以下は、2020年10月4日(日)に開催された許紀霖『普遍的価値を求める——中国現代思想の新潮流』(中島隆博・王前監訳、法政大学出版局、2020年)書評会の記録です。著者である許紀霖氏(華東師範大学)と、評者である村田雄二郎氏(同志社大学)・星野太氏(早稲田大学)との対話を中心とし、監訳者である中島隆博氏(EAA院長)と王前氏(東京大学)のほか、発言順に、石井剛氏(EAA副院長)、鈴木将久氏(東京大学)、崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)、林少陽氏(香港城市大学)、前田晃一氏(法政大学出版局)がその輪に加わりました。(以上、肩書きはいずれも当時。)
許紀霖氏が、自身が提唱する「普遍」への飽くなき探究としての「新天下主義」は、中国中心主義や中国特殊論への鋭い批判意識に基づいて志向されていること強調する一方で、日本側からは、そうした許氏の意図を感得しながらもなお、「普遍」が持つ一元化の暴力や抑圧の可能性に対して警鐘を鳴らす発言が見られました。
許氏との長年の研究交流の上に実現した、スリリングな議論の応酬をお届けいたします。
村田雄二郎:わたしの発言は感想が3点、それから質問が2点です。まず感想の第1点目ですけれども、許紀霖先生の中国近現代思想史における知識人としての位置付けです。特に今回の論文集の一番最後にある付録の対話を拝読して感じたことは、許氏を社会民主主義者の系譜の中に置いたらどうだろうかということでした。
中国の社会民主主義は中華民国以来の知的な系譜があるわけですけれども、残念ながら1950年代にこの流れが断ち切られました。一旦断ち切られた中国知識人のある種の系譜を許先生は引き継いでおられる方だとわたしは考えました。それは「政治自由と経済民主」という言い方に端的に現れています。第一次世界大戦後には、世界的に労働運動の高まりだとか、福祉国家論の出現だとかいう状況を背景に、リベラリズム自体も相当大きな変化を遂げました。中国ではその中から、イギリスのフェビアン協会などの影響を受けて、後に容共的知識人と言われる一群のジャーナリストや大学教授が活躍しました。これらの人々は1957年の反右派闘争で弾圧されますが、現在その断ち切られた流れを受け継ぐのが許先生ではないかというふうに考えております。
2点目は、本書のキーワードの一つである文明についてです。ヤスパースのいう枢軸文明から、アイゼンシュタットのいわゆる第2の枢軸文明、本書の中ではモダニティを踏まえた上で新天下主義という主題と語られることになります。
文明については、農耕文明・海洋文明・遊牧文明という、マクロな歴史的総括もなされていています。これは例えば、天安門事件前に中央電視台で放映されたドキュメンタリー『河殤』(1988年)などでも、農耕文明と海洋文明の対立が中国史の基軸であるとの図式の下で民主化運動と結びつけて論じられたことがあります。
本書で非常に印象的だったのは、そういうマクロな中国史の整理の中で、遊牧文明に格別な位置付けが与えられていることです。このことは例えばモンゴル時代(蒙元時代」を中国史の中にどう位置付けるかという大きな問題につながっていくと思います。これに関連してわたしが感じたのは、70年近く前に梅棹忠夫が提唱した『文明の生態史観』のことです。マルクスの唯物史観に対してまったく異なる視角から世界史の見方を提示したもので、今でも、少なくとも日本の中では生命力を持っている学説です。
そこで語られているのは、世界を第一地域と第二地域を分け、前者の遊牧文明が帝国的な秩序を形成し、第二地域である西ヨーロッパや日本という周辺において、産業革命が起こったという、そういう見取り図です。このあたりのことも、許先生の中国史のマクロな見方と対話可能ではないかというふうに感じました。
感想の第3点目ですが、現代中国の思想界あるいは文化界において、新天下主義の議論が持つ意味です。そこでは、中国特殊論(国情論)あるいは中国モデル論と、特に近年非常に顕著な国家主義的志向がはっきりと批判されています。その批判をわたしは基本的にはまっとうだと思います。
それから、1990年代に現れた自由主義と新左派の対立が、新左派の国家主義との結合によって大きな状況変化をもたらしているというところの整理で、これは非常に見事だと思いました。それとは別に現状への強い危機意識として、儒教憲政主義などの問題も取り上げられていて、そこに出てきている議論や、紹介された固有名などを見ると、今の中国では「徳治主義」への回帰とも呼べそうな現象が起こっているのではないかというふうに思います。道徳的な秩序をどのように再建するか、あるいは儒教的なものを現代にいかに活かしていくかということが、今の公共的な知識人の大きな関心事であり、リベラル派にとっては非常に困難な状況にあることがわかりました。
それで、われわれ中国を研究する者あるいは中国に関心がある者として、そうした現状にどうやってコミットしていくかというのは非常に大きな問題ですけれども、許先生の言う「可欲性」──これは中島さんが解説でも取り上げておられますけれども——という言葉によって、一つの実践あるいは投機として、今日の中国の思想界の見取り図が提示されていることは非常に大きな意味があるのではないかと考えます。これが感想の3点目です。
以上3点の感想を踏まえた上で、やや大きな問題提起をしようと思います。一つは、文化と文明の関係についてです。特に文化についてですが、第5章では二つの啓蒙(けいもう)が論じられ、ドイツのロマン主義(歴史主義)について、民族主義とコスモポリタニズムが緊密に結合していたというふうに整理されております。日本でも、大正デモクラシー期には非常に似た状況が生じ、ドイツ風のロマン主義が明治の末から大正期になると学術界・思想界の一つの大きな流れになっていったということがあります。
本書では、文化と文明とが非常にきれいに切り分けられています。われわれと他者を区別し、われわれとは何かという問いに答えるのが「文化」であり、何がよいものであるかということに答えるものが「文明」だ、と。その上で、文化の相対主義はニヒリズム・虚無主義をもたらすということで退けられ、むしろ文化多元主義──これは多文化主義(マルチカルチュアリズム)ですね——、そこを志向するんだというふうにまとめています。
ただ、この文化多元主義/多文化主義というものが、政策的には例えばオーストラリアだとかカナダとかアメリカだとか、それから西ヨーロッパで実践され、理論的にもそれこそたくさんの模索がありましたけれども、いまやある種の壁にぶち当たっているのではないかというのがわたしの一つの率直な感想です。
中国国内に引きつけて見ますと、多文化主義に相当する理論として、ちょうどこの本の中でも紹介されている費孝通の「中華民族多元一体格局」論というものがあります。これは辺境問題、少数民族問題をどのように社会学的にあるいは人類学的に扱うのか、その上で実際の中国の民族政策にどのように生かしていくのかということを整理した重要な議論で、国際的な影響も大きいものです。
わたしが費孝通の議論に根本的な疑問を抱くのは、「多元」とはいうものの、彼の議論の底には、絶対的な「一体」、中華民族の一体性というものが前提とされていることです。そこではたしかに多元が議論され、あるいは(多元一体格局論の大きなの魅力の一つですが)華夷の相互転換のダイナミズムが指摘されているものの、しかしそこから一体を疑う、あるいは一体という枠組みを一度解体してみるという議論にはなっていない。そういう意味では、学術的な議論としてはきれいに整理されているのですけれども、政治的な効果としては、今の権力に奉仕する役割を担ってしまっています。
これは費孝通の問題であるとともに、おそらく許先生のこの本で展開されている議論の問題でもあると思います。「一」と「多」の関係というのは哲学的にも非常に大きな問題ですけれども、「多元」と「一体」の関係は一体どうあるべきか、あるいは多文化主義だとか多元といったときのその「多」ですね、「多」と言われる文化の単位をどのように定位するのかというのは非常に重くて難しい問題だと思います。多文化主義ではおそらく、「文化」が「われわれのもの」となって内向化・固定化しがちで、「文化」の共存という理念と逆行しかねない状況に至っているのだろうと思います。
