10日後半の講義が王欽氏により引き続き行われた。後半の講義は、竹内好の「私たちの憲法感覚」(『世界』176号(1960年、岩波書店)。『竹内好全集』第9巻(1981年、筑摩書房)所収)というテクストを題材に行われた。講義のはじめ、参加者に対しこのテクストが好きであるか嫌いであるかが問いかけになかなか反応が出てこない中で繰り返し問われた。
続けて、「imposed by America」、すなわちアメリカによる押し付けということが強調された。決定権は日本国民にも日本政府にもなく、「外部」としてのアメリカにあった、そのようなドキュメントとして日本国憲法はある、「押し付けられたもの」、「私たちのもの」ではないものとして、それはあるということが示された。
では、そもそも「私たちの憲法感覚」とある「私たち」とはなにかが問題とされた。竹内はテクストの中では「平均の国民」としている。それは、法学的ないし政治学的に定義づけられ、正当化されたものではない。そのようなテクニカルなものではないものとしての「私たち」から竹内が出発していることが重要であるとされた。
また戦前の体制について触れ、そこには自由がなかったが、しかし、そのような枠があったからこそ、その枠の中において、なんとかして自由でありたいという念願があり、またそれがなんとかして表明されたのであるという、竹内の認識が示された。
ここで竹内好を中国に紹介した、『竹内好という問い』(2005年、岩波書店)の著者、孫歌氏も紹介された。
課題のテクストは短いが、実は難解であるという。また、竹内の行動は古い型で、1960年のこの時期に、まさにデモをやっていたような「戦後の人」からは理解されないものだった、世代間にはギャップがあり、また歴史的経験においてジェネレーションギャップがあったとされた。しかし、むしろ異なる世代、異質なグループによって「国民」が形成されるのが大事であるとされた。
また、竹内は法実証主義的な立場に対し、「クリティシズム」を発揮したのだと指摘された。憲法の字面が、つまり成文の憲法がいかに立派であっても、それが官僚の作文に過ぎないようでは仕方がないということである。
講義が一段落したところで、石井剛氏から「Constitution」をどのように理解するか、「憲法」という以外に日本語でなんと言うべきかという提議がなされ、参加者からは「この国のかたち」の案も出されたが、石井氏は「Body of the Nation」としての「国体」を取り上げ、その「国体」というものはディスコースであって、テクストではないとの指摘がなされた。
王欽氏は、Constitutionは法の基底にあるが、さらにその基底にあるのは、「事実」ではないのか、そうしてそれは「法的」なものではない、「not legal」であるとし、カールシュミットのいう「決断」について触れた。国民の国民たる所以は、国籍法に規定された要件による、というようなlegalなものではなくて、主権者としての自覚にある、ゆえに、国民の形成は一回的なものではなくて、日々繰り返されるものであるとした。
報告者:高原智史(EAAリサーチアシスタント)