2019年度秋学期のEAA読書会「文学と共同体の思想」の第三回は、10月29日に東京大学本郷キャンパス・EAA本郷オフィス(東洋文化研究所208号室)にて行われた。今回読まれたのは酒井直樹 Translation and Subjectivity:On Japan and cultural nationalism(University of Minnesota Press, 1997)の第4章「Subject and/or Sbutai and the Inscription of Cultural Difference」と第5章「Modernity and Its Critique: The Problem of Universalism and Particularism」である。議論の導入として本テクストを選択した佐藤麻貴氏が概要や自身の疑問を提示し、それに応答する形で議論が進められた。
まず第4章「Subject and/or Sbutai and the Inscription of Cultural Difference」に関しては、酒井が何を念頭に置きながらこれを書いていたのかという問いから始まった。マーク・ロバーツ氏は、本テクストは北米で東アジア学を専攻している者に向けて書かれているのではと考えた。研究は常に何かしらの対象を持って初めて成立するものであるが、その対象と如何なる関係を結ぶかでその研究に差異が生じる。北米で、あるいは英語などを主言語とする者がアジアを研究する際、対象となるものは言語的に大きくことなるものであり、自らとは異なるものとして対象との一定の距離感を生じさせやすくなる。酒井は「ピエール・プルデューが『客観的な・客観化する観察者というあらかじめ割り振られ承認された位置』と呼ぶものを問い続ける必要がある」(p.118)と言っているように、北米においてアジア研究に従事する者にとって、単なる観察者としてアジアを見るにとどまるのではなく、自己と対象の距離、対象への関与の度合いを常に問題にすることの必要性を主張している。これに対して佐藤麻貴氏は、酒井自身は如何なる立場でアジアを論じているのかを問題とした。酒井自身は東アジアを一つの軸足としているが、同時に西洋からの視点も常に意識している。Subject・主体・シュタイが論じられる中で、酒井自身のアジアとの関与の度合いを考えることの必要性が提起された。これはアジア研究という枠にとどまらず、新しい形の地域研究にも関わってくる問題である。
続いて問題となったのは、第4章で存在感を放っている和辻哲郎に関する議論である。酒井は、和辻は帝国主義には反対しながらも、実は帝国主義的な観察者の立場から日本の風土論や中国を論じてしまっていると批判する。和辻の著作は英語にも翻訳され、多くの読者を獲得している。しかし、和辻の関心はあくまで日本人或いは日本国としての同一性を他国との差異の記述によって明らかにしようとした点にあり、佐藤氏は今日において和辻を、とりわけアメリカの研究者がこれを読むことにどれだけの意味があるのか疑問を提示した。ロバーツ氏は和辻の問題設定には確かに問題もあるが、倫理学などにおける彼の成果については肯定的な評価も可能だと述べた。
また酒井直樹の文章の書き方についても議論になった。本書中ではJ.S.ミル、ピエール・ブルデュー、ホミ・バーバ、リオタール、ジャン=リュック・ナンシー、ラカンなどの様々な人物の言葉や議論が引用されている。これが酒井の文章を面白くもしており、同時に難解なものにもしている。王欽氏はとりわけラカンを引用している点に注目した。精神分析を主とするラカンをアジア研究の文脈で語ることは非常に酒井の特徴が現れており、ここにおいて酒井が脱歴史的な語りへの試みを見いだせると王氏は読んでいる。また八幡さくら氏は、酒井直樹の議論の面白さを認めた上で、これを受けた私たちは如何にして彼の議論を語るか、或いは哲学研究やアジア研究において酒井の議論を如何に吸収するかを考える必要があると述べた。
時間の関係もあり、第5章「Modernity and Its Critique: The Problem of Universalism and Particularism」についてはあまり議論に長い時間を費やせなかった。胡藤氏は本章は議論の面白さもあるが、それ以上に近代や普遍性、特殊性等をめぐる様々な言説を考える上で、その全体像を俯瞰するのに非常に有用であると述べた。また佐藤氏は本章で語られる高坂正顕が語る「有的普遍」と「無的普遍」が良くわからないという疑問を抱いていたが、建部良平氏は酒井直樹『死産される日本語・日本人』(新曜社、1996年)所収の「自己陶酔としての天皇制:アメリカで読む天皇制論議」にて批判されている、「東洋の無対西洋の有」という図式のことを指しているのではとコメントした。
第5章の末尾では竹内好の魯迅論が取り上げられている。そこで議論されるのは抵抗と解放、そして希望と絶望である。抵抗とは如何なるものなのか。魯迅―竹内による重要な問いかけが酒井によって語られている。非常に読解の難しい箇所であるが、それでもある種の仕方で魯迅・竹内・酒井の三者はいずれも未来について真剣に考えている。文学と共同体の今後について考える本読書会にとって、非常に示唆的な意味を持っている。
報告者:建部良平(EAA RA)