一方では、ポストモダン的な大衆文化の流行現象を見ますと、可変的な文化の本質だとか、越境性といったことが熱心に議論されています。今、話題になっている「文化の盗用」問題にもつながりますが、東アジアの歴史を見ても、「文化」というのはそもそも盗む・盗まれる関係によって変容し、生命を吹き込まれたのではないか。魯迅の「火を盗む」ということで言えば、「文化」は必ずしもわれわれのものではなくて、いつでも簡単に盗まれて、あなたのものにもなりうるのではないか。
そういう点から見ると、「文明」に求められる普遍性や「批判的寛容」に、果たして複数の文化の共存という多文化主義はどのようにつながっていくのか、そこはもう少し突き詰めて考えてみなければいけないかもしれない。
2番目ですが、それは新天下主義に関わる質問です。ナショナリズム・国家主義や国民国家体系を越えるために、中国の一つの文化的な伝統である天下主義を今日提起するということには十分な根拠があり、合理性があるとは思います。
しかし、王道という問題に引きつけて、天下というものの秩序の本来的な在り方を考えていく際に、テキストとして最も重要なのは『孟子』になるでしょう。もちろん天下を語ったのは『孟子』」だけではありませんけれども、一つの古典的なテキストを提供しているという点で今でも生命力のテキストあることは間違いありません。そこで孟子が語っているのは有名な「王道」と「覇道」の関係です。天下を支える秩序と、その秩序の裏に貼りつく規範的価値というものを考えていくと、「王道」論とは切って切り離せないわけです。
そこで『孟子』のテキストを読むと、天下とは中心から外に放射状に広がっていく道徳的な世界であり、王あるいは皇帝という中心から徳が拡大し、他者を教化していく世界です。そこには当然、階層化ともに、中心への一元化、同質化の力が働かざるを得ない。この一元化、同質化の問題にどのように対処していくかというのは、東アジア共同体論にしても、あるいは新天下主義においても常に付きまとう理論的課題でしょう。
また、現実の国家主義を越えていく上では、やはり近代日本の歴史的な経験も参照すべきです。「王道」には必ず王がいるわけですから、そこには道徳的価値の中心というものが想定されている。どこまでも徳治主義的な価値の中心が、天下を支える王道には想定されているのではないか。そうした秩序イメージを組み替えた上で、いかにしてこの本の一つのキーワードである「共に享受する普遍性」あるいは「批判的な寛容」を切り開いてゆくのかということをお聞きしたいと思います。王なき民主政の時代に,天下的王道主義は可能なのという問いです。戦時中の大アジア主義──大東亜共栄圏の構想も実は王道論の変形あるいは王道論の近代版といってもいいと思いますけれども、そこで問われているのも、わたしが提起したこの疑問と重なってくると考えています。日本の各種王道論は政治的には常につまずいてきましたが、「天下主義」を今日の世界に生かしていく上では、そうした近代東アジアの歴史的な経験を踏まえた上で、こうした批判的な問いに答えていく必要があるのではないか。趙汀陽氏の「天下システム」論もありますが、それに対しても上と同じ問いを立てられるのではないかと考えます。許先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。
星野太:このたびはこのような貴重な機会をいただき、ありがとうございます。わたしはふだん西洋哲学を勉強しておりまして、この場ではやや門外漢の立場ではあるのですが、許先生のご著書を拝読して非常に多くの刺激を受けました。今回のわたしのコメントの中では、この本のなかの一つの章、すなわち第3章「新天下主義と中国の内外秩序」に焦点を当ててコメントをさせていただきたいと思います。
わたしは2012年から14年までUTCPで特任助教をしておりまして、ちょうど許先生が東大にいらっしゃるのと入れ違いぐらいにUTCPを離れてしまったので、先生と直接駒場でお目にかかることはありませんでした。しかし新天下主義という概念については当時から関心を持っておりまして、今回こうしてご著書を通して勉強できたことをうれしく思っております。
まず全体的な感想ですが、わたしにとって最も大きな驚きだったのは、普遍という概念にそもそも普遍性と特殊性があるのだという、考えてみるとシンプルな問題でした。つまり、通常であれば「普遍と特殊」という図式でいろいろな議論がなされるわけですが、普遍という概念自体にも文化的な特殊性のようなものがある。最後の対話で先生も発言されているように、「コスモポリタニズム」や「グローバリズム」という言い方そのものが西洋由来の概念であるわけですね。それに対して、許先生があえて「新天下主義」という中国的、あるいは東アジア的な理念を提示されているところに、わたしは大きな刺激を受けました。
先生のご本の中でも何度か紹介されているジャック・デリダが、かつてまさにこの「グローバリゼーション(=世界化)」という概念について論じていました。フランス語ではグローバル化のことをmondialisation(世界化)と言うのですが、いま実際に起きているグローバル化というのは──デリダの造語で──「世界ラテン化(mondialatinisation)」である、と言うのですね。つまり、世間でグローバル化とか世界化といわれているものは、実際にはラテン的な世界の普遍化にすぎない、と。そんなことも、ご著書を読みながら思い出した次第です。
そのことを申し上げたうえで、問題提起に移りたいと思います。大きく三つに分けてはいますが、これらはひと続きの話と考えていただければと思います。
まず、この新天下主義という考え方の背後にある大きな問題として、国民国家というものをいかに超えていくか、ということが当然あるわけですよね。そのなかで許先生のご本でも引き合いに出されているような、国民国家をヨーロッパというより大きな共同体に再編していくという、EUのような方向性が一つには考えられる。
それに対して昨今では、そもそも旧態依然とした近代国家から「離脱」すべしという思想が特にアメリカのリバタリアンを中心に出てきている。例えばそれは無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)であったり、それから最近では日本でも話題を呼んでいる、ニック・ランドという人の暗黒啓蒙(ダーク・エンライトメント)という思想がある。こうした考え方が出てくる背景としては、国家をあたかも企業のようなものとみなして、そこから一部の人間が「自由な」離脱の可能性を探っていくべきだという思想があるわけです。
こうした発想というのは、さきほどのEUのように──たとえばヨーロッパという──共同体の統一的な理念を探っていこうとするものではなくて、企業的な管理運営の発想に基づいて国家というものを超克していこうという、そういう態度だと思います。しかしこういった動きに対して、許先生の新天下主義は、あくまでも文明やヒューマニズムを主軸に据えて、国民国家の超克を目指そうとしている。個人的に、こうした方向性には非常に共感するところです。
許先生の新天下主義という考え方に基本的には共感を示しつつ、わたし自身の関心から二点ほど論点を付け加えたいと思います。それはあえて大きく言うと、たとえば「普遍妥当性を有する人類の価値」(57頁)と言われるときの、「人類」や「人間」の問い直しのような視点をここに付け加えることはできないかという問題意識に基づいています。
さて、この本の第3章「新天下主義と中国の内外秩序」を読んでいて、わたしがとても印象的だと思った一節がありました。引用します。
