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2020.05.08

EAA中国近現代文学研究会 第6回報告

2020年度春学期EAA中国近現代文学研究会(第6回)が、2020年5月2日(土)にオンラインで行われた。今回は魯迅「阿Q正伝」に対する汪暉の論文「阿Qの生命における6つの瞬間 始まりとしての辛亥革命を記して」(『現代中文学刊』2011年第3期)を中心としてディスカッションした。

まず、王欽氏(EAA特任講師)は近年の魯迅研究における当論文の位置づけを紹介し、その問題意識を指摘した。汪暉氏は「精神的勝利法」と近似性のある国民性批判を起点とし、“「阿Q正伝」に含まれる二つの国民性の対話”、つまり魯迅の叙述自身が呈する国民性と反省的行為、再現する対象としての国民性は、必ずしも閉鎖的な体系とは限らなく、そこには転化させる動力が存在すると論じている。明瞭な構造に見えるが、魯迅研究と解読の歴史においては充分に検討されてこなかった。王氏は劉禾『言語横断的実践』(原題:跨语际实践)における魯迅と「支那人気質」をめぐる論議を挙げ、「阿Q正伝」の理論化の矛盾を説明した。たとえば、劉氏はポストコロニアル理論を用いて国民性を「見られる方」に置き、西洋人を「見る方」にしているが、そうすると魯迅の国民性批判は自ら瓦解するものになってしまう。一方、汪氏は国民性の「批判する者」と「批判される者」両方を中国人の中に内包させ、解答の手がかりを提示している。

汪氏の手がかりは密閉性の割れ目を探し出すことにある、と王氏は言った。6つの瞬間をめぐる鋭いテキスト的発見を肯定したうえで、阿Qが自分のことを知らないかのような興味深い瞬間は、汪氏が全体として論じたい革命の可能性と必ずしも一致していない。

具体的には、本論文は「革命とは始まりに対する反省である」といったアーレントの革命論を引用し、阿Qの本能や直感には、「精神的勝利法」では説明できない瞬間があり、その瞬間が革命的であると指摘している。 しかし、阿Qを原点に立ち返らせる「なんで俺はここにいるんだ、町を出ていくんだ」という瞬間から革命の可能性を引き出すには、阿Qのような「もやもや」ではなく、これらの瞬間に言語と表現を与えることが必要である。汪氏は単に「外的条件と内的力学と同時に共鳴するエネルギーで満たされる必要がある」と言っただけで、汪氏自身はこのようないわゆる革命的な瞬間を表現できる方法を見いだせなかったのである、と王氏は指摘した。

次に、本論文の「鬼」をめぐる論議を中心に、建設的なところと不十分な点を挙げた。汪氏は「鬼」を二層構造として分析しようとしている。第一層の「鬼」は直感として、「登場人物の自己制御不能の直感や本能を叩き込む」、すなわち阿Qの覚醒的瞬間である。「鬼」は、自分の中に含まれながら、自己制御を超えたところに存在している。王氏はデリダの幽霊に関する言説に論及し、第一層の「鬼」は自己批判の機会を提供しているのである、と指摘した。 第二層の「鬼」は実体が崩壊した後に残る封建的な構造物である。二つの「鬼」は具体的にどのような関係にあるのか?なぜ自己批判的な「鬼」は、隔たり・社会秩序としての「鬼」を変容させ、崩壊させることができるのだろうか?それは汪氏が議論しなかった部分である。

最後に、汪氏は「下向きの超越」が必要だと締めくくっている。論文では、「直感や本能は、本当のニーズや本当の関係性を明らかにするだけでなく、それを変えたいという欲求も表現している」とし、本当のニーズや本当の関係性は、セックスや食べ物がないことへ阿Qの身体的な反応に還元されたが、それ自体が社会秩序に結びついていることに、王氏は言及した。 社会秩序の外部とは何か?阿Qの名無しと身元不明などといった「コレクションにおける指定できないアイテム」である。下を向いて超越することで、汪氏はそれを突破しようとした。しかし、それは非常に問題のあるアプローチである。もし成仿吾、蒋光慈などいわば「貧すれば貧するほど革命的」という結論に至るならば、身体主義的な阿Q解釈に立ち返ることになってしまい、社会の複雑さや全体性を把握することは不可能である。

鈴木将久氏(人文社会系研究科教授)は、初めてこの論文を読んだ時の気持ちを語った。当時の読みがスムーズだったのは、汪暉氏は竹内好、丸山昇、丸尾常喜など日本の研究者のフレームを多く取り入れたからである。たとえば、丸尾氏は「鬼」を中国の伝統文化と融合させたもので、汪氏はそれを少し前に進めている。

明示はされていないが、汪氏は丸山昇の魯迅研究を受容している、と鈴木氏は指摘した。丸山氏は竹内好の研究を継承し、「革命」の問題を加えた。「阿Q正伝」が論じている革命は辛亥革命に限らず、循環的なものである。いかに循環を断ち切るのかが魯迅の目標である。丸山氏は魯迅が直面した環境を大切にし、実証的な論証をしていたが、汪氏は日本人研究者の問題意識の核心を捉え、それを現在の時空において再検討して新たな問いを探っている。

今回再読して、基本的には同じような感じではあるが、汪氏が良い問いを提示しているわりに答えが見つかっていないという感じもした、と鈴木氏は述べた。結論を書き換えるのであれば、どのように書けばいいのだろうか、と鈴木氏は問いかけた。

王欽氏は、テキストの詳細を捉えることが必ずしも決定的な結論につながるわけではない、と語った。汪氏が分析したいのは形式的なレベルであり、阿Qの人生を内容とし、一つ目の形式的なレベルは阿Qの人生に具現化された緊張と葛藤であり、二つ目は魯迅の文章である。魯迅の文章力の歴史的・政治的意味合いの議論は、魯迅の悟りだけでなく、晩年の魯迅の『故事新編』にも響いている。「阿Q正伝」にこだわる必要はなく、魯迅の創作の歴史的脈絡という観点から拡大して理解することができれば、解釈の豊かさの扉を開けるかもしれない。

報告者:王柳(人文社会系研究科博士課程)