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2019.11.08

EAA「中国近現代文学研究会」第二回

2019年度秋学期EAA中国近現代文学研究会の第二回イベントは11月7日に本郷キャンパス・赤門総合研究棟で行われた。今回のディスカッションは、何浩「『創業史』と建国初期の創業史」、程凱「『創業史』前史」、何翔「『柳青随筆録』によって『創業史』における愛情物語を再論する」、劉卓「対象化されず、独立性を保つ」の四つの論文を対象として最近の「社会史的視野」という研究アプローチによって行われる柳青研究を検討した。

まず、王欽(東京大学東アジア芸文書院特任講師)は何浩の論文を例にとって論じた。何浩の論文が典型としているのは、「社会史的視野」が文学分析へ背景を提供しながら、実質的な部分は相変わらず伝統的テクスト分析にほかならない、ということである、と王は判断した。問題意識のレベルでいうと、何浩の郭振山という人物に対しての分析は、まさに文学的テクストと非文学的テクストとの差異を浮き彫りにして、『創業史』の文学としての独立性を強調した。何浩の文章は「性気」を出発点と終着点に置いたが、「性気」はあまり人物像の分析にかかわっていない。何浩と対照すると、何翔の論文は言語的・技術的セッティングが如何に小説の構築で役立つかということを典型的に露呈させる、と王は言った。王柳は、「社会史的視野」が歴史的現場へ帰るキッカケになるかもしれないが、テクストの読解はあくまで現代の読者の問題意識次第だから、「社会史的視野」は中文系の研究にとって外部的なものに過ぎないと言ってもいい、と述べた。趙君は、程凱の論文はほとんど『創業史』とかかわらないと指摘した。というわけで、「社会史的視野」は文学とよっぽど密接していない。しかも、程凱の提起した特殊経験と柳青の創作の関係もはっきりでないのみならず、『創業史』がいままで議論されている所以は、「社会史的視野」的読解が強調しているものではない、と王は言った。

鈴木将久(東京大学人文社会系研究科教授)は、何浩の論文は明らかにいわゆる「心身構築」を体現している、と強調した。つまり、人々の行動と思想に動力をつけるのは人間関係である。もし「心身構築」に関しての関心がなければ、郭振山をもちゃんと把握しえない。程凱の論文は政策のレベルに重点を置くものの、それはあくまで『創業史』を分析する前の準備だから、『創業史』を読解すればきっと「心身構造」を強調するであろう、と鈴木は述べた。一方で、劉卓の処理しようとするのは、文学的テクストと非文学的テクストの関係であり、「社会史的視野」の要も文学と歴史の関係にあるので、彼女が言おうとするのは、「背景」と「前景」の関係の多様性らしい。劉卓と程凱は、ふたりとも社会学的な「口述史」から距離を保とうとしているようである、と鈴木は結論した。

裴亮(武漢大学文学院准教授)によると、この四つの論文は柳青『創業史』を仲介として、歴史的実在と歴史的経験と歴史的表現の間の関係を検討している。劉卓の言及した「反思性」は、柳青への読解の前提を読者に伝えている:つまり、柳青は自分を対象化しながらも、自分の独立性を保っている、と裴は言った。何翔の論文は『創業史』についての論争を取り組んでいる。他方で、何浩は「社会史」の意識をもっているが、作家経験とテクスト分析に頼りながら論考を行っている。程凱の論文は、あたかも「沈没的劇」のように、より豊富的に「社会史的視野」によっての史料扱いを露呈している、と裴は述べた。しかし、むしろ問題になるのは、もう一歩進めば、つまり、「心身構造」に関する歴史的資料に基づき、歴史的実在と審美まで突き詰めてゆけば、どういう結論が出されるか、ということである。それと関連して、いわゆる「新中国の歴史的経験」のような文章が示しているように、全体的な歴史的視野は果たしてありえるか、と裴は疑問も呈した。

次回のディスカッションは、11月28日に行われる予定である。

王欽(EAA特任講師)