もとより、古代の中国人は天下を語るだけでなく、「夷夏之辯〔華夷秩序〕」についても語っていた。しかし、古代の華夷は、現在の極端なナショナリストの口の端に上るような、中国/西洋、われら/彼らというような二分法的思考とはまったく異なるものであった。今日の人々の二分法的思考は、近代の人種主義、民族主義、国家主義の影響を受けているが、華夷の間と他者と自己の間とを、絶対的な敵味方関係とし、通じ合い融合する余地を少しも認めていない。それに対して、古代の中国人の夷夏の区別は、固定化した人種の概念ではなく、相対的で通じ合うことができ、転化することも可能な文化の概念であった。[…]まさに許倬雲が述べたように、中国文化の中には「絶対的な「他者」はなく、相対的な「われわれ」があるのみ」である。(「新天下主義と中国の内外秩序」55〜56頁)
ここで先生は許倬雲の言葉を引用しながら、古代の中国における天下の考え方においては、絶対的な他者はなく、相対的なわれわれがあるのみであるとおっしゃっています。ここに、わたしは非常に大きな興味を抱きました。興味というのはつまり、果たして本当にそうなのか、ということです。これは単にわたしが存じ上げないだけかもしれませんので、純粋な質問です。
どうしてこういう質問をするのかというと、わたし自身はこうした共同体の問題を考えるときに、そこで絶対的な他者とされてきたものに着目することが大きな鍵になると考えてきたからです。言いかえれば、かつて絶対的な他者とされてきたもの、あるいはいまなお絶対的な他者とされているものの系譜学というものが、こうした普遍性の問題を考えるときに必要になってくるのではないかということです。
少し補助線を引いておきますと、こういった問題というのは、ジョルジョ・アガンベンが「ホモ・サケル」という形象を通して考えようとしたこととも通じるところがあると思います。しかし本書の「帝国」という文脈でいうと、ここでまた別の事例を出すこともできるかと思います。
たとえば、古代ローマ帝国においてはこうした絶対的な他者の形象が少なくとも一つ存在しています。たとえばキケロはこんなことを言っています。
たとえば、あなたの命と引き換えに、海賊たちと何らかの合意に達したとしよう。その場合、あなたがその代価を支払う必要はない。たとえそのことを誓い、かつそれを守らなかったとしても、彼らを騙したことにはならない。なぜなら、海賊は法に則った敵には含まれない、万人に共通の敵[communis hostis omnium]だからである。(Cicero, De officiis, 3. 107[キケロ『義務について』強調星野])
これはキケロの『義務について』からの引用ですが、ここで言われていることに即して言えば、海賊たちと何か約束を交わし、その約束を反故にしたとしても、あなたは罪に問われない。なぜかというと、海賊は「法に則った」敵には含まれない、万人に共通の敵であるからだ、と。この「万人に共通の敵」という表現は、後世において「人類の敵」という言い方をされることもあります。いずれにせよ、古代ローマ帝国においては、そうした人類というカテゴリーに包摂されない、むしろその「人類の敵」としての海賊がいた。
さきほどのキケロの言葉を読むかぎり、海賊たちが「万人の敵」と呼ばれるにいたった理由というのは、彼らが共同体の義務の外にいるからというのがその根拠とされています。そこからさきほどの問いに戻るわけですけれども、それでは古代中国の「天下」という概念において、古代ローマにおける海賊に相当するような絶対的な他者というのは本当に存在しなかったのか、ということをお尋ねしたいと思った次第です。
次が最後の点ですが、これは本書の日本語タイトルである「普遍的価値を求める」ということにも関わってくることです。まず、同じく第3章から引用します。
新天下主義は中国古代の歴史の智慧に由来し、また、伝統的な天下主義の止揚によって、脱中心、脱ヒエラルキー化を求め、平等に共に享受することを核心として、普遍的な文明を基礎に新たな普遍性を構築しようと試みるものであり、いわば「分かち合う普遍性」である。(「新天下主義と中国の内外秩序」85頁[強調星野])
ここを読みながらわたしが思ったことは、ここでは新天下主義という理念のもと、言ってみれば多くの人間が「分かち合う」ことのできるような普遍性が志向されているということです。
ここも非常によくわかる話ではあるのですが、しかしその普遍性を求める主体というのは当然一枚岩ではないので、そこでは何かしらの抗争や対立が生じることは免れません。これはおそらくどこに力点を置くかの違いだとは思うのですが、許先生のご著書では、どちらかというと「分かち合う」というところが強調されているようにお見受けしました。しかし、ここで反対に、普遍性を求める複数の主体が時に対立し抗争するという、そちらのほうを強調するような考え方もあるのではないでしょうか。
たとえばフランスのジャック・ランシエールという哲学者は、そうした対立・抗争が生じることを民主主義の根拠としています。むしろ、まったく異論が生じない状態のほうが非民主的な状態ではないか、と。むしろ本書の問題設定においても、異なるエージェントが対立し、抗争することを強調することもできるのではないか。
最後にひとつだけ付け加えますと、カントが『判断力批判』で趣味判断の話をしているときに、趣味判断とは論理的な合意によって普遍妥当性に至るのではなくて、万人に普遍妥当性を「要求する」のだと言っています。つまり、趣味判断とはあくまで主観的な判断であるので、それを客観的に根拠づけることはできない。けれどもそれは万人に普遍妥当性を「要求する」のだという、そういうちょっと変わった言い方をしているんですね。わたしが専門とする美学の立場から、そんなことを連想したりもしました。
おそらく許先生が考えられた普遍性というのも、カントが言うところのア・プリオリに論証可能な普遍性ではなくて、あくまでも個々の「要求」のなかで可能になっていくような、そうした普遍妥当性ではないかと思うのです。まさにこのタイトルにあるような、普遍的価値を求める、欲するという運動というのでしょうか。最後にそうした感想を申し上げて、わたしからのコメントを締めくくりたいと思います。
石井剛:村田先生、それから星野先生、お2人からそれぞれまったく異なる視点から問題が提起されました。許紀霖先生がご自身を中華民国以来の社会民主主義にも向かうような知識人たちの系譜の先に位置付けているようだという村田先生のお話は、たぶんグリーンとかラスキなど本書の中にも出てきたような人物から思想の影響を受けてきた人たちにつながるというふうにわたしも理解しております。
それから1980年代以降の中国の改革開放の中での許紀霖先生の位置という問題、さらにはユーラシア大陸をどのように理解するのかという非常に大きな問題を、文明の生態史観との比較の下で位置付けられました。王道論や新天下主義など、「天下」という思想を21世紀にもう一回考えようという試みは、今日たくさんなされておりますけれども、そこでどうしても浮上してくるであろう、多元的なものと一体性との非常に解きがたいコンフリクトをどういうふうに考えればいいのか。そこにはやはり東アジアの歴史ということに対する反省が必要なのではないかというご指摘だったというふうに思います。
それから星野さんのほうは、普遍性というものを考えるときに、他者というものなしでそれが本当に成り立つんだろうかという問題が提起されました。これは非常に鋭いご指摘だったとに思います。特に天下というものは、趙汀陽の天下システムの中では天下というのは外部がない体系だと言い切ってしまうんですね。本当にそうなのかと。もしそうだとするならば、なぜそれができるのかというのはわたしも疑問でしたので、許先生のお答えを大変期待しております。
もう一つは、そこでやっぱり出てきたのが抗争とか対立とか、ある種の敵対的な関係というものが必然的に生まれてしまっているという問題が提起されました。もしかするとその抗争とか敵というような言葉自体の意味をまったく文化的な文脈が異なる天下の側から別な形として解釈し直す可能性が生まれてくるのかもしれないとわたしは感じたのですが、その辺りも大変興味深いなと思って聞いておりました。
最後に普遍ではなくて普遍化という論点です。許紀霖先生ご自身はもちろん、翻訳にあたられた中島先生、王前先生らを貫いている共通の考え方として、「普遍性」概念を静態的な名詞として捉えるのではなく、「普遍化する」という動的プロセスとして捉えようとするものがあります。これについても、星野さんからのコメントでは触れられておりました。
