2020年10月17日(日)14時より、読書会「文学と共同体の思想」の第5回がZOOM上で開催された。当日の参加者は、王欽氏(EAA特任講師)、佐藤麻貴氏(ヒューマニティーズセンター)、Qing Xin氏(教養学部PEAKコース学部生)、及び本報告執筆者(ニコロヴァ・ヴィクトリヤ、総合文化研究科修士課程)の4名であった。今回は、フランス哲学者ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)の著作、The inoperative community(英語版、Minn:University of Minnesota, 1991;フランス語原版は、La communauté désoeuvrée. Paris: Christian Bourgois, 1990;日本語版は、『無為の共同体』 以文社、2001)を取り上げた。発表は王氏が担当し、序論に注目しながら本書が書かれた背景やナンシーの主張について全面的に紹介した。
まず、本書が書かれた背景としてEUの成立が指摘された。まだ冷戦が続く当時であったが、ナンシーは新しい経済的・政治的・文化的共同体=EUの可能性を念頭に、あるべき共同体とは何か、という大きな問題意識の下で執筆を始めたと思われる。しかし、彼の議論は「政治的」でありながら、実際の「政治」を扱うわけではない。また、カール・シュミットが語るような力の関係或いは対立関係に基づく共同体と区別をつけ、別の意味での共同体に着目する。
ここで、ナショナリズムを共同体の一種として語ったもう1つの著作、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を王氏はとりげた。共同体とは「われわれ意識」を持ったあまたの個人によって想像されるものだという本書の主張から、アンダーソンの議論の出発点は絶対的な存在としての個人であることが分かる。それと比べて、ナンシーの捉え方は逆である。ナンシーは、アンダーソンの議論の基盤となる伝統的リベラル思想を批判する形で、先に個人が存在しその上で共同体が成立するのではなく、先に共同体がありそこから個人がやっと生まれるとする。言い換えれば、アンダーソンにとって共同体とは言語を共にする個人たちの想像によってはじめて成立するのであるが、ナンシーにとっては言語を共にしていること自体が、すでに共同性の成立していることを示している。つまり、ナンシーはアンダーソンと全く逆で、共同体こそを議論の出発点とする。
さて、ナンシーの想定する共同体とは、いったいどのようなものなのだろうか。結論から言えば、それは実体(entity)でもなければ本質(essence)でもなく、あくまでも共に存在するという過程(process)なのである。また、共通的存在(common being)ではなく、共同での存在(being-in-common)である。共通的存在というのは、共通的かつ本質的なアイデンティティ(substantial identity)の基で成立し、理念や民衆やリーダーなどの一体化した実体、つまりナチ思想や保守的ナショナリズムのようなものを指す。一方で、共同での存在の場合は、本質的なものの不在と、共通のアイデンティティの無さを共有することが共同体の基盤となる。また、この共通のアイデンティティの無さが共有されることによって、共同体の有限性(finitude)も明らかになる。しかし、元々有限的だった共同体が、やがて共通のアイデンティティを創り上げたりリーダーを生み出したり、同一性に向かうことで、有限性と共同での存在を失っていく。この変化は共同体自体の“work”の為に起こるものだとナンシーが指摘するが、その具体的なメカニズムや歴史的解釈については言及がない。なぜなら、ナンシーの関心はそこにはなく、むしろいかに一体性を引き除き元々の共同体へ後退(retreat)するのか、という点にあるからである。
目的も一体性もない、しかしだからこそ創造力に満ちる、いつまでも続く共同での存在という過程。このような共同体の回復を求めたナンシーは、最終的に「革命」と「文学」の力を再考することに至る。実は、本読書会の名前「文学と共同体の思想」もまさにここからインスピレーションを受けていると、王氏は説明してくれた。
議論において報告者はいくつかの疑問を提起した。即ち、ナンシーの想定する共同体の具体的な事例とは何なのか、過程としての共同体の「境目」がどこにあるのか、そして共同体と主体性の問題をどう考えればいいのか、という3点であった。以上の質問を受けて、王氏は、共同体の具体的な事例をあえて示さないというナンシーの議論の特徴を改めて指摘した。そして、1つの連想として、柄谷行人が提起するような“nomadism”について述べた。また、共同体と主体性をどう考えるかという問題については、例えば友人や恋人同士の間における共同性、つまり一体性のない、自由な存在の共有(sharing of life itself)が1つのヒントになるかもしれないと論じた。
続いて、Qing Xin氏は、ナンシーの議論の理論性を認めた上で、過程としての共同体は具体的な実体として存在しないながらも、それでも人に具体的な影響や悩みをもたらすことができると、ある種のリアルな側面を指摘した。これに対して、王氏はジョルジュ・バタイユの共同体論に触れながら、共同体の実践というリアルな難しさを再確認した。
佐藤氏は、共同体の1つの事例として大学を取り上げ、自身の経験について共有した。不満を感じさせる大学ではあるが、その一員であり続けたいと思えるのは何故だろうか。決して理想的でない大学ではあるが、私たちに希望をもたらすことができるのはどうしてだろうか。いずれも考えさせる質問で、答えが1つあるわけでは当然ないが、おそらく大事なキーワードの1つは「共有」であろうと、参加者の間で確認した。また、別の視点として、再び柄谷行人が想起された。柄谷は、特に所属を求めず、一生我が道を独り歩きしてきた思想家だと思われる。もしこのような柄谷の姿勢には一定の「強さ」があるのだとすれば、所属を求める私たちには、そして共同体にこだわるナンシーには、もしかして一定の「弱さ」があるかもしれないと、佐藤氏は投げかけた。これを受けて、王氏は、柄谷とナンシーはそれぞれ関心と課題が違うのは、2人は元々違う主義に立っているからであろうと、解釈を付け加えた。
他に、竹内好の「遊び」と魯迅の「孤独」、共感という概念、ナンシーによる「左派的」の再検討、等等、参加者は共同体を巡る様々な問題提起のもとで意見を交わした。まだまだ話が弾みそうであったが、2時間半以上にわたった今回の読書会は、次回への期待を込めて幕を閉じた。
報告者:ニコロヴァ・ヴィクトリヤ(総合文化研究科修士課程)