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2020.02.18

ジャーナリズム研究会 第二回公開研究会

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2020年2月9日(日)14時30分より、駒場キャンパス4階コラボレーションルーム3にて、EAAの共催を受けたジャーナリズム研究会の第二回公開研究会が催された。

一人目の講師は、武田悠希氏(立命館大学他非常勤講師)である。本発表「複合的メディアとしての画報誌の行方――押川春浪の雑誌編集の活動から」は、明治末期~大正初期の押川発行の画報誌の特徴を検討し、雑誌編集者・押川の活動を考察する意欲的かつ充実した内容であった。
『海底軍艦』の刊行や冒険小説の雑誌寄稿から、明治・大正期の冒険小説家として評価された押川春浪。氏は、題目の「複合的メディア」という用語に触れ、押川が画報誌の発行を通して、視覚的・聴覚的(音声的)効果を含む雑誌の新しい可能性を考えたのではないかと推察し着想したと述べた。
先行研究紹介の後、押川が博文館に入社し、『日露戦争写真画報』主任記者として活動した1900-1904年(明治33-37年)頃は、近代出版文化の成長・発展期に当たると指摘された。1904年以降の押川の雑誌編集活動が、画報誌の表紙図版とともに時系列で紹介され、日露戦争期に画報誌が多数発行された背景として、日清戦争期に編目銅版印刷による写真掲載が可能になった点や日露戦争期に写真が出版物の重要な要素となった点が挙げられた。


つぎに博文館発行の『写真画報』と『冒険世界』を例に、誌面紹介とともに押川が編集した画報誌の特徴が考察された。『写真画報』には以下のような特徴があったという。①写真や絵画のページの充実、②家庭向けの読物の充実、③西洋の文学・文化・風俗との比較紹介を伴った都市文化の提示と批判・風刺。特に印刷技法や彩色にこだわった写真・挿絵の視覚効果と、講談や落語など口承文芸の活字化による音声的多様性、コマ絵や組み写真などの映像的効果を誌上で組み合わせた点から、押川が編集した雑誌は複合的メディアであったのではないかと主張した。
一方、『冒険世界』の特徴について、先行研究の引用とともに、紙面構成の斬新さや近代化に対する批判、対立軸としての「蛮カラ」(理想的な男性らしさや帝国主義の肯定)にあり、押川の思想が強く反映されたと総括した。その内容は、①世界各地を舞台とする冒険譚・海外旅行記・海外情報、②学生文化や学生スポーツを取り上げ、青年を取り巻く都市文化を批判した記事であった。氏は、多色刷りや草双紙風の誌面構成、挿絵を駆使した視覚的効果や合成写真の掲載で、非日常性を提示したと述べた。ただし合成写真については多数の読者から着想の奇抜さや理解の困難さを指摘されたという。氏は、『冒険世界』の特徴は『武侠世界』にも継承されていたのではないかと推測する。最後に、日露戦争後、写真掲載が一般的になった出版界で、複合的メディアとして雑誌の新たな可能性が模索された形跡を、押川編集の画報誌から読み取れるのではないかと強調して発表を終えた。

質疑応答では、日露戦争後の女性誌における画報誌や雑誌の商業化の成功への言及や、近世では視覚的表現による定期報道がなかった点、明治期〜大正期のグラフ雑誌の刊行形態との関連性も考慮すべきと指摘された。また、『婦人画報』や三越のPR雑誌を想起すると、押川の編集手法はさほど目新しくはなかっただろうとのコメントもあった。さらに合成写真は当時としては斬新なモダニズム的写真表現であり、同時代の『グラヒック』にも見られるという指摘もあった。その他、雑誌の歴史的研究の問題点の指摘、押川時代の誌面とポスト押川時代の誌面の比較が必要との助言、写真家・押川の活動や海外雑誌の受容、読者ニーズへの配慮の有無の質問やコメントがあった。氏は、読者層や読者の反応の変化に伴う誌面の特徴や内容の変化の有無、同時代の他誌との比較考察を今後の課題としたいと答えた。
10分間の休憩の後15時55分より、主宰者による簡単な紹介の後、東北大学の岡安儀之氏による発表「近代新聞の形成――福地源一郎とその周辺に注目して」が行われた。発表ではまず、明治初期のメディア状況は「官権派と民権派」「知識人向けの大新聞と庶民向けの小新聞」などの単純化した図式では捉えきれないと指摘、この点で、「御用記者」と分類されてきたゆえに(思想史)研究上軽視されてきた福地源一郎(櫻痴)の思想と活動について考察することが重要であるとの主張が示された。というのも、福地は、幕末における二度にわたる洋行体験から新聞紙(ニーウエス)の重要性に気付き、1868年(明治元年)に早くも、知識人層を意識した論説と庶民層を意識した振り仮名付きの文章と挿絵を掲載した『江湖新聞』を創刊していたからである。