許紀霖:おふたりの質問には共通のところもあるので、それらにお答えする前に、この本を書いた核心の問題をまずはお話したいと思います。なぜこのような新天下主義、ある種の普遍性の問題を提起したのか。たぶんその背景を説明すれば納得いただけるかと思います。簡単に言いますと、これは中国、東アジア、そして世界の情勢に関するわたし自身の最近十年ほどの観察から生まれたものです。わたしは、この数年来、中国、東アジア、そして世界では、新たなナショナリズムが現れているとみています。この新しいナショナリズムは、今日の世界全体、東アジア、さらには中国にとってもある種の脅威になっています。なぜでしょうか。簡単にいうならば、最近、最もホットな話題はアメリカの大統領選挙です。2016年にトランプが当選したときにわたしはすぐに文章を書いて、この世界は新しい時代に入ったと述べました。この時代には二つの特徴がありますが、わたしはそれを「二民主義」と呼んでいます。一つはナショナリズム、つまり中国語で「民族主義」です。もう一つは中国語でいいますと「民粋主義」、これはポピュリズムです。ナショナリズムは国益を最高の価値であると考え、ポピュリズムは人民の利益を最高の価値であると考えます。この二つの主義には、実際のところ同じ思想的背景があります。それは価値ニヒリズムです。ナショナリズムとポピュリズムは国益と人民の利益をそれぞれある種の価値といちおうは見なしているのですが、それらの価値には超越的な究極としての意義が具わっていません。つまり、超越的な究極という意味において、それは中身をくりぬかれてしまったもの、虚無なものなのです。そうしたレベルにおいて、虚無であり、ニヒリズムだというのです。だからこそ、国家の利益とか人民の利益のような利益が価値そのものになってしまっているのです。これは、わたしたちが今日の時代に抱える最も憂うべき精神状況なのです。
こうしたニヒリズムは、日本と中国の近代史上でも生じたことがあるものです。福澤諭吉にとって当時問題だったのは、文明と独立のどちらがより重要なのかということでした。文明はある種の価値ですが、独立はおそらく国家の富強をより意味しているでしょう。福澤はその後『文明論之概略』のなかで結論を出していますね。それは、まずは独立を実現するということで、明治維新は日本にとっての基本路線だということになりますし、そのことはまた、日本型の脱亜入欧ということになります。つまり、彼が重要視したのはヨーロッパ近代的な布教であり、文明の価値ではなかったのです。このことは日本にその後現れた軍国主義にも関係しています。富国強兵をだいじにしすぎたのです。中国の近代も同じです。清末中国は日本からの影響を受けました。梁啓超や厳復らは社会ダーウィニズムに注目しました。社会ダーウィニズムもまた、より高いレベルの価値を無きものにしてしまうものですから、それを支えているのはニヒリズムです。
歴史的に見ると、日本も中国も近代においては、富強が文明よりも圧倒的に重要だと見なされたという問題を抱えていたのです。こうした文明抑圧の背後にあった精神状況はやはり価値ニヒリズムでした。
今年は新型コロナウイルス感染症のおかげで家に閉じこもっているので、わたしは論文の豊作の時期を迎えることができました。もうすでに論文を5点書き上げて、そのうち3点は一つのシリーズになっています。それで何を論じたかといいますと、中国の近代史においてどのように「五四運動」的ニヒリズムから革命の時代へと向かったのかという問題です。言い換えれば、革命とニヒリズムは関係しているということですね。五四運動の時代にはあまねくニヒリズムが覆っていました。古い儒家的価値はすでに崩壊し、新しい西洋の価値や思想潮流はたくさんありすぎて、選択しようにもできず、虚無に陥ったのです。一部の革命家たちは虚無から脱して、自らが頼るべき価値を探し当てました。それが革命的ユートピアというイデオロギーです。これがわたしの今年やっている研究の中心テーマです。二十世紀の大半は、その革命の幻としてのユートピアがあったおかげで、ニヒリズムは主流とならなかったのです。
しかし20世紀の終わり頃に冷戦が終結し、いろいろなユートピアが解体したあとには、ニヒリズムがまた現れるようになりました。わたしの研究の一部は、そうした冷戦後の新しいニヒリズムです。
わたしが今触れた今日のナショナリズムとポピュリズムはニヒリズム時代における代用品ですね。これらによって虚無を克服しようとしても、この世界に本当の意味での普遍的価値をもたらすことはできないのです。だからわたしは、そういう意味において、新天下主義の問題を考えているのです。強調しておきたいのは、わたしと趙汀陽さんとは問いがまったく異なっているということです。趙汀陽さんは、普遍的な新しい国際関係のモデルを提出しようとしており、これを彼は「天下システム」と呼んでいます。しかし、わたしが考えているのはそういう角度からのことではないのです。わたしは、中国、東アジア、さらには世界のあちこちにおいて今日氾濫しているナショナリズムについての批判により多くの力点を置いています。普遍的な国際関係のモデルを提起しようとしているのではありません。趙汀陽さんほどの野心はないのです。わたしが言いたいのはただ、ナショナリズムそのものは必ずしも悪いものではないのですが、しかしそれには何らかの「ヘッジ」となるような思想潮流や力が必要だということです。例えば、金融の世界ではヘッジファンドと言うものがあります。思想や思想の潮流にもまた「ヘッジ」が必要です。では、ナショナリズムのヘッジとして最もよいのは何でしょうか。もちろん、コスモポリタニズムです。
さきほど星野さんは、なぜコスモポリタニズムとかグローバリズムといった言葉を使わず、新天下主義と呼ぶのかとお尋ねになりました。グローバリズムには特有の含意があります。それは、第三インターのソ連を中心とするいわゆるインターナショナリズムです。それは誤解を招きやすいものです。一方、コスモポリタニズムは誰もが理解できるでしょう。つまり、カント以降に打ち立てられた、リベラリズムを中心とする、今日の世界的な普遍的価値がコスモポリタニズムと呼ばれるものです。しかし、わたしがコスモポリタニズムという概念を用いず、新天下主義という概念を用いたのは、コスモポリタニズムが必ずしも西洋に由来するものではないと示すためです。東洋、特に中国の歴史文化の伝統の中にもその源はあり、その内なる価値や精神性はコスモポリタニズムと軌を一にするものです。ですからわたしは新天下主義と呼んでいるのです。いわば、同じ価値をそれぞれの言い方で表現してみたわけで、実際にはその中身は同じものです。
すでにすこし星野さんのご質問に答えましたが、もう少し補足します。星野さんは西洋的な普遍性もまたある種の特殊性であると指摘しましたが、確かにいかなる普遍性もまた、なにがしかの特殊から生まれたわけです。西洋の普遍性もそうですし、中国の新天下主義も中国に特殊な中華文明から生まれたものです。しかし、今日の世界における普遍性は、今までの普遍性とは異なっています。簡単にいうと、それは何らかの特殊性から生まれた普遍性ではなく、さまざまな普遍性の重なり合うコンセンサスなのです。ハンチントンも『文明の衝突』のなかでこのことに言及しています。つまり、新しい普遍的な文明は相異なるさまざまな文明が重なり合う部分であるというのです。こうした新しい普遍性は伝統的な普遍性とは異なっています。こうした普遍性の形成プロセスについて、わたしは星野さんの考えにたいへん賛成です。それらはただ単にコンセンサスを求めるのではなく、コンセンサスを求めると同時に、その内部では衝突もあれば対話もある。競争でもあるし、闘争になることすらある。競争も闘争もなければコンセンサスも生まれません。
