10/16(金)と10/23(金)にかけ全学自由研究ゼミ「人文-社会科学のアカデミックフィールドを体験する」の第2セッションが開講された(参考:第1セッションの報告 https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2020-4170/)。
今回のセッションを担当するのは陳昭氏(総合文化研究科博士課程)である。文化人類学を専攻する同氏は、公園デザイン等を請け負う中国のデザイン事務所のなかで「デザインがつくられる現場」を記述する現代的エスノグラフィーへ取り組んできた。今回の第1週目のレクチャーでは同氏の調査(フィールドワーク)経験へ、調査「外」の経験を交えつつ、社会・文化が「社会的・文化的なもの」となるインターフェイスとしてのデザイン、とりわけ「パブリック・デザイン」に焦点をあてて話をしてもらった。
レクチャーは受講生への問いかけから始められた。スライドで提示された6枚の写真――ガラスコップ、義足、レジ袋の有料化表示、戸建て住宅、渋谷の宮下公園――について、それぞれが「パブリック・デザイン」と考えるものについて挙手を行ってもらった。答えはしばし保留しつつ、前半は陳氏が調査のなかでみたデザインをめぐる事例の紹介からはじめられた。
陳氏が調べたデザイン事務所は中国南部の都市で循環浄化型のエコロジカルな水辺を備えた公園(と付属のマンション群)のデザインを請負っていた。冠水対策のための公園整備をすすめる自治体、デザインによって高騰する不動産価値、それを購入しうる外部の住民、取り壊しが進む中でも居住を続ける出稼ぎ労働者たちの多様なステークホルダーを紹介しながら「パブリック」はどこにあるのか、をめぐった問いかけが行われた。後半は参加者が通う駒場キャンパスへほど近い場所の事例をめぐって「パブリック」の問題へ入り込んでいった。例として挙げられたのは井の頭線沿いの坂道の景観であった。陳氏じしんのほど近くに住まう坂道の、何気なく通っていた景観へ、ある日突然線路沿いの防風柵が設置されたことで「景観が崩れた」と感じたパーソナルな経験から、「住民」とは誰か、「景観への権利」はあるのかの問題提起がなされた。
中国と日本の事例を見たうえで、レクチャーはふたたび「パブリック・デザイン」をめぐる問いかけへ戻った。権利の範囲を定めることの困難さをふまえつつも、「問題によって構成されるもの」としての「パブリック」との視点をふまえたうえで、かかわりのなかで生成される「パブリック」性をもったデザインとして上記の6つの写真の例――ガラスコップ、義足、レジ袋の有料化表示、戸建て住宅、渋谷の宮下公園――がいずれも「パブリック・デザイン」でありうるとの指摘がなされた。
第2週目は以上の陳氏のレクチャーをふまえながら受講生からの話題提供(Googleフォームで提出)をスプレッドシートへ整理してのディスカッションを実施した。「パブリック」とデザインをめぐる難しい議論ではあったが、受講生がみずからファシリテーターとなってうまく議論の割り振り・交通整理を行いながらディスカッションを行ってくれた。今回取り上げた中国の事例も日本の事例も「当事者」、「受益圏・受苦圏」、「ランドスケープ」といった概念のもとで議論が展開されてきたテーマであるが、ダム建設や街並み保存といった具体例を引きながら「パブリック」はどこまでひろがりうるか、憲法に象徴されるような「公」といかに私たちがそれらと調和をとれるのかをめぐって各自が考えを述べてくれた。とくに投票へ行ってはいるものの、日々の関わりにあって「いろいろ面倒だからやめとく」があるのではないか、との自省をこめたコメントへは講師役の報告者自身も心を衝かれた。これとは別に「パブリック・デザイン」であることと「バリアフリー・デザイン」であること、「ユニバーサル・デザイン」であることは調和がとれるものなのか、との指摘も非常に示唆に富んだ意見であった。
今後のセッションでも「パブリック」や私たち自身の社会へのかかわりのテーマが繰り返し形と視点を変えて登場する予定である。各セッションの積み重ねの中から、受講生がそれぞれの「視点」をつくってくれれば何よりも嬉しく思う。
報告:前野清太朗(EAA特任助教)