2019年12月9日(月)、東京大学駒場キャンパスのEAAセミナー室にて、「世界人間学宣言」をテーマとした座談会が行われた。現在我々は、グローバリゼーション、テクノロジーの飛躍的な進歩、気候変動といった抜本的な変容に晒されている。「世界人間学(World Human Studies)」とは、こうした潮流を受動的に受け入れるのはなく、かといって保守的に現状維持を図るのでもない、新しい学問のフロンティアを創造する学芸(アーツ)の名である。これは、既存の世界秩序の更新を促すことを企図する、野心的な営みである。東京大学総合文化研究科および東洋文化研究所より、石井剛氏、太田邦史氏、武田将明氏、伊達聖伸氏、田辺明生氏、中島隆博氏、馬路智仁氏が参加し、多分野的な議論が繰り広げられた。
モデレーターである中島隆博氏の趣旨説明は、21世紀は「人間」という概念が問い直される時代であるという指摘から始まった。近代以来の人間中心的なヒューマニズムはすでに維持できなくなっており、同時に、グローバリゼーションは人間を取り巻く「世界」を大きく変化させている。このような状況を前に、「人間という概念を開いていく、地平としての世界」を描き出し、新たな学の運動を引き起こしたいという願いを語った。
最初の講演では、石井剛氏が、「世界人間学」を考える際に中国哲学から得られるヒントを模索した。まず、近代的な「自然/人為」の二項対立を、荀子と荘子の議論を引いて再考を試みた。「自然」は自生的・自発的なものでなく、人間の働きによって構築され、人為が盛んであるほど、そこには「文理」がある。「文」の反面は主に「野蛮」と理解される「野」である。しかし、「文」と「野」は互いに入れ替わる相対的関係であり、石井氏は、「野」には包括しきれないある種の「文」と「理」が混濁するカオティックな空間を「江湖」と称した。「文」と「野」が混じり合う場所からこそ、既存の秩序を覆す可能性が生起しうるのだと、石井氏は強調した。
続いての太田邦史氏の講演は、生命科学の視座から、これからの人間のあり方について、テクノロジー界の最新のポイントをもとに論じた。多様性は生命が生き残るために重要だが、人間が主な原因である生物の絶滅はそれを失わせてしまっている。AI技術や情報化は、命を含むすべてのものを数値化していくが、「人間」にとって、果たしてそれはいいのだろうか。ゲノム編集技術は、すでに人類による新しい生命体の創造を可能にしている。「人類はすでに神に達している。ここで立ち止まって、新しい人間学を構築するのは極めて重要である。」なお、石井剛氏の「江湖」による変容は理学的にも裏付けられ、「カオスの縁」に相応すると補足した。
三番目の田辺明生氏の講演は、「人新世(Anthropocene)」という概念のもとで「世界人間学」と「人間」の可能性を考えた。「人新世」は、近代以来の啓蒙主義・進歩主義が有効性を失い、人間が自身の生存基盤・自然や他者とのつながりを再認識する段階である。そこでは人間は孤立した「human being」ではなく、意識さらには情動レベルで他者と相互に影響しながら構造され、また構造していく「human co-becoming」なのだ。このようなつながりと相互関係性に着目し、人間と世界を結び直す新たな言葉を生む学芸(アーツ)が、世界人間学の目標だろうと論じた。
四番目の武田将明氏は、18世紀イギリス文学をもとに、近年注目を浴びている「世界文学」の歴史とその意味について講演した。史上最初の近代小説として知られる『ロビンソン・クルーソー』は、経験主義・個人主義に根付いたイングランド的なものでもあり、すなわち「国民文学」の端緒であった。ただし、ここで注意に値するのは、『ロビンソン・クルーソー』はグローバリズムの進展なしでは成立できないことである。近年、文学研究また文学そのものに対する悲観的な声が目立つが、それは実は国民文学を前提にした近代文学にとってであり、国家を超えた「世界文学」には通用しない。「近代文学・国民文学の、もとよりあった世界的な面に立ち戻り、文学を考え直す必要がある」と論じ、従来の精読に代わる「遠読(distant reading)」という手法を紹介した。
五番目の伊達聖伸氏は、フランス語圏の宗教学という視点から、世界人間学に自身の角度をつけて応えていった。フランスの人文社会学は、もとより英語中心主義のグローバリズムへの適用と対抗という性質を持っており、その中でも宗教と世俗というテーマに着目した。ライシテ(政教分離・世俗主義)は、宗教から自立した政治・社会のあり方、すなわち一つの「世俗的世界」を構築するシステムであったが、新しい人間観が展開し、「世俗」の意味が変容する現代では行き詰まりにぶつかっている。同時に、近代的な宗教概念も反省を促されており、この問題は、日本の近代と戦後にも通じている。柄谷行人の「世界宗教」を参照し、失敗を経験したゆえに可能性を持っている日本からのアプローチの可能性を提示した。
六番目の馬路智仁氏は、「既存のヨーロッパ政治思想史をどう語り直すか?」という自身の問題関心から議論を始めた。「人間学宣言」を読み、まず感じたのは、「グローバリゼーション」に代わるような世界観を凝縮する言葉の不在であった。これは、新しい世界像の構築に必要な、新しいカテゴリーが未だに創造されていないことを意味し、同様の問題は、ポストコロニアルな世界史・政治思想史の叙述方法をめぐる論争にも通じている。人間は「カテゴリー/集合名詞」を通じて「自分」を語る。しかし他方で、このような思考法はカテゴリーの枠内に閉じ込められてしまうという限界も持つ。「アイデンティティ」を完全に手放すことができないにしても、複数性をどのように書き込んでいくことができるか、ということが問われている。
最後の総合討論は、中島隆博氏が4時間ほどにわたる議論を貫通できる一つの概念を取り上げ、来場者全員の意見を求めた。それは、近代的な「私/プライベート」でなければ、「公/パブリック」でもない、「パーソナル」である。本質主義的にではない方法で、「このもの性」(「それ」が「それ」であること)について、どのように思考することができるか。「パーソナル」とは、「それ」が「それ」であることを語ろうとするときに、必然的に他者との関係性を語らざるを得なくなる場のことである。近代カトリックの「ペルソナリズム」、文学における人称の問題、政治参加の概念としての主体などについて、今回の討論全体を振り返りながら、この座談会で得られたある種の知的コンセンサスを再確認していった。終わりには、6名の講演者からコメントをもらい、今後、このような議論の機会がより多くなる願いを互いに語りながら、座談会を締めくくった。
報告者:張 瀛子(EAA RA)