先日報告したように、ダイキン—東大産学協創プロジェクトの一つとして推進されている「Look東大」がEAAとの協働で行われることになりました。全3回シリーズの2回目は11月5日に行われました。今回は、國分功一郎さんがジョルジオ・アガンベンという著名な哲学者の短いエッセイを題材に進めてくださることになりました。このエッセイは2020年4月13日という、今となってはCOVID-19のパンデミックが始まったばかりと言える時期にイタリア語で発表されたエッセイです。英語版は4月15日に公開されています。それは、「一つの問い」というシンプルなタイトルの短い文章ですが、その中でアガンベンは、新型コロナウイルス感染症流行から防御するために世界中で行われている人びとの隔離やロックダウンなどの政策にきびしく異議を唱えています。参加者の皆さんは、國分さんがご自身で行った翻訳(國分さん、お忙しいなかありがとうございます!)をあらかじめ読んでおいた上で議論をすることを求められていました。
アガンベンの異議はおよそ3点にまとめられます。1)感染症によって亡くなる人を看取ることも葬儀することもできないのはおかしい;2)人びとの移動の自由が奪われたことはおかしい;3)生きることの意味から感情を持つ文化的な生き方が切り捨てられ、単に生物学的で植物のような生の維持だけが問題となっていることはおかしい。これらは、人間の尊厳を揺るがす根本的な問題であり、非常事態だからという特別な理由であるとしても許されるべきではないと彼は言います。なぜなら、これらの例外を認めることは、あたかも「善を守るために善を諦め」、「自由を守るために自由を諦め」ようとすることと変わらないからというのです。
さて、こうした議論に対してエッセイの読者はどのように反応するでしょうか。そして、参加者の皆さんはどのように反応したでしょうか。
今回もまた、前回と同様、多くの参加者を得ることができました。ダイキン社員の皆さまが大きな期待を寄せてくださっていることを感じ、この上なくありがたく、また身が引き締まります。しかし、時間はやはり限られています。その限られた時間のなかでなるべく皆さんが相互に意見交換ができるように、今回もZoom Meetingに具わっているブレイクアウトセッションという機能を利用しました。國分さんのアイデアでグループの人数は3名に制限されました。『論語』にも「三人いればその中には先生がいる」と言われるます。「3」という数字は自分にとっては思いがけない視点を他の人から得るためのラッキーナンバーなのです。
短いグループ討論の前後には、國分さんから巧みな解説が加わります。その度ごとに新たな視点が提供され、おそらく参加者は共通して、エッセイへの理解が深まったと感じたにちがいありません。
「こんなに深くは読めなかったので感心しました。」
「当初よりも深く内容を理解することができました。」
こんな感想が口々に発せられていきました。「深さ」に気づいたことは、アガンベンの挑発的ではあるけれど哲学的な議論への理解や、人文学的思考への理解が深まったということで、この企画に参加することで有意義な「学び」を得たことになると言えそうです。しかし、わたしはここででちょっと立ち止まってみたいと思います。
こうした感想が寄せられた一方では、次のような疑問もちらほらと上がってきました。
「葬儀ができないということにそこまでこだわる必要がなぜあるのかわかりません。」
「これほど葬儀にこだわらなければならないのはイタリア人独特の感性かも知れないと思いました。」
「正直、わたしの感じ方とはちがっていて共感するところはありませんでした。」
もしかすると、こうした感想は初めてこのエッセイを読んだときから漠然と感じられていたのかもしれません。議論を経てもその感覚が揺らぐことはなかったのですから、初志が貫徹されたのです。でもそのことは、「学び」を得られなかったことを意味しているのでしょうか?
実は、國分さんは、最初から「学びを得る」ことを参加者には期待していなかったとわたしは思います(確認したわけではないのですが、きっとそうです)。くり返しくり返し、このエッセイが世界中で多くの非議を呼んだ(いわゆる「炎上」を起こした)問題作であることを指摘し、アガンベンの議論に共感を示せるよう努力するつもりは全くないと強調していたのです。注意深い方であればその点にお気づきだったでしょう。しかし、國分さん自身の鮮やかな解説は、幾重にも折り重なったことばの襞を一枚一枚丁寧になでるように進んでいきます。それに魅せられて、多くの人がエッセイに込められた「深い」哲学的問題提起に気づいていきました。それはこれまで気づかなかったことに気づく、だいじなプロセスであったと言ってよいでしょう。そして、それこそはわたしたちが「共に変化し共に成長する」ためのプロセスこそが人文学であるとする、このシリーズ企画の醍醐味である、のかもしれません。
「しかし」と、この企画を終えてもう一度そのときのようすを味わってみたいと思ってこのページを訪ねてくださった参加者の皆さんに対して、わたしは敢えてこう問いかけてみたいのです。
皆さんは本当に納得したのですか?
