7月10日(金)、2020年度EAA学術フロンティア講義「30年後の世界へ――「世界」と「人間」の未来を共に考える」最終回が開催された。講師は國分功一郎氏(総合文化研究科准教授)と熊谷晋一郎氏(先端科学技術研究センター准教授)の二人で、題は「中動態と当事者研究――仲間と責任の哲学」である。
講義冒頭に、講師より1人でできることは限られている以上、人に教えてもらうことが大切であって、大学の授業も複数の教員が共担することがもっとなされるべきだとの話がなされた。
続く講義においては人間の再定義の問題と、自閉症(近年では自閉スペクトラム症とも呼ぶが、以下、自閉症で統一する)の研究が人間観を大きく覆そうとしていることについて触れられた。すなわちハイデガー『存在と時間』的な「現存在」の分析は定型発達の人に当てはまる分析で、必ずしも人間そのものの分析ではないのではないかという仮説が示された。仲間について誰でもわかっているが、誰も厳密には定義できていない。友達や恋人、親兄弟、同胞等とは何が違うのか。コミュケーションについて、自閉症はコミュニケーション障害だといわれるが、例えば、日本人とアメリカ人との間でコミュニケーション不全があった場合、問題は両者の間にあるのであって、一方にだけ問題があるわけではないのに、自閉症の場合では、自閉症の人の側に一方的に責任が押し付けられる理不尽さがあるのではないかという。
当事者研究とは、障害者など研究や支援の対象、客体にされてきた人々について、その当事者自身が自らの困難について、自ら研究する側に回って探求するという営みである。統合失調症の患者によるものからスタートし、依存症や自閉症へと広がり、対象的な研究手法では見逃されてきた知見が現れてきたという。
講義によると、自閉症については当事者研究を通じた定義についてのプロテストがなされた。そこで提示されたのは、障害についての医学モデルと社会モデルの2つのモデルであった。医学モデルとは、本人の体の内に原因を求めるもので、英語では、impedimentに当たる。社会モデルとは、環境との相性の悪さに求めるもので、disabilityに当たる。例えば、車いすの人にはエレベーターのないところで障害が感じられるが、それは建物のデザインと体がフィットしていないことによる。ならばコミュニケーション障害とは、人的環境とのミスマッチであって一人の内にだけあるものではないのではないか、環境の側にも変わるべきところがあるはずだが、それが患者の内にある問題へすり替えられているのではないか、という。熊谷氏が綾屋紗月氏の共著『発達障害当事者研究』(医学書院、2008)を著するにあたって、disability を impedimentとしないよう気を付けたという。いわゆるimpedimentとは、環境が変わったとしてもなお残る不変項としてとらえられるが、それをそれとしてとらえられるのは、絶えず環境を生き続けている当事者を措いて他になく、外部の観察者にはできないのだという。
当事者研究においては、当事者ということに多く重点が置かれるが、研究ということにも重きを置きたいとの見解が述べられた。かつてパターナリスティックな研究に対する当事者主権が言われたが、一方で、当事者が自分のことは自分が一番よく分かっているとして自己決定するというのも、自分のことが自分ではよくわからないということが十分にあることを考えれば、十全なものとは言い切れない。自分のことでも、研究をしてみなければ分からないということがあるのだから、当事者「研究」であることが重要であるという。当事者研究とは自己分析と異なるものであるという。精神分析は、一対一で、言葉を使って進められるが、研究は人に向けて成果を発表する形式を取り、それが言いっぱなし、聞きっぱなしであったとしても、発信と受信の双方に変化をもたらす。当事者研究は費用の面においても、精神分析の民主化された形態であるという。
これまでの哲学の他者理解には、他者の異質性が強調され、最終的な分かり合えなさや、理解のために必要な飛躍の強調がしばしばなされたという。しかし、類似的な他者、自己と似ていると思われる他者について考えることも重要である。自閉症の知覚のあり方として、奥行きが見えない先に何かがあることが分からないということがあるといい、ドゥルーズの、人は見えないものが他者によって知覚されていると考えることでそれを自らの知覚に含み込むことができるという発想をふまえて、他者感覚を掴みづらい人はドゥルーズが言うように奥行きをつかめずにいるのだという。國分氏は、以前に行ったことのあるブラジルについては、見えなくてもあるのだろうという存在感があるが、行ったこともなければ、人もいないだろう月については存在感がないとの例をあげた。また留学先のフランスで、フランス語が全くできない知人が、現地の人とほとんどコミュニケーションが取れないゆえに世界が狭くなったと言っていた例をあげて、そのように、他者感覚が弱くなってくると、自分の見えるところにしか世界の広がりがなくなっていくといい、ロビンソン・クルーソー的な状態になるのだと述べた。人は生まれてきてすぐはロビンソンであり、次第に他者を経験して、それを通じて世界感覚が生じてくるのだという。
