを加え、新しいネットワークに位置づける読み方も歓迎である。2週目は、学生側がこのようにも読むことができるのではないかというプレゼンを中心に、意見交換を行なう。ちなみに、この授業はグローバル・スタディーズ・イニシアティヴのキャラバン・プロジェクト「「小国」の経験から普遍を問いなおす」と連動したものである。
最初に選んだのは、中江兆民の『三酔人経綸問答』。フランス研究の観点からは、兆民は何と言っても「東洋のルソー」として『民約訳解』を漢文で著したし、宗教学の観点から言うと、『続一年有半』が「無神論」を展開したものとして関心を引く。『三酔人経綸問答』は、欧米列強の世界進出を前にした「小国」日本が取るべき方向性について、南海先生のもとを訪れた洋学紳士と豪傑君が、酒を飲みながら口角泡を飛ばして議論する。思想という部屋に暮らす洋学紳士は理想先行の「民主主義者」、冒険を喜び功名を求める豪傑君は「侵略主義者」、あいだを取り持つ南海先生は中庸。三者の違いは明快で、気軽に読めるところがある反面、兆民の人生の転機に位置する著作とも指摘され、実は複雑で手強い本でもある。受講者には、現代を舞台に『新・三酔人経綸問答』を書くとしたら、何をテーマに論じることができるだろうかと水を向けてみた。
参加者の1人は、人権の理念から高らかに死刑廃止を訴える新・洋学紳士と、日本における存続をやむなしとする新・豪傑君の対話というアダプテーションのアイデアを披露してくれた。もう1人は、民主主義が広がれば平和な世界になると訴えた洋学紳士の主張がもはや説得力を持たない時代に私たちがいることが『新・三酔人経綸問答』の地平と指摘した。帰国子女で都心の有名大学を出たばかりの新・紳士君と、自衛隊にいたこともある40代の新・豪傑君が、新・南海先生のお気に入りの店「キッチン南海」で、女系天皇の可否をめぐって話し合う。3人目は、『三酔人政教問答』と題して、「ネオ世俗主義」と「ポスト世俗主義」の対決のヴィジョンを示した。そして、現代社会では「進化の神」ならぬ「主観の神」が暴走しうるのではと問題提起した。
宗教をめぐる議論と言えば、ヒューム『自然宗教をめぐる対話』も三者による問答体の著作である。当時は非常に微妙なテーマで、3人の議論を聞いた者が別の者に報告するという入り組んだ形式を取っているが、それでもヒュームは生前の出版は控えた。兆民は『三酔人経綸問答』の出版後まもなく保安条例によって東京からの立ち退きを余儀なくされた。この本の終局でなされる南海先生の提言は一見「平凡」だが、「恩賜的民権」を「恢復的民権」に読み替える可能性の示唆には自由民権運動の挫折の経験と将来への希望とが交錯していよう。見解の分かれる同時代の重要テーマについて、異なる当事者の立場を引き受けながらそれぞれ考えを突き詰めていき、かつそれらに批判的な距離を設けて再構成すること。さらにそれを酒の席の話とするわけだから、兆民も相当に手が込んでいる。
報告:伊達聖伸(総合文化研究科)