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2020.11.17

座談会「天災と人禍――思想と宗教、そして文学と歴史から考える」

2020年11月14日(土)13時より、東京大学本郷キャンパス・国際学術総合研究棟の文学部3番大教室にて、「天災と人禍――思想と宗教、そして文学と歴史から考える」という座談会が開催された。この座談会は、『中国――社会と文化』小特集に向けて、中国社会文化学会と東京大学東アジア藝文書院(EAA)の共催という形で企画されたもので、コロナウィルス感染拡大防止のため、大教室には登壇者5名と10数名のオーディエンスのみが集まり、試験的にZoomともつなげる形での開催となった。

趣旨説明をする司会の中島隆博氏

はじめに、司会の中島隆博氏(中国社会文化学会理事長・EAA院長)から開催趣旨と経緯についての説明があった。今年度は、中国社会文化学会の大会シンポジウムを新型コロナウィルスの影響で見送らざるを得なくなったため、代替案として2つの座談会が企画されたという。第1回目の今回は、主として近代以前の中国と日本における災異をテーマとして、4名の専門家に議論していただく運びとなった旨が告げられた。その4名とは、本座談会の発案者の一人でもある中国歴史学の佐川英治氏(東京大学)、また中国思想史の渡邉義浩氏(早稲田大学)、中国文学の牧角悦子氏(二松学舎大学)、日本思想史の伊藤聡氏(茨城大学)である。

 

 

最初の発表は「災異説における宮室の問題について」と題された佐川英治氏による自身の都城研究の視座から漢代に生じた「災異」をめぐる考え方の変化を検討するものであった。

まず取り上げられたのは、『三国志』巻二十五高堂隆伝に見える魏の崇華殿焼失をめぐる魏の明帝と高堂隆の議論である。この災厄を鎮めるのに、明帝は何らかの「咎」と受け止め壮麗な宮殿を建てるという厭勝を講じたのに対し、高堂隆は「災異」と受け止め皇帝の修徳の必要性を主張した。佐川氏は、この背景に漢の董仲舒が打ち立てた「災異説」があると指摘する。ここで重要なのは、この「災異説」には、陰陽の失調という自然的な天を前提とした「感応」と、警告・教誡を発する人間的な意志をもった天を前提とした「天譴」の二系統があった点である。特に、後者は天災と人為が明確な因果関係のもとに解釈され、修徳により解決可能と考えられるようになったことを意味し、次第に全ての「災異」は「天譴」へと取り込まれていくことになるという。

さらに興味深いのは、後者は建築にしか現れないと考えられた点である。これについて佐川氏は、『漢書』五行志で董仲舒が「天譴」と看做した『春秋』からの災異事例を検討し、その主要な場所が「宮」すなわち「宗廟」であることに着目した。「宗廟」とは古くは都城の核をなす施設であり、皇帝の正統性と関わるために秦漢時代においても重視され続けた。しかしその一方で、祖霊よりも天の祭祀を重視した董仲舒は、祖霊の意志を天の意志へと置き換え、その結果、本来の超越的な天に加え、人間的意志をもつ天が儒教の理論に加わることとなったのではないかと自身の見解を示した。この指摘は、その後の思想史の展開を考える上でも示唆的であろう。最後に氏は、以上を踏まえて、冒頭の崇華殿焼失の逸話に戻り、あくまでも「天譴」とみなさない明帝が、しかし何らかの「咎」を意識し壮麗な宮を建てようとした背景に祖霊の祟りが想定されていた可能性を示唆し、天/祖霊の祭祀の問題でもあったと捉え直した。

佐川英治氏

 

二番目は、渡邉義浩氏による「『漢書』五行志と王充の災異思想批判」と題された発表であった。本発表は、『漢書』五行志における「災異思想」を確認した上で、班固と同時代人の王充がその「災異思想」をいかに批判したか、その根底にある天の捉え方とはどのようなものであったかを検討するものであった。

まず班固による『漢書』五行志の「災異思想」では、すべての災異は人君の行為に間違いが生じたために、それに「応」じた天が「戒」として示した「象」「徴」として理解される。これに対し人君が修徳すれば解決するが、改善しなければ「咎」「禍」が起こるというのがその基本的な考え方である。これは「洪範五行伝」の、特に『春秋』の記事に基づき、董仲舒・劉向・劉歆の解釈を中心とするもので、これが後漢の思想の主流となっていたことが確認された。

その上で渡邉氏が着目したのが、班固の父に師事しながらも、その著作『論衡』において災異に対して班固と全く異なる立場をとった王充である。すなわち天が「自然」であり「無為」である以上、天から譴告が発せられることはない、とし、黄・老の説を評価したのである。但し、このような当時の主流の思想と全く異なる天観念を提示し、鋭利な批判を行った王充であっても、「同気共類」においては感応が起こるとする歯切れの悪さを残してもいた。この点について、渡邉氏は、王充はあくまでも儒家であり「六経」に「天人相関」の観念が明確に示される以上、根底から否定はできなかったと見つつも、王充は、天の心というものは聖人の胸中にあり、天の警告は聖人の口から天に仮託して描かれたものとする解釈を試みていた点を評価した。