以上の応答の中では、村田先生の二つ目のご質問にも少し答えました。村田先生が心配しているのは、中国の伝統的な王道政治にも道徳化の傾向があるということでしたからね。確かにかつての伝統的な天下主義には中心がありました。その中心は中華文明です。だからこそ、わたしは、わたしがいま提案しているのは「新」天下主義だと言っているのです。この「新」こそは、まさに脱中心的で、何らかの具体的な特殊な文明を中心にするものではないのです。それは、相異なる文明間の相互対話であり、その先に「重なり合うコンセンサス」に到達すれば、グローバルな普遍性を得るわけです。それから村田先生には、費孝通の中華民族多元一体の構造へのご批判もいただきました。非常に鋭いご批判だと思います。「一体」を絶対的でアプリオリなものと見なすことはできません。実際、多元と一体は相互関係にあって、国家への一体性はアプリオリな条件ではなく、それは多元的な文化や、相異なる多元的な政治が相互にぶつかり合うことによって形成される一体性です。多元性がなければ、それは詐りの一体性です。それはたいへんおそろしいもので、独占的な一体性なのです。ですから、一体性もまた多元性を全体性を前提としているのです。しかし、そうした多元性も一体性を損なうまでに多元的であってはなりません。今日の西洋やヨーロッパ、もしくはアメリカの文化的多元主義は大きな問題を呈しています。例えば、アメリカに現れたアイデンティティの政治は、もはや市民の政治全体、国家の一体性全体に対してそれらを解体するほどの脅威となりかねないまでになりました。だから、一体性と多元性は相互に制約し合う関係であって、どちらが絶対的に優先されるというようなものではないのです。
中島隆博:この本は『普遍的価値を求める』という書名になっているんですが、村田さんと星野さんからはその「普遍性」に対するアプローチをどう考えたらいいのかが中心的に問われたと思います。また、「価値」の問題についても、あるいは普遍的価値を「求める」ということに関しても、あわせて問うていただいたかと思います。
許先生のほうからは、価値そしてニヒリズムの問題を中心に応答していただいたように思います。その上で、あらためて今の時代において、価値をどういう仕方で構想していったらよいのか、それをぜひ許先生に伺いたいと思います。たまたま、最近一緒に本を出したマルクス・ガブリエルさんがハンブルグで新しい哲学のセンターをつくろうとしています。それは、The New Instituteというもので、ニューヨークのニュースクールを意識したものです。ここで何を問うかというと、Value & Valuesという、単数形の価値と複数形の価値、そしてその相互の関係ですね。
許先生の議論の中でも、価値の単数と複数の関係は深く問われています。それは文明と文化という配置で考える可能性もあると思いますが、もしこの価値の単数と複数についてお考えがあったら教えていただきたいと思います。以上です。
許:わたしたちはかつては何らかのたしかな、実体的な価値があるとずっと信じてきたわけです。孔子からプラトンまで、そしてヘーゲルに至るまで、さらには中国の五四運動でもそうでした。何らかのたしかな価値があり、そうした価値はわたしたちが均しく認められるはずのものでした。しかし、そうしたたしかな価値は、結果的に、独占や抑圧、そして閉鎖性をもたらすことになります。このことは近代の人々にとってのアポリアとなりました。わたしたちがこうした問題について考えるときにもこのアポリアに陥ってしまうのです。ただわたしはウィトゲンシュタインの「家族的類似」から大いにヒントをもらっています。というのは、わたしたちが今日追求する普遍的な価値とは、まず、複数のものであり、次に、これらの価値の間には緊張と衝突があるということです。例えば、自由と平等の間には緊張が在りますし、発展と調和の間にも緊張があります。
イギリスの思想家アイザイア・バーリンの言葉を借りていえば、「すべての価値を完璧に実現することはできない」、つまりそれはユートピアです。問題は、わたしたちがこれほど多くの、複数の、すばらしい価値に向き合っているということだけです。ただ一つの問題はつまり、これらの価値のうち優先されれるべきものをどうやって選ぶのかということです。事実、今日の世界では、そういった良い価値に対しては、みんなコンセンサスを持っています。ただ、相異なる国家や、相異なる民族、相異なる思想潮流において、何を優先すべきなのか、どの価値が優先されるのかについては、相異なる選択があります。例えば、アメリカでは大統領選挙がもうすぐ行われますが、共和党はより自由をより優先的な選択肢であるとする一方で、民主党は自由を満足するという前提のもとで、より平等を重視します。これは永遠に解決できない人類のアポリアですが、これらの価値はまさにウィトゲンシュタインが言う「家族的類似」という形で存在しています。
石井:普遍性というテーマに関しては、わたしたちはもう長いこと許先生と議論してきたと思います。例えば、2014年にUTCPでも議論しています。そのなかでも、先ほどのウィトゲンシュタインの家族的類似の話、それから新しい普遍の話をなさっています。それがこのような形で書籍になったということで、少しずつわたしたちも許先生の議論の中に加わりながら、関与しながら今日に至っていることを改めて思い出しました。
村田:星野さんが提起した絶対的な他者の問題から問いを開きたいと思います。
中華文明のある種の常識的な理解からすると、確かに他者のいない文明だという自己規定はありうると思います。ただ、歴史的に見ると、やはりかなり見方は変わってくる。つまり、秦・漢にしても唐にしても清にしても、帝国というものはある種の他者との抗争の中で複合的な文明を築き上げたということが言えまして、わたしの言った遊牧文明というのはそうやって関わってくるわけですよね。
ですから、新天下主義における他者の問題について、皆さんでもうちょっと議論していただけると楽しくなるんじゃないかなと思います。歴史的に見ると、他者との抗争の中で中華文明が生成発展し複合的な文明を築き上げてきたともいえるかもしれない。そういう見方もできるのではないかと。別にここは歴史を議論する必要はないので、むしろこれからのわれわれが求めていく普遍性にとっての他者性の問題ですね。
星野:わたしも、「他者」の問題について、あらためて問いを出そうと思っていたところでした。というのは、さきほどもちらっとアガンベンの名前を出しましたが、わたしはこの絶対的な他者の問題ことを考えるときに法の問題を持ち出さざるをえないと思うんですね。
ご存じのように、かつてアガンベンがホモ・サケルと呼んだのは、「法的に」聖なるものとして共同体から排除され、それによって「法的に」自由な殺害の対象とされた存在です。さきほど海賊の話をしましたが、これもやはり古代ローマにおいて、法的に人間の共同体から排除された存在です。ですので、くり返しになりますが、そうした法的な他者というのでしょうか、法的に共同体から排除されてしまった他者のようなものが古代中国の「天下」のなかには本当に存在しなかったのでしょうか。
許:許倬云のことばに言及した際、わたしが言いたかったのは、中国は事実上周辺の民族よりも高い文明であったということです。ここで言っている中国というのは漢民族のことだけを指しています。中国はそうした自信によって、周辺の蛮夷や諸民族を同化する力があると信じてきたのです。今日漢民族は世界でいちばん大きな民族となりましたが、血統の点だけから言えばそれはありえないことです。実際には、漢民族は血統においては混淆した民族です。しかし、それは文化や文明において自らを定義する民族なのです。ですからこの意味から言えば、古代中国における「他者」について言うとき、その「他者」というのは文化的な意味に関してのみ言われるもので、種族として言われるものではありませんでした。種族が変容するのは難しいですね。少なくとも長期的な通婚によって初めて変容するのでしょうが、文化は一世代で変わり得ます。ですから「絶対的な他者はいない」というのも、そうした意味において言うに過ぎません。より明確に言うならば、民族主義は中国においてはずっとその伝統ではありませんでした。それは近代的な伝統です。この民族主義をもしもっと時代的に遡るとしたら、北宋時代には「夷夏の辨」という意識がすでにありました。しかしその時にはまだそれほど絶対的なものではありませんでした。絶対化されたのは明末清初のころです。王船山には種族としての民族主義の意識がありました。しかし、王船山が書いた書物はその当時影響がなく、一部の人にだけ読み継がれたに過ぎないことは誰でも知っています。清代末期になってそれがもう一度発見されて、西洋から入ってきたナショナリズムと結びつきました。従って、この意味から言えば、中国の歴史伝統においては「絶対的な他者はいなかった」のであり、その「絶対的な他者」というのは近代になってようやく現れたものなのです。
