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2020.09.03

【EAA Dialogue (6) 】小林康夫氏×中島隆博氏

2020年8月31日、東洋文化研究所第一会議室にて、今年度は初めてとなる、第6回ダイアローグが開催された。今回のゲストは小林康夫氏(東京大学名誉教授)で、EAA院長の中島隆博氏と対談を行った。小林氏は東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻での「表象文化論コース」の創設に関わり、その全盛期を導いた主役で、2002年立ち上がった21世紀COEプログラム「共生のための国際哲学交流センター(UTCP)」のリーダーとして活躍されてきた。その情熱の動力は何であったのか。2015年東京大学を退官された小林氏をお招きし、研究と大学、人生についての話を聞いた。ここではその内容を簡略に紹介したい。詳細は将来刊行予定であるEAAダイアローグを参考にされたい。

小林康夫氏

本対談で中島氏は小林氏の幼年期の話を尋ねた。これまでの研究テーマや今日我々が直面している危機・課題に関する話が主になるかと対談の内容を予想(?)していた小林氏は驚く様子を隠さなかった。求められるのが「パーソナル」的か「オフィシャル」なものかを確認してからは、「プライベート」な幼年時の話を丁寧に語ってくれた。生まれた時の、敗戦直後の日本の状況や、貧しくて必ず幸せ的な家庭ではなかったが明るい子であったこと、小学生のころから理系の子供でありながら、絵を描き、図書委員として活動をしていた子ども時代の話が述べられた。

時代が全共闘で騒がしかったときに、東京大学に入学した小林氏は、当時の駒場についても淡々に語った。こうした激動のキャンパスを背後にまた「遠くへ行く」ことへの渇望からフランス・パリへの留学を決心し、1977年3月にはじめてパリ訪問を果たし、1978年に留学に旅立った経緯を聞かせた。そこで、小林氏はフランス哲学の中枢に触れることとなる。デリダやリオタールの授業をとったこと、議論したこと、興味津々な話は続いた。その後、帰国し、電気通信大学への着任が決まり、1986年には、しばらく離れていた駒場に戻る。そこから1990年代のnew academismのブームの中、アートと身体など中立的空間での学問の議論を展開するため、表象文化論を創設し、表象文化論の時代を導いたこと、そこから2002年に「哲学と国際化」を旗印にした「共生のための国際哲学交流センター(UTCP)」を立ち上げ、情熱が導いた楽しい研究活動を繰り広げたことを熱く語った。

時系列で区切りながら進められた小林氏の対談の中では、大学のあり方や、科学テクノロジーの発展に伴う言語の課題(自然言語と数理言語を乗り越える言語の問題)、複合(語)のイシューなどの興味深い話が語られた。

時代にそった小林氏の話を聞くと、「歴史」という言葉が自然に浮かぶ。その歴史は日本の戦後という時代、大学、とりわけ駒場という空間、そしてリベラル・アーツ、何より一人の人間が描かれたものであろう。最後に夢を語り、また「存在の冒険」を続けるとの小林氏の話は大学に残っているものたちの希望にもつながるだろう。休憩なしの3時間を過ぎるダイアローグであったが、その場にいた誰一人も時間の長さを感じなかった有意義な時間であった。

小林康夫氏(左)と中島隆博氏(右)

報告者:具裕珍(EAA特任助教)