9月12日(土)にZoomにて開催されたEAA読書会は、今年2月に刊行されたばかりの山本聡美氏の『中世仏教絵画の図像誌――説経絵巻・六道絵・九相図』(吉川弘文館、2020)を取り上げた。
これまでの読書会では近代以降を対象とした研究を取り上げることが多かったようであるが、今回は日本中世の仏教美術という、メンバーに馴染みの薄い分野でもあったため、報告者(宇野)から、まずは本書の「序文」にそった形でその研究対象と方法論、また全体の構成について確認を行った。本書は4部構成で、「経説絵巻論」「宝蔵絵論」「六道絵論」「九相図論」となっている。そのうち今回わたしたちが中心的に議論したのは第4部にあたる「九相図論」であった。
「九相図」とは中近世日本で描かれた、死体が腐敗し白骨となるまでを9場面で表す仏典を典拠とする図像のことである。もともと仏典の中で説かれる「九相観」という肉体への執着を滅却するための死体が朽ちて骨になるまでを観相する修行に用いられる図像であった。山本氏の論考では、その仏典における九相観、敦煌本など中国で作られた九相詩に触れた上で、とくに日本での九相詩の出現からその絵画化、さらには世俗化の過程を現存する美術作品を中心に論じ、六道絵や餓鬼草紙、病草紙などの仏典にまつわる作品群の中に位置づけている。
日本における九相図の生成という点で重要なのは、いずれも鎌倉時代に作製された九州国立博物館蔵「九相図巻」と聖衆来迎寺蔵「六道絵」の「人道不浄相幅」である。山本氏は両者の比較をする中で、『摩訶止観』に基づく観想の補助具の絵画としての前者から、後者に至って四季の表現と結びつき無常観が付与され、六道絵に組みこまれ、生から死への移行を示す図像として新しい意味を担うようになった点について論じている。
特に注目されるのは、死体が女性として描き出される点である。従来この点について「男性出家者が女性の醜い屍体に思いを巡らすことで淫欲の心を抑える」という煩悩否定(女性否定)の経説を踏まえたイメージであるとの指摘がなされてきたが、山本氏は男性からのみならず、女性自身もその享受者となった側面に着目している。
すなわち九相図は高貴な女性の教化をも担い、女性はその絵を見て自身の不浄の身を懺悔したというのである。また、女性が不浄の肉体をさらけ出すことで他者の発心を導く聖性を帯びていく、という側面もあったという。室町から近世にかけては、九相詩絵巻がバリエーションを獲得しながら、小野小町や檀林皇后など特定の女性の名を冠した九相図が生まれていった。
議論においては、まず本書の方法論として示された「図像誌」と、「九相図論」(第4部)の末尾に出てくる「生命誌」という表現との関係が問題となった。「九相図論」の末尾では、中近世の九相図の展開が近代にいたって途切れた後、今再び現代美術作家によって九相図がモチーフとして取り上げられ新たな命が吹き込まれている例が示されている。特に日本画家・松井冬子の「浄相の持続」が訴える問題は豊かであり、山本氏の筆もこの部分に来て一気に現代的な死を取り巻く私たちの状況というものを鋭く洞察するものとなっている。いわば、そこまで図像誌(あるイメ―ジが、別の意味を孕んでいく歴史的過程を含めて記すということ)という枠組みで取り上げられてきた諸論は、ここにきて私たちの生命とは何か、肉体とは何か、死ぬということはどういうことか、という根本的な問題に向かうのである。そこにおいて飛び出す「生命誌」という「図像誌」のさらなる言い換えは、第1部から第3部までの美術史の基本的な方法論に則って、注意深く同時代的コンテクストの中でなされた図像読解から一歩踏み出した次元をのぞかせている。そのような視座から見返すならば、本書で扱われた図像群は、餓鬼草紙、病草紙、放屁合戦絵巻にしても六道絵にしても、人間の肉体(それは老い衰え朽ち果てるものである)や死という側面から、生命を照らし出すものばかりである。報告者の宇野は、本書で設定された「図像誌」という枠組みは、イコノグラフィーとイコノロジーを踏まえた方法論で、図像の表の意味を超えた意味内容をも読みだす方法を内包しているが、近代美術の学術的対象から疎外され忘れられた九相図を、六道絵や他の経説絵巻などの系譜とともにその俎上に置くという意欲的試みであると共に、九相図から拓けた生命誌という視座からそれらを再度眺め直す可能性をも示した書といえるのではないか、と指摘した。
さらに議論は本書における「文物」という側面から仏教の導入を見る視点に及んだ。佐藤麻貴氏(東京大学ヒューマニティーズセンター特任助教)は、仏教導入時、激しい反発や政治闘争があったこと、土着の信仰・死生観との関係、また既に国際都市であった状況など日本の古代史を踏まえた上で、仏教が「文物として導入された」とは言い切れない点を指摘した。さらに佐藤氏の専門である南方熊楠の粘菌研究にも言及があった上で、細菌の活性化というレベルから別の生命へと移行していくサイクルの視点との関連が示された。
また建部良平氏(EAAリサーチ・アシスタント)は、死という表象不可能な事態を表象するという特異な位相にある「九相詩」に着目し、死というものが今よりずっと身近であった古代に死というものがどのように見つめられ、捉えようとされているのか、という点に留まって思考することの必要性を喚起した。そこからインドの死生観の問題や災害が続いた中古中世の日本の状況なども議題に上がった。
他にも議論が活発になされたが、いずれにしても、九相図という近代以降の美術史における取捨選択において、一度は見捨てられたモチーフについて、経典絵巻や六道絵の系譜の上に置き、正当に評価し直すという基礎的な作業を行った点、その上で仏教教説のみならず、文学における展開との交叉を視野に入れて論じている点において、本書は高い学術的意義を有するものといえるであろう。今回、報告者は日中を中心とした説話文学の専門であるが、その他のメンバーは、王欽先生をはじめとして東アジア近現代哲学、環境思想、認知科学など全く異なる分野の専門家であったにもかかわらず、議論が盛り上がり長丁場となった。このことは、本書のテーマ、とりわけ九相図というものが、美術史の枠組みや時代を超えて、死とは、肉体とは、美とは、生きるとは、といった根本的問いを現代のわたしたちに投げかけるものであることを物語っていると思われた。
報告者:宇野瑞木(EAA特任研究員)