もう少し捕捉しますと、古代の漢人や漢民族士大夫にとって、異族の統治を受けることは必ずしも屈辱的なことではありませんでした。異族も文明人になってしまいさえすれば、すなわち中華文明を受け入れさえすれば、同じようにその統治をよろこんで迎えることができたのです。例えば蒙古人とか満洲人がそうですね。「蛮夷」という言い方は種族のことを指すのではなく、全く文明的な観点からの言い方です。清兵が南下し、史可法がそれに抵抗しました。また、南宋時代には岳飛が北方の金人に抵抗しました。それは自分たちの種族を守るというよりも、自らの王朝を支えていた文明の秩序を守るためだったというべきです。彼らにとっては、文明の秩序がもっと重要だったのです。ですから、近代人とはまったく異なるのです。例えば、いまの中国においてはそうした文明に関する意識はかなり弱くなりました。それよりも強いのは、種族意識の上に成り立つ民族主義です。ですから今日では、近代人と前近代人との違いはあまりにも大きいのです。わたしに言わせれば、この違いは、今日の中国人と日本人のちがいよりもはるかに大きいです。
石井:この他者の問題というのはなかなか面白いところです。星野さんは他者に対してはかなり明確な定義を与えていて、それは法の内側にあることによって同時に法から排除されるものが他者であるとなさっています。
一方で、法という概念を中国の古典的な文明の中で探せるかというと、実はなかなか難しいところがあると思います。なぜかというと、天下の思想の中では法というよりも文化の問題、文明の問題になっていくわけですね。ですので、先ほどから蛮夷というような言葉が出てきましたけれども、文明の教化を受けた人は文明の中に包摂されていきます。これはプロセスなわけですから、化していくというプロセスの中で人が変わっていくということなので、法によって分けられるわけではないのです。
もう一つは、星野さんが言及なさっている法には主権の問題が当然付随してきます。しかし、中心から周辺に向かってだんだん教化の力が薄まっていく天下的世界におけるグラデーションにおいては、主権の境界も曖昧なままです。
ですので、アガンベンのいうような意味にあてはめるのはなかなか難しいように思われます。それでも試みにアガンベン的な法を適用するとするならば、例えば海賊に対しては、先ほど出てきた匈奴に代表されるような、万里の長城の外側にいる少数民族であるとかが取りあえずは対置できそうです。それからわたしが最近注目しているのは、教化システムとしての天下的世界の内部にいるアウトローの人たちの存在です。これは「江湖」と呼ばれる存在で、例えば、大道芸人のように都市から都市を渡り歩いているような、喩えて言えば「陸の海賊」のような存在ですね。彼らはそういう意味では他者であると言えるかもしれません。
それから、天下という概念自体がある意味全ての世界を包摂しうるものなので、その意味では天下に他者はないという言い方はできるんじゃないかなと思います。
以上を踏まえて、わたしからの質問は、天下という概念が成立するにはやはり天下を支えているディスコースというのがあると思うんですね。それは端的に言うと、経学だと思います。経学ディスコースの権威が崩れてしまった後に天下は崩壊して、残ったものが人民だということになると思うんですね。そこで人民主権の話がこの本の中でも繰り返し問われています。天下というシステムを支えてきた経書の権威性が崩れてしまって、人民が直接主権者になるというときに、どのようにしてもう一度、新天下のような新しい世界秩序をつくっていけるのか。これは価値の問題にも関わってくると思います。
鈴木将久:絶対的な他者の問題は、現在のアジアにおいて議論するとき、極めて重要な意味があると感じます。理論的な次元における問題ももちろん重要なのですが、同時に、具体的・現実的な意味もあるように思います。なぜなら、外部という問題を考えるとき、中国の外の人間が聞いたときに感じる漠然とした不安を指摘できるのではないかと思うのです。許先生がこの本で繰り返し語ったように、中国の力が強大になりつつあることが前提となります。そのようなとき、たとえば趙汀陽さんは「天下システム」を語る際に「天下」には外部がないと言いますが、それを聞くと、すべてを内部に取り込もうとしているのではないかという不安を呼び起こすことがあると思います。外部がないという言い方が、現実的にあらゆるものを内部化する欲望と結びついているのではないかということです。
許先生は先ほど趙汀陽さんとの違いを非常にクリアに語ってくれました。おかげで理解が深まりました。ただそれでもおうかがいしたいのは、趙汀陽さんと別の意味とは言え、外部がないとするならば、どこに緊張感が存在するのかという問題です。星野さんが外部の問題を問いかけた意味は、わたしの理解では、普遍性とはつねに外部との緊張感のもとで試され続け、試されることによって自らが絶対的な基準とならないような機制が可能になるということだと思います。おそらく許先生は新天下主義の概念において、緊張感を保持して、天下が絶対的存在とならないようにする機制をどこかで考えていらっしゃるとおもうのですが、それはどのようなものなのでしょうか。もう少しご説明いただけると、日本やアジアの読者にとって分かりやすくなると思います。
崎濱紗奈:沖縄という観点から一つ質問をさせてください。「文明」が持つ普遍性を実現するための新天下主義、ということに関連して、許先生は、ご著書の中で繰り返し「脱中心化」ということを強調しておられたかと思います。このことと、星野先生がおっしゃったような「係争」「対立」、つまりランシエールがいうような「政治」を開くものとしての「対立」に関連する質問です。
先ほど許先生は、「対立」「抗争」というものの意義について、普遍化というプロセスを行うために重要なものであるとおっしゃった反面、「一なるもの」を壊すようなものであってはならないというふうにも、同時におっしゃられたかと思います。
わたしがお聞きしたいのは、単刀直入に言えば、許先生は「対立」「抗争」というものを、やはりあまり好ましくないものというふうに考えておられるのでしょうか、ということです。このようにお聞きするのはなぜかというと、沖縄のようないわゆる小国、辺境の中の辺境という立場からすると、現状を決定している強固な秩序というものに対して「No」と言うようなきっかけを掴むために、「対立」「抗争」というものを非常に重要視するという姿勢が、これまでの歴史的経験の中で培われてきたかと思います。ですので、秩序を重視する、ということが先立ってしまうと、その構造下で抑圧的な経験を被っている者たちが、現行秩序に対してNoと言うような権利がどのように保障されうるのだろうか、ということをお聞きしたいと思います。
林少陽:星野先生がおっしゃった他者の問題に関連して、ごく簡単に感想を述べさせていただきたいと思います。まず、中国思想における他者の問題については、場合によっては天下の「天」が超越的な他者としてあるのではないかと僕なりに理解しております。また、自文化中心的な文化的共同体の外側、つまり華夷意識の中にある「夷」の存在も、もう一つ低いレベルにある相対的な他者としてあることも中国史の特徴だと理解しております。儒教文化にある非道徳的なメタファーとしてある「禽獣」、すなわち非人間的な存在も排除される他者として存在している。
