2019年4月30日、第4回目の学術フロンティア講義が行われた。連休中にも拘わらず、多くの受講者が出席した。今回は、本講義のコーディネーターでもある石井剛氏(総合文化研究科教授)により、「『天下』なき時代の『天下』論と新しい世界観」と題した講義が行われた。
石井氏は、「世界史というのは疑わしい概念」、「人類は世界を世界とする境地に未だ至っていない」、「世界としての世界は未だ存在していない」という、ある人物(この人物が誰であるかは授業の中で後ほど明かされた)の発言を紹介しつつ、現在の国際連合について触れ、国連は世界政府ではなく、国際法も世界法とは言えないのではないか、という疑問を投げかけた。
さらに、「世界」を考えるにしても、「国家」中心の見方に我々はどうしても拘束されてしまうという限界が指摘された上で、「国家」とはなにかが問われた。ここで石井氏は、カントの「永遠平和のために」を参照した。カントによれば、自由な諸国家が連合することで、平和が保たれる。諸国家の連合は、世界共和国とは異なる。なぜなら、前者は、自由な諸国家の連合であり、上位に君臨する立法者は存在しないが、後者の場合は、上位の立法者が存在してしまうことになるからだ。それゆえ、諸国家の連合のもとには、依然として「国家」が残る。「国家」とは、自然環境の配備により、各民族は他民族と隣り合っていることに気づき、そうして内部で団結が促された結果構成されるものなのである。さらに石井氏は、章炳麟の『国家論』を挙げ、外敵から守るために国が必要、弱い国こそ「国」になる必要があると論じられたことに言及した。これに対しては儒学の立場から『大同書』を書いた康有為の批判があった。康有為は「国」より上の審級として「天下」がある、と主張した。章炳麟は辮髪を切り落とすことで、満州族の軛を脱し、漢族の主権を回復することを叫んだが、康有為は満州族へのプロテストよりも、共に政治改革を進めることで、共栄することを意図した。
そうして、冒頭の「世界としての世界は未だ存在していない」という発言の主が、現代中国の学者・趙汀陽氏だと紹介され、彼の「天下システム論」に話が及んだ。現代国際法ではソリッドな国境画定が必要とされるのに対し、これの代替案として、「天下システム論」は次のような世界を提示する。「天下システム論」においては、中心から同心円状に「文明」が薄らいでいくのであり、明確な国境画定は必要とされない。ただ、趙氏のこのような主張については、そこには中心に対する欲望があるのではないかという問題点もある(自由主義経済に基づく「ワシントンコンセンサス」に代わる「北京コンセンサス」の可能性というトピックも、ここに関連してくる)。
次に石井氏は、趙汀陽氏の主張より遡ること数十年、1946年に平岡武夫が『経書の成立』で展開した「天下的世界観」を参照した。平岡によれば、天は宗教的であるよりも政治的な概念であり、周代に増えてくる表現である。ここで「天」は訓詁学的には「民」と同じであり、「天」、「天命」とは、ルソー流にいえば一般意思である。周の君主は天子を名乗り、「天=民」によって自身を正統化したのだ。これにより、経学は「天子とはなにか、いかにあるべきか」を語る、正統性の根拠を論じる学問であるとされた。そうして「天」の下に秩序が保たれているのが「天下」であるという。かような「天下的世界観」の下に諸王朝が交替していくが、中華民国の登場によりそれが終わり、そのようななかで経学の権威も落ち、科挙は清末にすでに廃止されていた。中華「民」国においては、「民」が「天」の媒介なく、直接に民意を代表することになる。平岡は戦後の国際連合や国際軍事裁判を歓迎したという。というのも、そこに天下思想の復活を見たからだという。すなわち、国際軍事裁判は、人道(「民」)の名の下に「正義」が裁くものであり、そこには「天」と類似したもの、普遍的に正しいものが観念されるからである。
