2019年10月21日、納富信留教授(東京大学大学院人文社会系研究科)の発案で、東京大学東アジア藝文書院の主催により、国立台湾大学哲学系教授の佐藤将之氏を招いた講演会「明治日本における「中国哲学」――学問領域の誕生」が、東京大学文学部哲学研究室にて行われた。今回の講演では、佐藤氏は明治期における「中国哲学」という学問領域の成立や、それを捉える近代日本思想史の方法論の見直しを論じるとともに、「中国哲学」の誕生や近代中国知識人の成立を考える上で、井上円了がキーパーソンになることを強調した。以下、その内容を詳述する。
佐藤氏はまず19世紀半ばから20世紀の日本における古代中国思想研究を三つの時期に区分することを提案した。その区分によれば、第一期(1860年代~1910年代)において、伝統的な漢学の土壌に西洋哲学のディシプリンが加わることで、「中国哲学(支那哲学)」という学問分野が成立し、次いで第二期(1920年代~1945年)には、中国哲学(支那哲学)に反発する形で、文献研究を重視する「支那学」が誕生し、両者が併存することになったと捉えられる。そして、第三期(1945年~1998年)においては、戦前・戦中期に対する反省から、文献思想史学を核とするネオ支那学派が隆盛したとされる。
こうした思潮の変化を捉えるにあたり、佐藤氏は丸山真男の日本政治思想史研究を引き合いに出しつつ、近代日本が西洋的学問を受容したことにより、「漢学的世界観が別の世界観に取って代わった」と捉えるパラダイム論的発想には限界があると指摘する。そのうえで、「哲学のディシプリンを受容することで、かえって伝統的な世界観が強化された」と捉える新たな見方を提案し、さらにそれが近代日本における国民道徳論や東亜協同体論を解明する手がかりになりうると示唆した。
続けて、佐藤氏は第一期に焦点を当て、加藤弘之、フェノロサ、井上哲次郎、島田重礼、井上円了を取り上げながら、学問領域としての「中国哲学」の成立事情を探ることを試みた。その中では次の5点が特に強調された。(a)加藤弘之が創設まもない東京大学文学部の教育方針について指導的な役割を果たしたこと。(b)フェノロサが哲学または社会学を講義する中で、「中国哲学的発展」という主題を取り上げたこと。(c)哲学科第一期生の井上哲次郎が卒業後、「東洋哲学史」講義を行ったこと。(d)島田重礼が初の中国哲学の通史を講義したこと。(e)井上円了が自ら出版した哲学の通史において、中国哲学の位置づけを明示するとともに、中国哲学を主題とした学術論文を書いたこと。佐藤氏によれば、こうした一連の動きの結果として、1910年代に儒教における「性」の問題が哲学の問題になり、孔子が聖人から哲学者になったことが、中国哲学の成立の上で画期的だったと見ることができるという。
これに関して、佐藤氏はさらに二つの興味深い事実を付け加える。一つは、フェノロサによる古代中国哲学の学派区分の仕方と、井上円了による孔子・老子の対照の仕方が似ていることである。この事実は、フェノロサの講義が、円了による中国哲学の体系的な把握に何らかの影響を与えた可能性があることを示唆している。もう一つは、円了がその著作を通して、蔡元培、梁啓超、康有為、章炳麟ら近代中国知識人の啓蒙運動に影響を与えていたことである。実際、当時円了の著作のいくつかが、中国知識人の手で中国語に翻訳されている。また、佐藤氏によれば、円了『星界想遊記』と康有為『大同書』には類似が見られるという。
最後に、佐藤氏は「中国哲学」という学問領域の形成のおける井上円了のこうした開拓的役割の重要性を強調し、1時間半の講演を結んだ。
講演後には質疑応答が行われ、井上哲次郎や井上円了の漢学の素養、アカデミズム内外における井上円了の影響、国内外での井上哲次郎による東洋哲学史の受け止められ方の差などに関して、活発な議論がなされた。哲学、中国思想、宗教学など、多分野の研究者が大いに刺激を受けた講演会となった。
笠松和也(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)