わたしたちが今日ここに集まっていることには、いくつかの背景があるのではないかと推測されます。まず、西洋には普遍性があると一般的に思われていますが、東アジアの「われわれ」のほうにもあるのかという疑問が、もしかすると日本の知識人の中にあるかもしれません。この「常識」自体がもちろん西洋中心的であり間違っていると思います。この常識こそが、われわがここに集まって議論している背景ではないか、とまず指摘したいと思います。この点に関しては、例えば、中島先生や石井先生などの中国思想研究者は、上のような「常識」にある種の疑問を持ちながら、中国思想の中ににあるべき普遍性を求めようとしながら、ご自身の研究のなかで模索してきたのではないか、とわたしなりに認識してきました。もし上のような「常識」があるとすれば、これ自体は思想史的に見て興味深いことだと思います。
背景の二つ目ですが、歴史的な中国を念頭に置きながら、現実の中国が向かっている方向性が「普遍性」の方向性と逆の方向に向かっているという、もう一つの認識があるという点を認めざるを得ないということです。まさにこれは、許先生の本に指摘されている現実問題がまずあるわけです。
他方、理念としての普遍性と国民国家的な体系とはどのような関係にあるのか、両者の間に緊張関係がないのか、などの問題がここで改めて検討する必要があると個人的には思われます。すなわち、国民国家体系は理念としての普遍性を脅かしているのではないか、ということです。リベラリズムは国家とは悪でありながら改善可能なものである(普遍性そのものを体現することができる)と楽観的に思いがちですが、果たしてそうなのかどうかは改めて考える必要があるかもしれません。近代に入ってから学問全体が国民国家体系の枠組みのなかで組織しなおされました。ナショナリズムこそ政治的な体制とは関係ない形で普遍的かつ超越的な神となりました。屈辱的な帝国主義的近代を経た現実の中国も例外ではなく、そのような方向に向かっていると思います。この現実の「中国」が歴史的な「中国」、ないしは原理としての「中国」とどのような関係にあるのかという問いは、おそらく今日我々がここに座っている背景としてあるのであり、これこそ許先生の著書の背景であろうと思われます。
明末清初の思想家の顧炎武は、その『日知録』の「正始」という文章において「亡国」と「亡天下」を区別しました。「易姓改号」を「亡国」とし、「仁義充塞,而至於率獸食人,人將相食(仁義が行きづまり、禽獣が人を喰らい、人があい喰らうに至る」という、道徳が墜落する局面を「亡天下」と定義しました。一般的に顧炎武のこの言葉は、満州族という新しい支配者に対する抵抗として、「華夷意識」に基づく文化主義的なナショナリズムの表れだと解釈されることが多いような気がしますが、これはやや単純化した解釈だと思います。顧炎武時代の「天下」意識が「亡国」というナショナルな側面と連動していることは否めないですが、他方で、「天下」こそある種の普遍的な価値、普遍的道徳の表れである、ということもまた重要ではないかと思われます。ですから、許氏のご著書は顧炎武の「天下」という価値を再構築しようとする問題意識に通じる部分があるとわたしは思います。
伝統的な「天下」は儒家を中心に語られてきましたが、許先生のおっしゃる「新天下主義」については荘子的な個人、または「以不齊為齊(斉しくないことを斉しいとする」という差異を尊重する思想も貢献できるのだろうと思います。普遍性に基づいている個人に、あるいは「一般」とのペアにある特殊性に還元されない個人に基づいている荘子的な「天下」こそが、許先生がリベラリズムに基づいて再構築しようとする「新天下主義」に通じる部分があるのではないかというのがわたしのもう一つの勝手な感想です。
「文明」という翻訳された概念は、概念史的に本来どうであったかは別として、儒教的な「王道」概念と同様に、「近代」によって汚染された側面があることを指摘しておきたいと思います。それは例えば、章炳麟の批判にもあるように、とりわけ西洋、それからの日本の帝国主義の拡張を正当化した概念でもあったということです。しかし、文明という概念がご著書の中でどうしても避けられないということも十分理解しております。敢えてそれを避けようとするならば、「文」という漢字圏の元々の思想的理論的概念に取って代えるということは選択肢としてあるかもしれません。なぜなら、「文」という概念は前近代の普遍的価値を表した概念として機能してきたからです。少なくとも、「文」という概念には近代的な国民国家的価値を超える側面があるとわたしは理解しております。
最後に、個人的には許先生のご著書の第三部分にある国家主義に対する批判、現代の新しい世代の新儒家に対する批判に共鳴する部分もありますが、現代の新しい世代の「新儒家」に対する批判に関しては、朱子学の系譜との距離とも関係があると思います。そう思うのは、どちらかと言えば、それらと対立するとも取れる、顧炎武とか戴震、章炳麟のような漢学の思想家についてわたしがより多く勉強してきた事実とも関わっているかもしれません。新儒家批判については、葛兆光氏が、1960年代生まれの新儒家の学者たちによる康有為再読を批判しています。それは、許先生と似ているもののように思われますがいかがでしょうか。
許:葛兆光さんや趙汀陽さんの議論に対して、わたしははやや留保しながら見ています。趙汀陽さんは哲学的すぎますし、葛兆光さんは歴史的すぎます。どういうことかと言いますと、趙汀陽さんが構想する天下的システムは、哲学者的な見方で展開していて、中国における歴史上の「天下システム」とは何なのかについて問題にしていません。ですからそれは理想化された語りになっています。一方で、葛兆光さんは歴史学者として、中国の歴史上、一体どこに貴方が言うようなすばらしい天下的秩序があったというのか、現実にあったのは皆残酷な天下秩序ばかりでないかと批判しているのです。この二人の見方はどちらも偏っています。趙汀陽さんが考えているのは、どうあるべきかということですから、彼はそれを歴史の実践の中において見ようとはしていないのです。彼は「天下システム」を理想化しているのです。それに対して葛兆光さんは、思想史研究者ではありますが、中国の思想史にこのような理想がかつてあったのだということにまるで注意を払っていないかのようです。この理想は実践の中でしっかりと現実化したわけではありませんが、理想そのものはやはり歴史の伝統です。今日においてもその意義はあります。未完成の理想なのですから、いまもなおその意義はあるのです。ですから、ただ単に歴史の実践という角度からその思想そのものの価値を否定することはできません。馮友蘭は「思想の伝統は抽象的に継承されるものだ」と述べています。歴史のコンテクストから離れて抽象的に継承されるようなものとして、天下主義の価値は存在しています。
続いて普遍性、闘争に関する問いにお応えしたいと思います。わたしの議論と、皆さんが議論なさったことはどうやら問題意識が異なっているらしいと気づきました。共通点があるとすれば、普遍主義の個性に対する抑圧に抵抗し、個人の自由と民族の個性をどうやって守るかという問題でしょう。しかし、わたしの思考は最初からニヒリズムを念頭に置いています。どうやって新しい世界秩序を構築するか、またその新しい世界秩序の背後にある価値の普遍性とは何かを考えているわけです。この二つの問題意識はとてもアクチュアルなもので、今の世界における二つの相異なる傾向に対応しているのです。その二つの傾向はまさに両極端の関係にあります。一方の極端はこの世界に実体的な普遍的価値が存在すると考え、もう一方の極端は、この世界で一番重要なのはその個性を守ること、さまざまな個性を守ることだと考えており、したがって文化相対主義にはそれなりの合理性があるというものです。しかしわたしが本気で考えたいのは、いかにこの二つの極端を乗り越えるか、ということです。つまり、個性、闘争と競争性を保ちながら、同時にこの世界はなおもその普遍的な秩序を構築できるということです。これは今日の世界情勢へのわたしの判断からきています。つまり、わたしから見れば、今日の世界にとって最大の脅威は、古い秩序が解体される一方で、新しい秩序が未だ構築されていない、ということです。もし、新しい普遍的な秩序がなければ、我々がいうどんな個性もそれを載せる公共的なプラットフォームが存在しなくなります。