アガンベンは、人間の尊厳の問題であると言います。人間の尊厳を見守るべき教会も法律家も、あっさりと非常事態における喪の機会喪失と、立法手続きを経ない政令による緊急事態措置を受け入れてしまったこと、そのことに対して、彼は断固反対するのです。でも、「人間の尊厳」とはいったい何なのでしょうか。そして、仮に彼の意味する「人間の尊厳」に同意するとして、わたしたちはそれをどこまで教会と法律家に委ねているでしょうか。たしかに民主主義社会において議会(立法府)の役割はその根幹を成すのだから、議会での議論を経ずに政府が独自で政令を出すのは民主主義の精神に悖るでしょう。そこにはおそらく全体主義に道を開く危険が潜んでいるだろうということも、わたしたちは理屈として知っています。でも、議会で議論をしている間に事態はみるみる悪化していくのだから、非常事態においては政府に権限を委譲することも限定的に許されるのではないでしょうか。まして、わたしたちの日本での生活には教会は縁遠いものだから、やはりこれはイタリアの特殊な文化にのみ当てはまることなのではないでしょうか?こうした考えや感想を克服できなかったことは、「浅い」ままで今回のイベントを終えてしまった残念な失敗例なのでしょうか?
わたしの答えは「否」です。断固として「否」です。
このシリーズ企画には「ことばを通じて人と触れ合う」という共通テーマが掲げられています。「ことば」はただそこにあるわけではありません。ことばを通じて人と人が触れ合うには、双方がことばに対して抱いている意味やイメージをお互いにチューニングすることが必要ですし、そうすることにこそ新たな発見はあるはずです。例えば、「人間の尊厳」ということば。そう、わたしたち人間は尊厳ある生き物です。でも、「尊厳」とはそもそも何なのでしょう?葬儀へのこだわりに違和感を感じた人は、そこに尊厳を見いだしてはいなかったのではないでしょうか。そんなことよりも、健康に暮らしていた人が不条理なウイルスに冒されて、ふだんどおりの生活ができなくなり、生死の境をさまようことになりかねないことのほうが大きな脅威であり、その限りで、人間の尊厳は死んだあとの葬儀ではなく、まさにいま生きて活動していること——毎日の仕事、家族との休日、趣味の楽しみ等々——こそに見いだされるべきではないでしょうか。尊厳を守るためにこそ進んで緊急事態を受け入れているのだと考えることは、まちがっているのでしょうか。
アガンベンは単なる頑固な哲学老人ではありません。彼は言います、問題は、「限界点とは何なのかを、私たち自身がきちんと問うているかどうかである。」と。緊急的な政策が非人間的なものへと転化する限界点は、あらかじめ与えられているわけではないのです。それは、わたしたちが問うことによっていくらでも変わりうるものです。だからこそアガンベンはわたしたちを挑発しながら、問いに誘っているのです。その問いの中心は、「人間の尊厳とは何か」にほかなりません。そして、こと問題が人間の人間らしさに関わるものである以上、わたしたちは、「浅さ」を「浅さ」のまま維持していくことこそが、実はいちばん大切なのではないでしょうか。わたし自身の実感とは異なること、直観的に違和感を持つこと、それこそが問いの出発点になります。アガンベンが言うことは自分の生活実感とはちがうと感じることなしに、哲学は始まらないでしょう。ですから、どうかそうやすやすとエラい哲学者の御説に納得しないでください。そして、自分の実感と直観を「浅い」ままにもっとつきつめてみてください。
「深みにはご用心!」——どうぞ、呉々もお気をつけください。深みは人をずぶずぶと沈めていくばかりです。出口は一つ、「浅瀬にもどること」です。「学びを得」てはいけません。何かおかしいと思ってください。その問いだけが「3」という数字をラッキーナンバーに変えることができるでしょう。
次はいよいよ第3回。ラッキーナンバーです。
また多くの方々とお会いできることを心から楽しみにしております。
報告:石井剛(EAA副院長)