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2019.08.28

シンポジウム「世界哲学としての中国哲学」

2019 年 7 月 7 日(日)、中国社会文化学会 2019年度大会の2日目のイベントとして、シンポジウム「世界哲学としての中国哲学」が東京大学文学部1番大教室にて開催された。本シンポジウムは地域哲学としての中国哲学を問い直し、世界哲学の一翼を担うものとして再定義する試みを検討することを目的し、中島隆博氏(東京大学、EAA副院長、中国社会文化学会理事長)の企画で実現された。当日は中国哲学をより広い文脈に置いて考え続けてきた二人の基調講演者、そして各報告者がそれぞれの研究分野から、地域研究としての中国哲学を乗り越える視座を提供し、討論を行った。
午前の部では、総合司会を務める中島隆博氏が企画趣旨の説明をした後、李晨陽氏(南洋理工大学)と張志強氏(中国社会科学院)が基調講演を行った。その際、納富信留氏(東京大学)と石田正人氏(ハワイ大学)がコメンテーターを務めた。

 

李晨陽氏は、“Chinese Philosophy as World Philosophy”という表題において、「世界哲学としての中国哲学」を儒教や道教に見いだされる哲学を地理的文化的表象とせず、世界的舞台において位置づけようというものであり、李氏の報告の焦点はこちらにある。李氏は中国哲学の世界化の必要性を指摘した上に、そのためには比較哲学的手法が有効であるとした。すなわち、比較かつ構築主義の仕方により概念化することが必要だということである。この点は哲学と歴史の関係という、非常に複雑な議論とつながり、李氏は中国哲学の「天下」という概念をめぐる近年の歴史側と哲学側の論争を批判的に論じながら、世界哲学としての中国哲学も、歴史との関係の中でそれと異なる哲学の特性とその役割を見出すことが重要であると指摘した。
続けて、張志強氏による「中国哲学のチャンスと哲学の歴史性」についての報告がなされた。張氏は、葉秀山の『哲学的希望』(2019)を出発点としながら、中国に哲学はあるのかという問題を提示した。十数年前に中国哲学界で起きた中国哲学の合法性をめぐる討論の結論は、中国に西洋的な意味での哲学はないということだった。しかし現在では、西洋現代哲学、特に時間性の認識によって、哲学的な方法は中国的原理を改変しないという立場からいわゆる中国哲学を語ることができるようになっている。これはまさに哲学の「歴史性」の現前である。張氏は中国哲学と西洋哲学はともに同じ問題に取り組み、統一されうるものであると主張した。
コメンテーターの納富氏からは、以前「世界哲学としての日本哲学」というシンポジウムに参加した経験から、現在従来の一つの枠組みを超えて領域横断的・総合的哲学の試みがなされていることと、その中で西洋哲学と中国哲学が有意義な比較対象になっていくことが述べられた。その例として「和」をめぐる西洋哲学と中国哲学との議論について質問があった。もう一人のコメンテーターの石田氏からは、両氏がそれぞれ「儒家」の立場と「道家」の立場から中国哲学を捉えられていると述べられた。続いて、中国哲学が経済大国を背後にして成長していくとすれば、中国哲学の内在的価値とは何かという疑問が提示された。哲学と歴史の関係においても、ヘーゲルの歴史論と比較して、その独自性への批判的考察が必要であるとの指摘がなされた。

 

午後の部では石井剛氏(東京大学)、井川義次氏(筑波大学)、志野好伸氏(明治大学)、朝倉友海氏(神戸市外国語大学)が個別報告を行った。
第一に、石井剛氏により「世界文献学から見た清代哲学の「言語論的転回」」を題して報告がなされた。石井氏は、世界哲学としての中国哲学を考える際に、中国哲学はそのままでは世界哲学になれない、まず「解体」と「再構築」の過程が前提になるべきだと論じた。この過程に一つの参照点になりうるのが世界文献学からみた清代哲学(〈一般には清代考証学とされる〉清代考証学)である。石井氏によれば、清代においての「考証学」(ベンジャミン・エルマンによるとPhilology=文献学)には、中国哲学のディスコースが世界と出会ったことによって生まれた文学のディスコースが反映されている。石井氏はこのことを清代における音韻学など「言語論的転回」を通して考察した。
第二に、井川義次氏は、「儒教を媒介とするヨーロッパ・日本・中国の近代化」という表題において、近代ヨーロッパ理性の形成に中国思想が大きな役割を果たしていたということを当時の文献資料を参照しながら報告した。日本・中国が学び取る対象とした西洋近代思想は、実はイエズス会士らキリスト教宣教師によって報告された新世界、すなわち日本・中国からの情報を吸収しながら形成されたものである。このことをライプニッツやヴォルフの思想を中心に考察することで解明した。哲学の運動というものを公平に見るには、また、世界哲学を考える際には、西から東への影響のみならず、逆の方向も見るべきであると、井川氏は述べた。
第三に、「論理学者にとっての中国哲学―金岳霖、沈有鼎を中心に」を題とした志野好伸氏の発表が行われた。志野氏は、世界哲学としての中国哲学を考える場合には西洋哲学と異なるタイプの中国哲学、さらに中国だけで閉じた哲学ではなくて、普遍的な哲学に貢献しうる哲学が想定されるとし、論理学者である金岳霖(1895-1984)と沈有鼎(1908-1989)を取り上げ、中国的ではない中国哲学の検討を試みた。志野氏によると、金岳霖の哲学は「中国哲学であって、中国における哲学ではない」と評価され、例えば、「情」という中国の伝統思想であっても、その中に「日常生活の世界、「この世界」、全人格が関わる元学、ソクラテス的な哲学、「彩のある世界」が見出され、世界哲学としての可能性を持っている。同じく、沈有鼎の哲学においても「超歴史的」の議論が取り上げられた。
最後に、朝倉友海氏による「東アジア哲学の理念と牟宗三」という表題の発表が行われた。朝倉氏は、中国哲学を世界哲学へと考える際には「媒介」が必要で、「媒介」となるのは「東アジア哲学」という考え方ではないのかとし、それを牟宗三を通して論じた。朝倉氏によると、牟宗三は、新儒家やカント主義者というイメージがあるが、実はラッセルの影響を除いて論じるのは難しい。これは、牟宗三を東アジアの論理分析家、論理に立脚した哲学者であるとして捉えられる根拠を提供する。牟宗三は論理というのは普遍的なものであり、科学や数理のような外延的普遍性と文学や芸術のような内包性普遍性を指摘したと朝倉氏は述べた。このような論理への関心は、(現在は非主流派であるが)日本の初期の西田哲学にも発見され、両者から東アジア思想を背景とした論理的・存在論的考察への貢献が共通点として見られると、朝倉氏は指摘し、中国哲学と世界哲学を媒介する東アジア哲学の可能性を論じた。

 

総合討論においては、もう一度、哲学と歴史との関係、中国の台頭という国際秩序と中国哲学の関係、比較哲学として東アジア哲学の重要性などが取り上げられた。「世界哲学」とは何か、必要か、というそもそも論に対して、納富氏が指摘したように、「世界哲学」を繰り返し捉え続けることで、「世界哲学」の意味、その独自な枠組み、役割がより具体化していくのではないか。その意味で「中国哲学」と「世界哲学」、そして「世界哲学としての中国哲学」についての時間と場所の軸を超える幅広いかつ深い議論ができた非常に有意義な一日のシンポジウムであった。

報告者:具裕珍(特任助教)犬塚悠(特任研究員)