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2020.06.08

【活動報告】第7回学術フロンティア講義 2020年5月29日(金)

5月29日17時からZoom会議上で学術フロンティア講義の第7回が行われた。今回の講師は総合文化研究科准教授の四本裕子氏。脳科学の研究者である。

石井剛氏からの簡単な紹介と四本氏の自己紹介の後、すぐに講義が始められた。脳科学は、脳とそれが生み出す機能について研究する学問分野であるとし、脳科学研究の歴史はB.C.3500~1900 / 1900~2010 / 2010~ の三期に分けられるとした。第一期については、古代インカで、頭蓋骨内での出血に対して、血を抜いて脳の損傷を抑える手術の跡がある人骨が見つかっていることや、「医学の父」古代ギリシアのヒポクラテスが、人間の心の座は脳であるとしたことが紹介された。第二期については、脳機能測定法の進化もあり、脳の各部位によって異なる機能が担われていることが分かってきたことが紹介された。

こうした歴史的外観の後で、「平均値を考える」を題に講義が進められた。グループの差と個人差を考えるとの趣旨である。一般化可能な差とそうでない差とが言われ、グループに差があるからといって、それが個人の属性をあらわすとはいえないことが言われた。

また、脳の多次元性に及び、多変量解析について説明があった。脳の差はモザイク状であるので、多変量解析でこそ分かるのだとされ、84次元で計算をした結果が示されたり、3486次元の計算では、計算に10日ほどかかると言われたりした。いまや平均値の差で語るのは「非科学的」であって、それよりも多次元性に注目せねばならないとした。以前の脳科学は、脳の部位の特定と平均値で語り、その差から、「科学的」に性差を説明する言説などが紡がれていたが、いまや一般化可能な差が重要なのであって、そういうものはほとんどないとした。

また、そうして出てくる差が因果的に現象を説明するのかにつき、原因と結果の向きの方向、他に共通する原因の存在、疑似相関について言われた。差が生まれる仕組みとして、脳と行動・思考、社会・教育の三者関係がいわれ、それぞれの相互関係に及んだ。脳には可塑性があって、脳自体変わるし、様々な要因がそれぞれ原因となり、結果となる。多次元の社会に我々は生きているのであって、そこから多様性の尊重、活用が求められるとした。単純なグループ化、平均化は情報量を減らす操作であって、そうした過少な情報量で社会を回そうとするのはコストパフォーマンスが悪いのだと結ばれた。

講義がいったん終えられた後、石井剛氏からまず質問があった。多元的な解析によっても、やはり男女のおおまかな違いは浮かび上がってくるが、それと多様性との関係はとの質問。四本氏はそれが、脳がつくりだした結果なのか、行動の蓄積や遺伝的なものとして発現しているものかは分からないとし、脳機能の差だけで説明はできないとした。

ついで、こころと脳について石井氏は質問した。脳ではなく、「こころ」が外界を認知し、考え、ふるまうという経験知もある。いつから脳に重きが置かれたのかという質問に対しては、ヒポクラテスの時代からこころは脳にということが言われているとした。四本氏は自ら「原理主義者」だと語り、こころ=脳だと考えているとしたが、身体性が重要、身体と脳のセットが大事で、脳だけを取り出してそこにこころがあるとは思わないとした。統合としての腦がなければ、こころは働かないだろうとした。

マルクス・ガブリエルの『私は脳ではない』に石井氏は触れ、ニューロセントリズム、神経中心主義への反発に及んで、精神の自由の確保の必要性が言われているとし、脳が感じることと「わたし」が体験しているということにはズレがあるのではないかとした。四本氏は、ズレにつき、本当にあるのか、解明されていないだけなのかを問題にし、これに対して石井氏は、解明が進んでいく中で、脳の規定性を強調していくのか、それには回収されない自由があるという方向へいくのかとした。

四本氏は、脳の外に自由が欲しいかとし、脳の中にではダメかとした。自由があったとしても、脳があって、感じられなければならないのではとし、自由であるということが、自分は自由だ、私であると感じられていることだとしたら、それは脳の働きで説明できるのではとした。

AIは自由意思を持つかとの石井氏の問いに対しては、身体性が重要であると考えているところから、AIで真の知能をというような流れには疑問を持っているとした。人間の内的思考とAIの働きとが同じかどうかは検証できない問題だとした。そこから、人間が人間であることに及び、アンドロイドの人権については、内的なプロセスがそこにあるのなら、権利が必要になるのではとした。

ここで学生から質問を募り、多次元解析における変数は無限に増やす必要があるのか、どこかで打ち切って効率化する必要があるのかという方法的な質問がまず出た。四本氏は、分析の精度が頭打ちになるところで区切るべきとした。

四本氏が講義の最後で社会運営の「コストパフォーマンス」という言葉を出したことについて質問が出た。四本氏は「コスパが悪い」というのは、個人差を考慮しない雑なグルーピングによる社会運営は人的リソースを十分に活用できていないとした。

平均値の考え方は脳の単一の部位に注目し、多次元解析は脳の複雑性に着目しているのかという質問に四本氏はイエスと答え、ただし、一つの部位、脳のネットワークどちらを相手にする場合でも、多次元解析は使えるとした。

フロンティア講義第3回の田辺氏の講義で、人間の根本的な同一性としての「わたし」というものはないとされていたことに関連して、そのような同一性はあると思うかという問いに対し、四本氏は、記憶や、同一であると思っているところの意識は脳にあるとした。ただし、記憶は揺らぐし、アップデートされるものとしてあるとした。

解き明かしきれない存在としての人間ということはないか、全てが分かってしまっては、それはもう人間ではないし、どこかキモチワルイのではないかという質問に対し、四本氏は、むしろすべてが明らかになれば、すごくキモチイイのであって、それを目指して研究をしていると答え、質問者との間での方向性の違いがみられた。

石井氏からのまとめとして、脳科学に侵犯されている(すぐ上のキモチワルイという発言に見られるように)と人文学の側で感じている向きもあるが、むしろ、脳科学の営みを良いものとして受け止められるような人文学としていかなければならないとした。人間の意識はまだよく分かっていないのであって、脳科学の進展によるディストピアをいうよりは、まずはもっと研究してみるべきであるとして、本講義は閉じられた。

報告者:高原智史(EAAリサーチ・アシスタント)