では、他者感覚はいかに養われるのだろうか。ドゥルーズが言うような、近くを預けられるような他者というのは、類似的他者であって、同じように世界を見ているだろうとは思われない鳥ではいけない。また、類似的他者は人によって異なりうる可変的な存在であり、異質な他者はむしろ一面的で定数的。類似的他者は人によって異なる変数的なものであるという。それゆえ、人によっては意外なものが他者になりうるのだという。それはたとえば動物の言葉が分かる、動物の翻訳者というような存在である。その点、自閉症の人からすると、定型発達の人は異質で、それを通じて世界を広げる他者とすることができないのではないかという。そこには、知覚のあり方がマイノリティであるがゆえに、類似的他者、仲間を見つけにくい構造があるとの指摘がなされた。
ここで自閉症の人同士では類似性があるものとして、コミュニケーションがうまくいくのではないかとの類似性仮説が提起されてくるが、実際に実践の場ではそうした状態が生じているという。環境によってはコミュニケーションがうまくいくというのだからそれはimpedimentとはいえない。他方、自閉症の人を複数集めたとして、impedimentについてはバラバラとなる可能性があるという。同様にコミュニケーション障害があるとしても、その原因は別々でありえてimpedimentとdisabilityは一対一の対応関係にはない。つまりimpedimentが共通していれば類似ということになるが、同じdisabilityを抱えているからといってそれは類似であって共鳴することにはならないのだという。
当事者研究には、当事者運動と依存症自助活動という先行した2つの活動があった。一方の当事者運動は、近代を貫徹しようとしたもので、典型的には白人男性に認められたメンバーシップを、マイノリティにも要求するものであったという。他方は、近代を補完しようとするもので、自立という近代的なあり方がエスカレートすると依存症に至るとし、依存症を近代にビルトインされた落とし穴として、近代を全否定はしないものの、それから距離を取ろうとする態度だという。そこでは自立が孤立にならないように、との言及もなされている。
例えば女性の薬物依存のケースでは、しばしば虐待経験があると言われたているが、虐待経験によって人への依存ができなくなる、他者にSOSを発しても、応えてもらえず、そういうところでは、むしろ依存はしないように「学習」するのが合理的となるのだという。しかし人に代わる薬物あるいは自身の様々な能力といった対象への依存が生じるとともに、人間関係については、対等の水平関係ではなく、自ら支配者になるか被支配者になるかの垂直的・支配的な関係に依存しがちであるとした。
そこで精神科医は依存をやめさせようとするが、1つの要素だけを取り除こうとしても効果はない。そうではなく、水平的な人間関係に正しく依存できるようにすることが必要なのだという。また、虐待体験はトラウマとして、思い出したくないものとなり、その過去を遮断しようとして、過度に覚醒的な状態になるか、むしろ覚醒度を下げて眠るようにしてやり過ごすことがなされる。そこで、過去を仲間と共に分かち合うということが、2つの課題を一挙に果たすものとして有効な手立てとなるとされた。
近代的な人間主体、責任主体というのは、いわば自分依存の状態である。そこにおいてうまくやれている人というのは、うまく依存できている人であって、依存先が分散しているため、特定の事柄に殊更依存している状態にないのだという。言い換えれば依存症の人とは、うまい依存をすることができず限られたものにしか依存ができない状態なのである。
意志とは自発的なものと考えられているが、もし純粋な自発というものがあったとしたら、それは周りとの文脈を全く欠くも狂気として映るだろうという。意志には、文脈を切断し、行為者自身を出発点とするという機能があり、その切断に人は頼って生きている。これは現代の労働者のあり方ともリンクしていて、昨日今日で異なる要求に対し、まさにフレキシブルに対応することが求められており、意志により、過去を切り去っては、今の課題に対処させられているのだという。古代ギリシアには意志の概念はなかったことを考慮すると、おそらくキリスト教から生じてきて、アウグスティヌスが特に論じたものであるという。
