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2020.04.22

【活動報告】第2回学術フロンティア講義 2020年4月17日(金)

2020年4月17日(金)、今年度の学術フロンティア講義「30年後の世界へ――『世界』と『人間』の未来を共に考える」の第2回として、学生との「インタラクティブ・セッション」がオンライン授業で開かれた。当日の講義では前回紹介した東アジア藝文書院(EAA)の主旨と活動について参加者から受けた様々なリアクションに対し、EAAスタッフが応答する形をとった。

なぜ「友情」か?

石井剛EAA副院長がコーディネーターとなりEAAスタッフ一同の自己紹介が終わった後、第一の問いが挙げられた。前回の講義で言及され、かつ『日本を解き放つ』(小林康夫・中島隆博、2019年)でも語られていた「友情」の意味について、更なる説明を求めるものだった。

若澤佑典氏(EAA特任研究員)は、すぐに答えられない質問は人を狼狽させるものだが、それは良い問いであり、積極的に問いを続けることを呼びかけた。そして質問者の問いを「30年後の世界」の文脈に置き、自分の世界に入り込まず、全体像と他人の考えを知ってこそ人は進化する、そのための「友情」だと答えた。前野清太朗氏(EAA特任助教)は、自分の海外フィールドワークにおける世話と孤独を語り、海外に行くこと自体ができなくなっている現状だが、若い世代には他者と関わる機会を掴んで欲しいと願った。


若澤佑典氏(EAA特任研究員)

中島隆博EAA院長によれば、友情には人間に起こった変化を良い方向へ導く力がある。人間は誰かと一緒でないと変化は起きず、若者はあらゆる方向に変化している。しかしその方向には良いものも悪いものもあり、単なるコンフリクトに終わってしまう恐れもある。EAAは互いを良い方向へ変容させる技術を皆に身につけて欲しいのであって、そのプラットフォームを提供するのだとした。

価値判断はするべきか?

変容に良いものと悪いものがあるなら、その判断基準は何だろうか? 続いてのリアクションは経済学部の学生からのもので、「科学は価値判断を持たないが、価値観の面では人文学が強い。その価値判断の力を持ちたい」と講義参加の思いを述べた。すると別の学生からも質問があげられた。「価値判断は人ぞれぞれである。人文学、例えば歴史学は、具体的な例を取り上げることはできても、普遍的な価値へ踏み込むことはできるのだろうか」と。

石井氏はこの問いをオープン・クエスチョンとした。価値中立は近代において「科学」の条件となったが、グローバリゼーションのもと生じる人々の衝突状況にあって、善と悪とは何であるのか、何が求められているのか、参加者全員に思考を求めた。


石井剛氏(EAA副院長)

中島氏は、ここで古代ギリシア哲学の研究者である納富信留氏の議論をヒントに挙げた。ギリシア哲学にあっては2種類の『よい/よく』が語られる、「人生を『よく』生きる」に使われる「よく」は名詞というより副詞的である。「『よい』と『悪い』を名詞的に区別すると、他文化と交流する出口がなくなってしまう。しかし価値相対主義に陥っては、例えば子供を虐待することを我々は到底『価値』として認められない。科学の価値中立性については議論がある。副詞としての『よく』は、これらの局面を打開するヒントになるのではないか」。

人文学は役に立たないのか?

副詞としての『よく』を考えること。それは生きることにとって実際は欠かせない価値判断と向き合うことであり、人間にとっての人文学の存在意義を問うことであろう。「自分の専門である農業は人の活動。そのために人文学を知っておきたい」と言うリアクションに対し、前野氏は技術導入におけるコミュニケーションと人文知的な価値観の意義を肯定した。

次に石井氏が取り上げたのは、古代ローマ史に感心する学生からの歴史学に対する問いであった。例えば歴史家は100年前のスペイン風邪を研究するが、それは今回のパンデミックにとって何の意味があるのか。子供に歴史の意味を問われたらどう答えればいいか。これによって人文学的学問全体の存在意義を考えた。

崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)は、進学の道を選んだ頃の自分の心境を切り口にこの問いに答えた。自分が一番知りたいことは何か、それは社会にとって何の役に立つのか。「一つ言うとすれば、人文学という視点は少なくとも100年のスパンを心の中に持っている。自分がやっていることはすぐ役に立つことではないが、より長い時間の視野に立ってこの世界を俯瞰する、それが人文学の強みだ」と語った。

誰のための学なのか?

前の質問について、ある学生から次のような体験があげられた。彼によると、かつて中国の北京大学の学生と交流したことがあるが、深く印象に残った事が一つあるという。それは「目の前の瀕死のホームレスに歴史を教えるべきか」という命題に対し、北京大学の学生は教えるべきだと答え、歴史は「社会で生きていくために必須」なものと主張していたという。

これには3つの解釈が学生たちから示された。1つ目は社会の構成員にとっての歴史であり、社会を知るために歴史は必要だとする。例えば日本の場合ならば、憲法制定についての歴史は知っておくべきではないのか。2つ目は、中国の歴史書に見られる自国と世界の区分を例に、国や社会のあり方と歴史の関係を指摘すること。そこで生じるまたは生じてしまう国ごと社会ごとの違いの中に歴史学の価値があるのではないか。

第3の解釈は、社会にとっての有用性を人文学の存在意義にすること自体に対しての疑問であった。全てのものが社会にとって必要であるべきだと思わないし、有用性という基準から外れた人や物の「ポケット」となり、必要でなくとも個人を豊かにしてくれるもの、そのようなものとしての人文学があってもいいのではないか。

石井氏は一連の議論に対して、人文学は人間が生きていく中で重要な場面に現れるのではないかと、自分の考えを示した。何かを想像して進まなければならない時、きっかけとして役に立つのが人文学であり、この点では友情とも似ている。見知らぬ人びとと友情が出来た時、私たちは生きていく方法をも知るのだと。

これからの読書と人文学

講義の終わりには、大学時代における読書についての質問があった。とくに「小説を読むこと」へ意見を求められたのは中島氏であった。

中島氏は、概念が分かれば読める専門書と違い、作家が概念を構想していく小説を読むのは難しいと答えた。その上で、情報としての知識はもちろん重要だが、大学生活では異なる概念の作り方を経験してみてはどうか、様々なタイプの本を読むだけでなく、文字に限られない読書、映像や感覚による変容も重要であって、「学部時代にどこまで触れられるか、色々試して欲しい」と結んだ。


中島隆博氏(EAA院長)

最後の質問は、今年の学術フロンティア講義に登壇の講師陣の中で、脳科学を専門とする四本裕子氏は若干異色に感じるというものだった。石井氏によれば、これはEAAの主旨を示すもので、「脳科学は人文学と関係ない」と言われるような従来の人文学を続けるのではないこと、私たちの知的基礎およびディシプリン自体を考え直す理念を示している。さらにいえばEAAが冠する「東アジア」さえも言語や思考の出発点に過ぎない。「皆さんはディシプリンが形成される前、すなわち最先端にいる」のであって、本講義を通じ、人文学には何の意味があるのか、根本的な問いに揺さぶられ、たじろぐ経験をし、分かち合いたいのである。「来週から正規の授業、是非聴きにきてください」と告げて講義は締めくくられた。

張瀛子(EAAリサーチ・アシスタント)