4月23日、新年度1回目の「文学と共同体の思想」読書会がZoomを通してオンラインで開かれた。今回はEAAの講師や研究員、RAのほか、本年度のプログラム生も加わり、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)のThe Coming Community (Minneapolis: University of Minesota Press, 1993. 日本語訳は『到来する共同体』上村忠男訳、月曜社、2012年)をめぐり、様々な議論を交わした。
読書会は王欽氏(EAA特任講師)によるテキストの読解から始まった。“Whatever singularity(なんであれかまわない存在)”という本書のコアなコンセプトについて、これは一人ひとりに対するより形而上学的な言い方で、アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)などが提唱するマルチチュード(Multitude、多数性)とは単数と複数の差があってもかなり近いと王氏が指摘した。これは両者とも単純な共同性として見ることができないからである。さらに、アガンベンは政治権力へと立ち向かうときこそWhatever singularityが成り立ち得る、もしくはそれしか存立しえないとラディカルに措定する。以上の理由から、最終章で政治闘争を通して展開される議論を中心に読解を進めることにした。
では、アガンベンは実際の政治に対して無政府主義的な立場の持ち主であるか。彼が注目した政治的運動は、特定の訴求が欠如している特徴が目立つ。一例のみならず、リーマン・ショック後の「ウォール街を占拠せよ」から、コロナショックの中で外出禁止令に対するデモ(anti-Covid19)まで、その傾向が広く見受けられる。ある意味で、デモ自体が抗議の目的となり、訴えなどはなんでもよく、デモの内容は二次的になる。これを踏まえて、同じ目的を持つ政治的主体(individual)が結束し、ともに闘うという旧来の見方と異なる政治運動の仕組みが見えてくる。参加者はデモで個人の「性質」を捨て、その場その場の抗議で新たな連帯を作っていると王氏は解説した。
その新しい人と人とのコネクションについて、王氏はさらにジュディス・バトラー(Judith Butler)の「ウォール街を占拠せよ」に対する分析を援用して説明した。ある理念に賛同し行動に移すという従来の抗議は言語による回路で表現されるのに対して、ウォール街を占拠した人々は街に出てデモの進行の一員になるという身体の行動で表現しているという。政策や法案の制定と執行で特定の要求を満たすことができる現代国民国家は、こうした訴えのない、ただ継続している抗議にたいして自らの統治が機能不全に陥りかねないと、深く警戒している。だから国民の絶対的服従を取り戻すため、戦車が街中心部に現れたとしてもおかしくないだろう。同時に、アガンベンが謳歌するような口調で描いたデモのやり方は純粋な暴力であるか、彼の政治的立場をどう理解すべきかと王氏は問うた。ここの暴力は未来や正義のための革命の暴力ではなく、価値判断のない単なる行動として存立する。そして彼のアナーキズムは国家を壊滅させるより、寧ろタイトルで示される通り、新たな人間のつながり方を模索しているのだとして見てよいのではないかと締めくくった。
討論に入り、佐藤麻貴氏(ヒューマニティーズセンター特任助教)はanti-Covid19における人間の権利(前にanti-Covid19をアガンベンのいう訴えのないデモの例にも合致するとコメントしたのも佐藤氏である)に言及し、理性の在り方について問題を提起した。もし個々人の存在(entity)を理性(rationale)のためのものとして見た場合、理性へと到達するのに何かの実在の感覚を捨象したとしてもやむを得ないということになる。こうして到達したのは真の普遍的「理性」であろうか。佐藤氏は柄谷行人の議論ではsingularity、個人的なものこそがuniversality、普遍性につなげられることに触れ、アガンベンとの類似性を指摘した。王氏は柄谷の議論では移動の自由に関して「身体」の問題がじゅうぶん注意されていないことが両者の相違であると補足した。建部良平氏(EAAリサーチ・アシスタント)は第八章におけるヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の引用を取り上げ、「理想と現実とは紙一重にすぎない」という発想は井筒俊彦の華厳哲学理解と通じているとした。井筒は華厳哲学の神髄は「事実無碍」とし、善とは現実存在を空とするのではなく、もう一度現実にもどることになり、さらに新しい哲学を作り出すことであると唱える。佐藤氏は華厳哲学において、「空−有」の連環でこそ意味を生み出すことができると確認した。
円光門氏(EAAプログラム生)はアガンベンのもう一つの愛用語“irreparable”についての説明を求め、王氏はアガンベンの哲学に沿って答えた。人間は言語によって存在を把握するが、言語そのものがいったん形成したら、かえって存在を制限してしまう。こうした言語哲学のテーマからアガンベンが捉えようとしたのは、存在と言語との間の「何か」である。そのため彼はirreparableやlimboなど多様な事例と比喩を使ってその「間にあるもの」を表現している。熊文茜氏はindividualityとsingularityとの違い、そして「到来する共同体」にある「一時的身分」とその共同体の様態との関連性などについて質問した。王氏は主に後者に対して答えた。「一時的身分」はデモの現場にいるたびに変化しているからである。いわゆる“the coming community ”は、明日とか来年とか現実になる何かの特定のものではなく、参加することで共同体がその時、その情勢に応じて変化していく、つまり「つねに来ている」共同体と見てよい。アガンベンも具体策などはまったく用意していないともいえよう。国家権力が訴えのないデモに対して警戒感をもつ理由について、報告者:胡藤(EAAリサーチ・アシスタント)はデモが国家の根本的機能である「統治力」を壊すきっかけとなるとして、そこでアガンベンにとってその統治力に代わるものがあるか、あるいはこうしたデモがつねに抵抗の力として存在するかを尋ねた。王氏は、アガンベンは実際の行政などの統治力より、国家理性というものを近代国民国家の核とみていると答えた。確かにアガンベンが想像する“the coming community ”の在り方には国家理性の位置がない。ただそこから彼の思想のラディカルな色彩も見えてくる。今回のテキストをめぐる議論はここで終わった。
ヨーロッパで始めて新型コロナウィルスによる感染爆発が起こったイタリア在住のアガンベンは、政府が非常事態の建て前で人間の自由の核心である「移動の自由」を恣意的に取り消してしまうと批判した。また世界的な範囲でも感染の長期化を見据えてこれを常態化しようとする傾向は人間の存在を大きく脅かしている。その一方、アガンベンの一連の論考は大きな反響を呼んだ。人文学は今の時世にどんな役割をはたせるか、パンデミック後の世界はどうするべきか。中国のある歴史家は「一生学び、ことのすべてを現在に捧げ」と力強く宣言したが、その行き先は明るいとはどうしてもいえなかろう。The Coming Communityを読むことを通じて、少しでも我々の苦悶を解消し、未来への想像力を開き、思考によって新しい世界を作る第一歩になったらいいと、今回報告を書きながら願っている。
報告者:胡藤(EAAリサーチ・アシスタント)