2020年12月7日(月)13時より、座談会「中国の近代と疫病」が開催された。本座談会は、去る11月14日(土)に開催された座談会「天災と人禍――思想と宗教、そして文学と歴史から考える」の連続企画である。新型コロナウイルス感染者増加にともない、残念ながら対面式での実施は叶わず、オンライン開催となった。
冒頭、中島隆博氏(EAA院長)が説明したように、今回は「疫病という観点から近代を問い直す」をテーマとして、3名の登壇者(飯島渉氏:青山学院大学教授、坂元ひろ子氏:一橋大学名誉教授、下出鉄男氏:東京女子大学教授)より幅広い話題提供が行われた。
はじめの発表では、飯島氏が、中国社会におけるCOVID-19対策の一連の経緯を様々な角度から検討した。中国における医療社会史を専門とする飯島氏がとりわけ注目するのは、「社区」と呼ばれるコミュニティが果たした役割である。2003年におけるSARS流行と比較してみた場合、その差は歴然たるものである、と飯島氏は指摘した。改革開放に伴い、医療制度も大きく改変され、SARS流行当時は保険制度が未整備だったことから、深刻な状況が出来した。しかしその後医療衛生改革が行われたことにより、「社区」ごとに「卫生服务站」(保健サービスセンター)が設置され、今回の新型コロナウイルスの流行に際しては、徹底した悉皆検査の拠点となるなど、重要な役割を果たした。また、医療面のみならず、独居老人に対するケアや食糧購入、ドメスティック・ヴァイオレンス対策についても、その対応の拠点として社区が果たした役割は大きかった。
続く坂元氏の発表では、近代中国を代表する思想家である章炳麟のテクスト「菌説」(1899年)を題材として、この度のコロナ禍に際して「近代」という概念そのものを問い直すことの重要性が提起された。ここで章炳麟は、同時代のパスツールやコッホらによる細菌研究を念頭に置きつつ、『荘子』斉物論をはじめとする古典を参照しながら、万物は「虚」より出で「菌」となる——万物は上帝(神)によって創造されるのではなく、集散を繰り返しながら「自造」する——という自説を展開している。坂元氏は、こうした章炳麟の主張の中に、「殺菌」「滅菌」を是とする近代医療を根底から批判する可能性を見出した。また、物自体が自造するという発想の背景には、帝国主義的侵略を正当化する社会進化論や、文明/野蛮という二項対立への痛烈な批判意識があることについても指摘された。
三番目の登壇者である下出氏は、この度のパンデミックという事態が、どのように語られてきた/いるかについて、複数のテクストを渉猟しつつ種々の角度から光を当てた。とりわけスラヴォイ・ジジェク『パンデミック』、方方『武漢日記』によって提起された重要な問題——公衆衛生上必要とされる「統治」「管理」と、これを実行する権力への監視・批判をめぐる、複雑な関係性——は、会場全体から大きな関心を集め、全体討論における議題とされた。下出氏が強調したのは、初めに武漢で行われ、その後イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国においても実施された「ロックダウン」という事態の複雑さである。多くの知識人が懸念したように、ロックダウンは、あらゆる統治技術を総動員しながら全体主義へと至る道を用意し得る、という側面を持つ。それゆえ、権力の暴走を防ぐためには、これを監視し批判する目を光らせておく必要がある。一方で、こうした措置は、公衆衛生学的見地から見れば、感染を抑えるために必要とされるものであることも確かだ。
このようなせめぎ合いは、統治する国家と、従順に統治される国民、もしくは唯々諾々と統治されることに対抗する国民、という図式に単純化することはできない。同じように、中国が防疫に成功したのは、中国政府が他の政府と異なり強権的な実行力を行使し得たからだ、と短絡的な結論を出すことも妥当ではない。確かに、中国における情報通信技術の発展と、その統治への活用は、目を見張るものがある。こうした技術を総動員した統治体制に対して、批判的視線が向けられるべきであることは言うまでもない。だが、繰り返すが、ここで問われているのは、国民を統治する国家権力と、統治対象とされる国民(そしてそこに抗する国民)、という単純な図式ではないのだ。
こうした複雑さは、方方『武漢日記』をいかに読むか、ということにも関わってくる。ロックダウン下の武漢の様子を克明に綴ったこの日記は、政府の初動対応への忌憚なき批判が含まれていたことから、中国国内で大きな反響を呼び起こした。そこには、筆者に対するバッシングも多く含まれていた。だが、この対立についても、単純化して考えることは留保するべきである。司会・ディスカッサント務めた石井剛氏(EAA副院長)は、鈴木将久氏(東京大学教授)による同書の書評(ウェブサイト『論座』に掲載)を参照しつつ、次のように指摘した。これは、真実を訴えた人/政権寄りの人、という対立と見るべきではなく、むしろ、それぞれの立たされた場所から見える複数の現実が、結果として対立してしまう、ということの方に問題の本質がある。COVID-19という状況によって、もはや従来の「主体(subject)」が成立し得ず、すべてが「対象(object)」化されるという前代未聞の事態をいかに思考するか、ということこそが、今問われている。また、全体討論では、こうした状況を、香港やウイグルにおいて進行している事態と併せて検討することの是非も議論された。
「近代」という大きな物語を作り上げた「人間」という従来の「主体」のあり方が、根底から揺さぶりをかけられている今、現代思想という文脈では「人新世」あるいは「ポスト・ヒューマン」「ノン・ヒューマン」といった概念が盛んに議論されている。章炳麟の議論を、こうした潮流に棹差すものとして読解することも可能であろう。「中国」を固定された枠組みとしてではなく、共通の参照項とすることによって、そこから浮かび上がるものを抽象化・概念化し、記述することの意義が確認された。
報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)