わたし自身の思想的な解決策は、ある種のヘッジ・メカニズムを構築することです。これはつまり、ナショナリズムとコスモポリタニズムをヘッジするメカニズムです。わたしの新天下主義についてはすでに説明しました。それは実質的には、ある種のコスモポリタニズムです。それは、今日強くなりすぎたナショナリズムに対するヘッジです。問題は、こうした普遍主義的コスモポリタニズムの背後にあるのはどのような構造でしょうか。この点に関しては、わたしは皆さんの見方に大変賛成しています。つまり、競争が必要です。すなわち、この普遍主義は一元的、独占的、一極主義的な普遍主義ではありません。多元主義的で協創的な普遍主義なのです。それは相異なる普遍主義が相互に対話する中ではじめて形成されるもので、特殊性同士では対話ができません。なぜならば、特殊の価値はお互いに通約できないからです。まるでニワトリとアヒルが対話のしようがないのと同じことです。普遍的な次元に昇華してはじめて、その特殊な普遍性が初めて対話が可能となります。またそうすべきです。
ここでわたしがお話ししたいのは、今年の感染症流行によって世界が変わり、新しい時代の到来はこの後何年も続くだろうということです。そんな中で、日本の学界がどう反応しているかわかりませんが、実は、今日、中国の知識人たちが世界秩序に対して抱いている不安の強さはこれまでにはなかったものです。中国のWeChat上でのグループチャットでは、毎日世界に関する大きな問題が議論されています。このような交流は以前は見られなかったものです。しかし、相互に孤立している中ですので、感染症蔓延の期間中にはそうした交流がかえって以前よりも密接になったのです。なぜでしょうか。それは誰もがこの世界はいままさに解体しつつあり、対抗関係の中にあることに気づいているのです。特に中米間では新しい冷戦が始まりました。しかも、最後には熱戦になってしまわないとも限らないのです。こうした中米新冷戦の中で日本も対岸の火事を見るような態度でいるのは難しいでしょう。たぶん巻き込まれてしまうことでしょう。ですから、この世界が直面している問題の核心は、どうやって新しい世界秩序を探し当てるのかということにあります。この世界の秩序がもし安定するとしたら、それは何らかの新しい普遍的な価値によって保証されるものであるはずです。
それでは、この新しい普遍性は誰によって決定されるのでしょうか。我々は当然、誰かひとり或いは一国によって決められるとは信じていません。では、わたしたちは、人民に出番を与え、人民に決定してもらう事ができるでしょうか。わたし個人としては疑いを持っています。なぜならば、人民とは可視的なものではないからです。人民の意志は往々にしてどっちつかずの、分裂したものです。そこにはルソーが夢見たような統一性や全体性はありません。もしも人民が本当に存在していたならば、それはたぶん抑圧的で偽りの普遍性になってしまうことでしょう。では、希望はどこにあるのでしょうか。わたしはやはり今日の議論の核心にあった、公共領域を形成するということではないかと思います。この公共領域というのは、競争的、対話的なものであり、相異なる普遍主義が相異なるイデオロギーや、相異なる文化伝統の普遍主義に基づいて、相互に対話や、闘争や交流を行い、そして、おそらくはとても薄いものかも知れませんが、ある種の重なり合うコンセンサスを求める。この世界は、まさにそうした薄いコンセンサスの上に成り立つものであり、薄いものであってもそうしたコンセンサスは不可欠なのです。闘争を通してもかまいませんが、ただし、毛沢東が「闘えども破らず」と言ったように、闘争はあくまでも闘争にとどめ、完全に決裂することはない。こうした決裂は冷戦とか熱戦というかたちで現れるでしょうが、わたしたちはそのような局面を見たくはありません。ですからわたしが今日議論した話題は、個人的には純学問的な話題だったのではなく、とても強い現実への関心がそこにはあります。わたしが記憶するかぎり、今年の感染症流行以降ほど、中国の知識人が強い不安を抱えたことはありません。それは、中国に対してとか東アジアに対してと言うだけではなく、この世界がすべて大きな問題を呈してしまったということです。ですから、こうした大問題を解決するための重要な方法の一つとして、わたしが考え出したのは「競争的普遍性」を求めるということなのです。
石井:ここで今回翻訳に関わった王前さんからも、実際に訳者として関わられたことについて、何か感想をおっしゃっていただけると大変ありがたいんですけれども。
王:実は、わたしが初めて許先生の文章を読み始めたのは1987年ごろです。黄遠庸という、中華民国時代初期の有名なジャーナリストについて書いた文章を、わたしは当時大学に入った直後に『読書』で読みました。あの時からずっと許先生の文章を読んできた人間として、今回許先生の初の日本語著書の翻訳に関わることができて、ようやくこういう形で少し恩返しできたので、そういう意味でも非常にうれしく思っています。
今回の翻訳はたいへん価値ある仕事でした。それが最終的に法政大学出版局の「叢書・ウニベルシタス」に入れられたのですが、これは中国の学者の著作としては初めてのことです。ですから、わたしたちはとりわけ意義深いことだと思っています。これは本当に価値ある仕事でした。Amazon(アマゾン)にもうすでに、読者によるレヴューが一つ出ていまして、それもまた初の中国人の学者による書物なので非常にお勧めの一冊だと書かれています。ただ残念ながらその方の読み方がちょっと間違っています。
許先生が使った家族的類似(family resemblance)という言葉について、そのレヴューを書いた方は結局、新天下主義は即ち儒教にたどり着くんだと、痛烈に批判しています。
前田晃一:その誤読についてもうちょっと補足しますと、Amazonの方は家族的類似性のことを家族主義と書いているんですね。「普遍的価値を家族主義に求める本だ」というふうにレビューされてしまいました。ですので、かなりの誤読があるんですけれども、こういう微妙な言葉遣いの間違いというのは、今日のような議論で訂正していければいいかなと思っております。
ウニベルシタスのことですが、わたしの中では、実は中国語の著作であることをアピールしたいということではなかったんです。ウニベルシタスというのはユニバーシティーの語源だそうですが、さらにたどるとまさに普遍性・ユニバーサリティーですよね。だから、ユニバーサリティーを問題にしている叢書の中で許先生の今回の本が出るというのは、中国語・ラテン語というような区別の問題よりはもうちょっと大きいことではないかと個人的に思っています。
本のタイトルを相談していた時に、わたしの中では「新天下主義を問い直す」という言葉をずっと使っていました。許先生から「普遍的価値を求める」というタイトルを頂いた時も、どうしても「普遍的価値を問い直す」じゃないかと実はこだわっておりました。ですが、本を読めば「求める」とか、あるいは「再建する」という言葉が、決してある種の覇権主義を見出そうとするものではないということがよく分かると思います。よく分かるんですが、鈴木先生が指摘されたとおりやっぱり内部にどうしても取り込まれてしまうんではないかという恐怖などもあるかと思います。
それからやっぱり西洋哲学から見ると、普遍主義を中国哲学によって脱構築するというような本じゃないかと見なされることもあろうかと思うんですが、この本はやっぱり、「求める」ですとか、「可欲性」ですとか、ある種の現実的な活動に基づきながら、もう一つの新しい普遍を構築していくという意図が込められていて、ここがとても重要なんじゃないかと思います。ですから、この本をきっかけにして、「叢書・ウニベルシタス」が議論のプラットフォームのように機能していくことができればありがたいと思います。
許:たいへんすばらしかったです。今日この議論に参加できて、一方では皆さんから多くのことを学ぶことができましたし、他方ではまたわたし自身あまり深く考えてこなかった問題について啓発されました。
石井:今日はたいへん刺激的な、さまざまなことを学ぶよいチャンスになりました。改めてご参加くださいました皆さんに深く感謝を申し上げます。どうもありがとうございました。