意志を否定すれば、責任も消え去るのかということについては、依存症の自助グループの取り組みの中で、過去の遮断の解除を経たうえで、償いのためのステップがあるのだとし、そのような順序による責任の取り方が、中動態的なあり方こそが、本来のあり方ではないかとされたところで、ひとまず講義が終えられた。
質疑応答へと移り、直接にではなく、第三者を介して、類似性をつなぐというのは可能かという質問に対し、類似性で結びつくだけではなく、類似性の濃淡のある同心円的人間関係というものが言われた。またハンナ・アーレントが取り上げられ、私的なものと公的なものの両方の必要が言われ、公的な関係には距離があり、距離を取り除く愛というのは政治には役立たないが、大衆社会の息苦しさはその距離のなさに基づくと述べられた。信じることと依存することとの関係が言われ、規則性のないものは信じることができないこと、自然法則でも、人の反応でも、同じだとされた。物の秩序も人間関係の秩序も通じることがあって、次に何が起きるか分からない虐待の現場では、信頼、予測性のモデルが構築できないという。この他にも盛んに質問が出されて、いくらか時間の延長もありつつ、最終回にふさわしい盛り上がりを見せて、今回の講義、そして今年度の学術フロンティア講義は幕を下ろした。
報告者:高原智史(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋 ・前半の自閉スペクトラム症に係る議論では,自らのそれに対する認識をアップデートすることができたとともに,その後の「依存」を通じた「仲間」に関する思索・分析も大変明快で,終始爽やかな気持ちでお話を聞かせていただきました。特に,「自立」と社会において言われているような状態は「依存先が多いこと」であるような状態である,ということが印象的でありました。私が一点疑問に思ったのは,依存症の自助グループの方々にとり,彼らが自助グループとして活動をする際,その「水平的な人間関係のなかで」物質依存からの脱却や過去の遮断の解除を試みている,という目的自体を直接認識することは利益になるのか,ということです。少しおっしゃっていたように,自助グループの活動自体は必ずしも平穏に進むということにはなっていないと思います。もし彼らが,自らが今取り組んでいる活動の目的を理解して行ったなら,どのような反応になるのかということが気になっています(もし現在しているのであれば,逆に認識しなければどうなるか)。これについて私が直接アプローチすることは難しいですが,何か臨床のお話などを見つけていけたらと思います。(後期課程) ・國分先生が冒頭におっしゃった「自閉症研究によって、今まで定型発達の人ばかりを対象にしていた人間観をより精緻化していくことができる」というのは、今まで無反省になされていた「一般」と「特殊」の区分を批判的に問い直すという意味で、ヨーロッパ中心主義的な見方を批判した中島先生の世界哲学の講義や羽田先生の世界史の講義にも通じる、「新たな普遍」の構築の営みの一つであると感じました。それと同時に、國分先生が導入された「類似的他者」の概念は、漠然とした「違い」の概念を変数的に扱うことができるという点で、単に哲学の一分野における道具立てに止まらず、学問の垣根を超えた多くの分野における「新たな普遍」の構築に応用、敷衍していける可能性を秘めた概念なのではないか、とも感じました。(文科一類~三類) ・今回の授業を聞いて、学術のフロンテイアがどんな物なのか分かった気がしました。國分先生と熊谷先生が違う立場から同じ研究課題に興味をもち、協力されていることがよく分かり、中島先生が先日おっしゃっていた「駒場の良さ」という物だったり、「友」と付き合う中での「良い変化」をする姿勢の一例が示された気がしました。また、人があるひとつの行動を自分の意志として、その責任に依存して生きていくといったことは、自分の実体験上当てはまっている気がして面白い考え方でした。と同時に、自分依存、独りよがりにならないことの難しさも感じました。他方で実際には行動力のある人間もカリスマ性があると言われもてはやされることが多いので、どの程度の自己依存が社会的に好感をもたれるのかは知っていないといけないんだなあと思いました。 コロナ禍の中でオンライン授業という特殊な時間でしたが、自分は確かに長続きする学びの姿を見ることが出来た気がします。これまで中学高校と試験的に必要がありかつやりたいことしかやってこなかった(正確には試験で点をとれば大学に受かる、ということも試験で点を取りたい、という意志に還元された、つまりやりたい事しかやっていないと言えるのかもしれないです)自分にも、ヒトについて問いと仮説をたてる過程をへて、より広い世界が広がった気がします。30年後この授業が役に立っていればいいなあと思いました。講義ありがとうございました。(理科一類~三類) |