2020年7月26日、4月にコロナ禍で開催延期となっていた第三回「ジャーナリズム研究会」が、Zoomにて行われた。
一人目の講師は佐藤至子(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)であった。本発表「絵は出来事をどう語るか――近世後期の草双紙における視覚表現――」は、講師の単著『江戸の絵入小説 合巻の世界』(2001)に挙げた事例に基づき、18世紀と19世紀の草双紙における文と絵の関係を詳細に考察したもので、充実した内容であった。
氏は、草双紙の歴史的変遷について概観し、文章が主体である近代小説とは異なり、草双紙の場合は文が絵の余白に書き込まれるものであったと確認した上で、芝全交作『大悲千禄本』(1785)や山東京伝『八重霞かしくの仇討』(1808)の例を挙げながら、「絵に密着する文」(「小がき」、または「書入」と言う)と「叙述する文」(「本文」と言う)の区別および時代とともに変化していったそれらの役割を細かく分析した。氏は、紙面上に交差している文字と図像を読み解く方法について、江戸末期には「絵と書入とを先へ見て本文はあとにて読み給ふべし」(式亭三馬『昔唄花街始』1809)という順番が定着していたと指摘した。
また、草双紙が多様化していくなかで、絵と文の〈ズレ〉も生じていった。初めは紙幅が限られていた関係もあり、絵が時間の経過を伴う複数の場面を表すことがあったが(中世の絵巻物にも見られる「異時同図法」)、丁数(現代でいうところのページ数)が増えると、絵は原則として出来事を発生順に表してゆくものの、絵に表された出来事が本文では必ずしも説明されないなど、絵の順序と本文における説明の順序が一致しない例が出てくる。なかでも実に興味深いのが、読者の関心をつなぐ「だんまり」という創作法だ。「だんまり」とは歌舞伎で登場人物が無言で探り合う場面を言うのだが、草双紙では絵で描かれている様子が同じ紙面の文によって説明されないことを指しており、「大ぎりにくわしくわかる」(山東京伝『石枕春宵抄』1816)とあるように、物語の最後にその意味が明かされるという表現法である。
佐藤氏が本発表で考察した江戸時代の草双紙の制作現場や作者が示していた「読則」を出発点として、質疑応答の時間では、明治期の草双紙や錦絵新聞などにおける継続性と断続性が活発に議論された。具体的には、東アジアをはじめ日本以外に存在していたであろう類似したジャンルとの比較を促すコメントが出され、また、作者が表示する読則にかかわらず読み手側においては多様な読書形式があった可能性、草双紙の読者が歌舞伎の観客とも重なっていたからこそ「だんまり」の手法が草双紙でも読者の興味を引き付けるのに有効だった点などが、質疑応答を通して示された。さらに、本発表で示された江戸期の草双紙と江戸期の読売瓦版や明治期の錦絵新聞、小新聞との文と絵の関係性の相違や、明治期の新聞連載小説における挿絵と文章の読書との相違点について質問および指摘があった。
以上報告者:イリナ・ホルカ(東京大学大学院総合文化研究科 特任准教授)
河崎吉紀氏(同志社大学社会学部教授)による本日二番目の報告「ジャーナリストと政治家の分岐」は、近代日本の議会政治の発展に伴う新聞ジャーナリズムと政治の関係性の変容を辿るものであった。
河崎氏によれば、議会政治誕生前夜のジャーナリストと政治家の境界は曖昧であった。自由民権運動を経て1890年の帝国議会開設に至る過程で、新聞は政治の主たる舞台として活性化した。新聞記者は取材記者ではなく政治的議論の論客であり、紙上の政論を通して政府に直接的に圧力をかけることができた。記者としての筆力はそのまま「政治力」を意味したのである。
ところが帝国議会開設以降、政策をめぐる論争や利害調整の舞台は新聞紙上から議会へと移ってゆく。特筆すべき現象は、政論新聞の時代に筆の力で政治に取り組んできたジャーナリストの政治家への転身であった。『新潟新聞』の主筆であった尾崎行雄や『郵便報知新聞』の記者であった犬養毅に代表される、ジャーナリズム出身の「メディア議員」が台頭し、1920年代から1930年代にその数はピークを迎えた。
他方ジャーナリズムにおいては、日露戦争を境に、新聞の重心が政論から報道へと移っていった。日露戦争は、戦況をいかに速く正確に報じるかをめぐる新聞社間の報道戦でもあった。競争が激化するなか、各新聞社は読者の需要が高く “売れる”速報の報道を重視し、それを可能にする海外特派員・電報・号外・夕刊といった制度を整備する経済的資本を必要とした。政治の舞台としての新聞の質的変容とともに、新聞記者の役割もまた変化した。かつて政府にむけて具体的な政策を主張していた新聞記者は、国民にむけてニュースを提供し、報道を通じてときに国民感情を煽る存在となった。
20世紀初頭に増加を続けた「メディア議員」は、第二次世界大戦を通じて減少に転じる。河崎氏はその要因については仮説段階にあるとしながらも、第二次世界大戦の敗北が国政における記者と政治家の立場の違いを浮き彫りにした点を指摘した。
質疑応答では、ジャーナリストの政治との多様な関わり方に関心が寄せられた。例えば、政界進出せずにジャーナリズムに残留した記者たちは、どのように政治と関わろうとしたのか。出版(雑誌)ジャーナリズムは、新聞が手放しつつあった政論の新たな受け皿となりえたのか。これらの問いに対し河崎氏は、ジャーナリズムに残った記者たちが、新聞よりも雑誌に政論発表の活路を見出したり、『萬朝報』の黒岩涙香のようにスキャンダリズムを通じて政治と屈折した関係を持ったりしていた点を指摘した。また、言論統制が新聞の報道への傾斜に及ぼした影響についての質問も出された。河崎氏は、1918年の白虹事件のような言論弾圧事件が紙面上での大々的な政治的議論を困難にした点は認めつつ、新聞が報道を優先するようになった要因はどちらかといえば事業拡大を目論む新聞社の経営事情にあったのではないか、と回答した。さらに、ジャーナリストと政治家の分化には明治期における議会政治の始まりと日本の第二次世界大戦敗戦後の二段階があることが河崎氏から補足説明されると、前者はジャーナリストと文学者、思想家の分化・専門化とも通底する傾向であることが参加者から指摘された。このほか、イギリスのジャーナリスト養成・資格化の制度史を追った河崎氏の単著『ジャーナリストの誕生』(2018)に関連し、英米ジャーナリストの職業意識や記者教育との比較という観点からも興味深い議論がなされた。
日本の近世から近代における出版・読書・報道文化を見渡す研究会の後は、希望者とともに講師を囲んで遠隔懇談会も行われ、発表内容についての議論がさらに深められるとともに、コロナ禍の中、参加者が各地で苦労しつつ研究・教育活動を行っている様子が語られ、互いに励みになる会となった。また、今回は本会初の遠隔研究会で、対面での開催とは勝手の違う不便さも感じられた一方で、関東近郊のみならず、関西のほか、韓国、台湾、イタリアのように遠方からの参加者もおり、オンライン開催の強みも感じられた。
以上報告者:尾﨑 永奈(東京大学大学院博士課程・ボストン大学大学院博士課程)
報告文監修:前島志保(総合文化研究科准教授)