以上から、この時期の儒家には、天を無為・自然として見るもう一つの道筋も存在しており、それが後世の思想に重要な影響を与えていったとする。その一方で皇帝権力を正統化しながら、同時に皇帝権力を掣肘する「災異思想」も根強く残り続けたとして、その思想的なダイナミズムを示した。

渡邉義浩氏

 

続いては、牧角悦子氏の「災異を記録すること――『捜神記』を中心に」と題された発表で、異常な現象を人が「記録する」とはどういう行為なのか、という問いを立てた上で、『捜神記』に着目し、近代的概念である「歴史」「小説」「神話」と、現在では一般に志怪小説とみなされる『捜神記』がそれぞれどのように異質であるか分析することでそれに答えようとするものであった。

まず牧角氏は、「記録する」ことは客観的ではあり得ず、必ず「解釈」と「語り」が介在する点を強調した。それを知性のほうに落とし込み克服し、その智慧を継承するのが儒家の「著述」であり、『捜神記』はまさにそうした意識のもとに史官によって書かれたことを序文から確認した。そもそも『捜神記』は『隋書』経籍志では史記・雑伝に著録されていたが、『新唐書』藝文志に至り、子部・小説家類に移動させられている。これについて、牧角氏は、天人相関説が衰退したことで、変化の論理から収集された事例の面白さが着目され物語として読むような傾向が生まれたと指摘する。また、そもそも「記録」は人々の恐れと結びつくことで「想像空間」、いわば人の内面世界を表現する新しい創造へと繋がる側面を持っており、そこに志怪小説と見なされる契機もあった。

牧角氏はここでとりわけ重要な人物として魯迅を取り上げる。魯迅は『中国小説史略』において、儒家的価値を内包する古典を否定し、古代的怪異を語り記す「神話・伝説」を「小説」の起源と位置付けて小説史を再構築する中で「志怪」という視点を顕在化させた。無論「神話」は近代に西欧から輸入された概念であり、中国近代において儒教的価値から開放されるために古代の混沌的世界に光が当てられる動きと魯迅も軌を一にしていた。また、「史」と記事と小説はもともと曖昧かつ重なりあっていたが、近代において「歴史」「小説」といった新しい概念で組み替えられることとなったと指摘する。

記録する行為は客観的では有り得ず、そこには幾重もの構造が生起しているが、とりわけ異常現象においては記録者の解釈が反映しやすく、記録者の目的と意識によって、勧戒を目的とすれば「史」へ、異世界への興味嗜好が先行すれば「小説」へ向かうと結論した。

牧角悦子氏

 

最後は、「祟・天譴・怪異――日本における天災と信仰」と題された伊藤聡氏の発表であった。伊藤氏の発表は、これまでの三名とは打って変わって日本の古代・中世における災異に対する意識・解釈をめぐる問題を扱い、特に、日本の祟(タタリ)観が外来の祥瑞災異思想・天譴説といかに相克・融合し、変容を遂げたかを辿るものであった。

まず『古事記』の記事に基づき、上代日本におけるカミの祟(タタリ)が、カミの祭祀の要求であり、そこに倫理的含意がなかった点を確認した。そこに六世紀以降、仏教が伝来すると仏教はカミの「タタリ」への対抗呪術としての役割を担うようになり、他にも複数の呪術的な方式が中国朝鮮から齎され試されていった。さらに八世紀以降、神々自身が仏教へ自ら帰依できないことを苦しみ「タタリ」を起こしているというように仏教の在地化の論理として説かれるようになっていく。

一方、天人相関に基づく天譴説は律令制形成の一環として導入されたが、災異の原因を天皇の不徳に帰し恩赦が行われながらも、神仏への祈願も盛んであった。伊藤氏は、この要因として、日本の律令体制では天命思想ではなく神孫が前提であるために、天譴説の論理が構造上徹底し得なかったと指摘する。また八世紀には、タタリを為す存在に「死霊」が加わり、慰撫して神格化する御霊信仰へと展開した。タタリの主体が多様化・複雑化するに伴い、それまで神祇官が担っていた占法に加え、九世紀以降に台頭するのが天体観測技術や式盤など新しい占法を用いる陰陽師で、彼らは「怪異」の原因を判定し対処法を講じる職務を担った。陰陽師の台頭によって後退したかに見える天譴説であるが、その後も、災異改元や民間において特定地域で出された「私年号」、あるいは災害や一族の危機を警告する霊廟・神社の鳴動といった形で、変容を遂げながらも残存していったことが指摘された。

伊藤聡氏

 