では、「天下」の中心はなにか。それを語らざるをえない。再び、趙汀陽氏による「天下的当代性」に立ち返り、天下の時代におけるその中心としての主権の問題についての議論がなされた。今日、もはや戦争の時代ではなく、戦争をすればすべてが滅びるため、覇権争いは他の形にとって替わられるのだ。ここで、内閣府によって提言された「Society5.0」、「第四次産業革命」が参照された。この提言の底流にあるのは、「IoT」、「AI」などの「サービス」である。ここで、「Service is Power」から毛沢東の「人民に服務(=Service)せよ」へと考察を進め、サービスが生み出す力の問題が議論された。では、「Society5.0」はむしろ共産主義の理想なのだろうか。この問題を解く鍵として、「ネット化する権力」が議論され、情報化社会において情報は誰が握っているのか、主権の問題はどうなるのかにつき問題提起がなされて、講義の本体は閉じられた。
受講生からは、「Service is Power」について、追加で説明が求められた。これに対し石井氏は、現状の、民主的な決定システムに代わり、快適なサービスを提供するものが民主的に支持され、権力化するのではないかという可能性を示唆した。さらに、サービスを提供する側が誰かに支配されているのではとの疑問に、石井氏は、そこでは一元的な支配関係が成立するかどうかが不明確であると応じ、サービス化する権力とは、どこに支配の中心があるか分からない、「ネット化する権力」であるとした。次いで、サイバー空間は「世界」の一部であるかとの質問がなされた。サイバー空間には「未知」があり、地球上が領域的にすべて把握されている現状、そこに「天下的世界」が成立する余地がある中で、「未知」なる、また「中心」のない、サイバー空間上に「自由」の余地があるのではないかとされた。
今回は講義途中から活発に発言が飛び交い、講義終了後の討論も特に活発であった。こうして、古代中国から現代のサイバー空間にまで至る今回の講義は閉じられた。
報告者:高原智史(EAAリサーチ・アシスタント)
学生からのコメントペーパー 一つの疑問に直面した。サービスが大きな力を持っていくにつれて、天の中心がどこなのか分からなくなっていったときに、人々が不服な事態に追い込まれたら、人々は革命を起こすことが可能なのかどうかといことだ。現在の社会では政府という目に見えるものが存在しているが、サービスを提供することがメインとなったインビジブルな政府に対してもサービスの利用を拒否し、先生が仰った「沈黙都市」の結末のように山に逃げるしかないのだろうか。それともサービスがこの上なく充実しており、人々はそのような革命の意思すら持たなくなるのだろうか。頭をフル回転させる授業で非常に良い意味で疲れました。(文Ⅱ・1年) 「天下」を、現代の社会に応用しようとする中国哲学の世界の奥深さ、面白さを感じることができ、有意義な時間でした。(中略)多様化する世界の中で国家や集団、個人の利害を調整する存在を否定するつもりはありませんが、それを「天下」と呼ぶならば、中心をめぐる(不毛な)戦いが生まれ、やがて国際社会は立ちゆかなくなる(そうではないにせよ、非合理的な部分にエネルギーがさかれる)ように思います。(文Ⅰ・1年) 自国第一主義が強まりを見せる中、30年後の世界はどうなっているだろう、と考えると国連中心の天下がバラバラと崩れていってしまうか、それとも新たに中心的な役割を担う人々が現れてくるかのいずれかであると思う。自分は前者が可能性としては高いと思う。(中略)もはや国際協調自体が不可能なフェーズ、各国の欲求を等しく満たす解決策がありえないフェーズへの突入していく気がする。こうしていくつかの文明が互いに比較的浅い関係を保ちつつ独立して併存する古代のような世界のあり方に戻る気がする。(文Ⅱ・1年) 中立的に世界の中心となれる存在など現実的できないように思える。(文Ⅰ・1年) これまでの自分は、主権国家体制を、言ってみれば永続的な構造のように、無意識に思っていた。しかし従来と異なり、インターネットにより全ての人が直接に関わることのできる世界においては、「天下」を治める世界政府のようなものが成立しうるのであり、それが一体何になるのかを意識するのは必要なことなのだろうと痛感した。(文Ⅲ・2年) サービス本位の社会は、古代中国における理想が個々の欲望に入れかわったようなもので、ある種理想郷のようでディストピア的な可能性を孕んでいると感じた。(理Ⅰ・2年) |