続いて、明治ジャーナリズム史を再構築する上での一環として、福地や彼が深く関わった日報社の大新聞『東京日日新聞』(以下『東日』)の周辺に光を当てる考察が示された。自由民権運動の産声が聞かれた1874年(明治7年)、日報社に入った福地により紙面改革が決行され、新聞社の確固たる信念を打ち出す「社説」欄が常設化、新聞の党派性が前面に打ち出されるようになった。これが他紙にも大きく影響を与え、以後、「論説」の価値が浮上し、政論新聞の全盛期となったことが説明された。
近代的なメディアとしての新聞の特徴である「論説」を大新聞『東日』に導入する一方で、日報社は、近世的なメディアと親和性のある錦絵新聞(『東京日日新聞大錦』)や小新聞(『平仮名絵入新聞』)も刊行していた。日報社に関わった福地以外の人物に、戯作者・新聞経営者・小説家であった条野伝平がいる。条野の取り組みからは、激動の時代の中での試行錯誤がうかがえる。条野の周辺にいた戯作者や絵師は錦絵新聞や小新聞の発行にもかかわっており、この人脈から草創期の新聞を総合的に捉えられることが示唆された。最後は福地自身の思想と合わせ、日報社を洋学者と戯作者の結節点として捉えた上で、新たなジャーナリズム史を描く可能性が提示された。

フロアからは、まず、今回の発表で触れられていなかった先行研究の指摘がなされるとともに、『東日』と政府の関わり、福地の文体に関する思想とその実際の紙面への反映について質問が上がった。これに対し岡安氏は、福地の政府スポークスマンとしての在り方については今後の研究課題であり、また文体に関しては西南戦争以前の福地のテクストに試行錯誤の形跡が見られると述べた。また政治制度が未発達な段階での「論説」の役割・受容についても質問が上がり、これについて岡安氏は、新聞が投書家同士の論争を建設的なものにする司会者的な役割を持つことを指摘した言説を紹介され、また政治的訓練の場として受け入れられていったと回答された。また別の質問者は幕末維新期において文学などへの興味と政治的論説への興味が一人の人物の中で同居していた事例をもとに両者の関連性を問い、これに対しては福地においても同様の傾向がみられることを述べた上で、福地が両者の関連を考える上で重要な人物と考えられると回答した。最後に本研究会の主宰者・前島が、新聞の論説が大衆の政治的議論に対して抑圧的に働く可能性を指摘した上で、それについての福地の見解を質した。岡安氏は、論説が読者を操り、戦略的に議論を盛り上げたり冷却したりする役割を持つことについて、福地が自覚的であったと回答した。

今回は、視覚的表象を用いた報道的な定期刊行物の草創期である明治後期における作家兼編集者・押川春浪の編集ぶり、および、日本の近代的ジャーナリズムの揺籃期である明治前期の先駆的な新聞記者・福地源一郎とその周辺の活動という、いずれも領域横断的なアプローチによる研究発表だったが、聴衆の関心も、思想史、文学、美術、メディア史など多岐にわたっていたため、大変活発な議論が展開された。また、どちらの発表も日本の事例に関するものではあったが、そこで取り上げられた問題点を十分に考察するには同時代の欧米の事例についての知見も必要であることが、改めて実感される会であった。

松枝佳奈(東京大学大学院特任助教)

永嶋宗(東京大学大学院博士課程)

報告文監修:前島志保(総合文化研究科准教授)