全体討論は、最初に各発表者同士での質疑応答が交わされ、その後でフロアに開かれる形で行われた。

最初の中国研究者の三名からの質問は、日本研究者である伊藤氏に対するものであった。まず佐川氏から天災や疫病に対する捉え方における日中の根本的な違いについて質問があった。すなわち中国では自分の内部に問題があって災害が起こると考えるのに対し、日本では外部から齎されるものと考えていたといえるか、またそのために責任という問題意識が希薄で天譴説が不徹底となった側面があるのではないか、というものである。これに対し、伊藤氏は、古代日本では疫神は外部からやってくるという発想があり、対処法としては疫神送りや道の遮断と祭祀などの防御が中心であったとして同意を示した。また渡邉氏からも仏教が在地化する過程で神のタタリを利用するような側面について日中両方に見られる側面も含めて質疑があった。また牧角氏は、中国では疫病対策などの対処法を文献から探るのは難しいが、日本にはかなり当時の具体的な対処法が残っている点などに言及された。一方、伊藤氏からは鳴動の事例や宗廟概念の違いについて佐川氏に質問があった。興味深かったのは、日本に宗廟がないという問題について、後に伊勢神宮など神社を天皇の宗廟にしようとする動きがあったという点である。但し、近代以前はそれほど宗廟祭祀を重視していた事例はなく、中国的宗廟の在り方はむしろ近代以降に再定義されたという。

続いて、フロアに議論が開かれた。会場からは、中国において王権批判として奢侈がクローズアップされた事例の有無についての質問や、単線的には捉えられない残響・反動・反復といった複雑な展開を遂げる中国の思想史に関する問題提起、天人相関説に触れる機会もないような一般民衆が持っていた災害観について文学から探ることができる可能性についてなど、様々な方面からの質疑があがった。特に興味深いと感じたのは、漢代の官僚がどれだけ天譴などの儒教の神秘性を信仰していたか、という質問に対し、渡邉氏が、製紙法が発達する前の時代においては、物理的にアクセスできる書物の量が思想を決定した、と応答した点で、王充が当時としては特異ともいえる思想を提示し得たのもそうした要因と結びつけて考えることが可能である、ということであった。

議論は尽きないが、最後に締めの言葉として、佐川氏から、今回のコロナという疫災によって引き起こされた現在の状況について、各地域における政治的対応と伝統的な災害観がいかなる関係にあるのか、という関心から発された企画であったことが共有された。また日本に関する議論で度々登場した「曖昧さ」という言葉、一方で中国の文字で書かれた議論の蓄積という特色も改めて認識する機会となったと述べられた。そして来月に控える第二回座談会への期待も示された形で閉会となった。

 

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以上のように、本座談会は、日中の古代中世の研究者が中心であったが、そこに特化した議論というよりは、むしろそこを基盤として、より大きなパースペクティブが示される刺激的な会となった。

それは、それぞれが充実した資料とそこから得られた深い知見に裏付けられた発表であったことは勿論であるが、その上で、第一に、地域的な隔たりと繋がりを持つ中国と日本の専門家が一堂に会したこと、第二に、専門が歴史・思想・文学のように関わり合いながらもずれていたためにアプローチや問題関心の在り方が重なりながらも異なる部分も多かったこと、第三に、時間軸も漢代や日本の上代から近現代の問題まで含む大きなパースペクティブが示されていたこと、そして第四に、やはりこのコロナ禍が齎した現状にたいする問題意識の共有という下地があったことによると思われた。

それを象徴するように、質疑においては、縦横無尽に時間軸が行き来し、さらに地域をまたぐことで生じた疑問も浮き彫りにされた。特に議論が集中したのが、「天」という概念の捉え方、そして祖霊やそれを祭る宗廟の問題である。日本において宗廟がなかったという点は「天」の概念の「曖昧さ」と繋がっている問題である一方で、佐川氏が最後に述べたように、日本において祖先崇拝がなかったのではなく、宗廟は同姓の親族を祭る施設であったという点も大きいのであろう。

地域的な広がりでいえば、宗廟祭祀や天の概念、天譴思想や災異思想、古代の再評価や近代の問題は、冒頭で佐川氏が触れた朝鮮でも考えることができるであろう。さらにいえば、書物や技術、人、情報が同じく行き来していたベトナムや琉球などの地域に関してもおそらく同様の問題提起ができ、その際にはまた別のキーワードが飛び出してくるのではないか、とも想像され、今後の展開も非常に楽しみになった。何よりも、専門分野の異なる研究者が集まることで起こる化学反応、自身の分野への理解の深まりや新しい問題関心の発見をし合う濃密な場を共有できたのは貴重な体験であった。今回はコロナウィルスの影響により少人数での開催を余儀なくされたが、この議論は『中国――社会と文化』に掲載される予定ということで是非お読みいただきたいと思う。

 

(報告者:EAA特任研究員:宇野瑞木)