2019年9月2日(月)、東洋文化研究所第一会議室にて、EAA Forum Recent Past & Remote Past、直訳すれば「近い過去と遠い過去」が開催された。過去時制の複数性を想起させるこの企画は、中島隆博氏(東京大学)とのYujie Zhu氏(オーストラリア国立大学)、Yu Zou氏(重慶大学)のこれまでの交流があって実現したものである。
午前中には、どのように東アジアにおいて新しい人文学のプラットフォームが作れるかについて、ブレイン・ストーミングが行われた。活動を書籍シリーズ化して風景を可視化する話から、教員学生の双方の学究のためのレジデンスの理想についてアイディアが交換された。自由闊達な時間であったが、根幹にあったのは、「普遍性(universality)」の再建をめぐる現場の率直な声である。新しさを生み出してゆくと同時に、どのように「クラシックス」を繰り返し読みつづけられるのか? このような問いをめぐり、デリダの「条件なき大学」やドゥルーズの「反復」概念も参照しつつ、“Chinese literature” を“Chineseliterature”とするように、言葉をコンパウンドすることでその存在そのものの自明さが揺り動かされる境地を生み出す可能性が語られた。
昼食と散歩のあと、フォーラムは14時からはじまった。
まず、Zhu氏が「どのように現代中国はその過去を記憶することができるだろうか?」と題した発表を行った。David Laowenthal, The Past as a Foreign Country (1999)を導入とし、王朝交代に伴う文化遺産の創造と破壊の歴史を確認したあと、「遠い過去」については、複数の土地において中国の起源であることが主張されるなか、過去の扱いにヒエラルキーが生じている状況が、「近い過去」については、植民地時代、革命期、日中戦争、災害をめぐる異なる状況が整理された。発表後は、個人的記憶や集合的記憶の区別や、トラウマの克服可能性について質問があがり、「過去」がドメスティックになってゆくことや、国際政治の影響が指摘された。
つづいて、八幡さくら氏(東京大学)が「シェリング芸術哲学からみる芸術における新しい神話」と題した発表を行った。シェリングは、理想的なギリシア神話の時代から時を隔てた自分自身の同時代のために、新しい神話が必要であると主張し、ゲーテをはじめとする詩人の文学作品を神話と呼んで評価していたことが整理された。そして、神話が断片化した19世紀の危機と現代とが類似していることが指摘された。フロアからは、それでもなお現代に神話は必要なのか、相対主義の外にどのように出ることができるのか、偶然性の問題があるのではないか、といった質問があがった。
コーヒー・ブレークのあと、Zou氏が「近代の道徳説得:胡適と『終身大事』」と題した発表を行った。1919年に発表された胡適の小戯曲がどのような仕方で重要であるのかについて、中国の戯曲史における口語文学の出現とともに、とりわけ半植民地主義の視点からたどり直された。そして、そのような伝統的でも西洋的でもない近代性と、最初の白話作品の男性中心主義からの脱出の新規性が、シェイクスピアをはじめとする戯曲翻案の歴史も組み込んだひとつの文学史として描き出された。
最後に、中島氏が、「古代中国と前近代日本における古の表象:荀子読解」と題した発表を行った。平野啓一郎氏の小説『ある男』(2018)に描かれる戸籍交換のモチーフを例として、人はどのようにして過去に向き合うことができるのかと問いかけた。その上で、丸山眞男の荻生徂徠の理解は誤読とされているが、じつは、天と人を区別する視点を導入し、後王もまた「遠い過去」であるはずの先代の王とおなじ「近い過去」であると考えた荀子とおなじことを考えている、という構図がしめされた。
その後、参加者が一言ずつ、神話で神話を乗り越えることはできないのではないか、世代によって依拠する理論に差異がある、といったコメントをし、つづけてゆくことの重要性が確認された。そして、中島氏が今後のフォーラムの課題として「未来の過去(future’s past)」という言葉を投げかけ、フォーラムを締め括った。
報告者が振り返って思うのは、「リモート(remote)」という英語は、「リモート・コントローラー(遠隔操作機)」のように、空間的な遠さもまた意味することである。フォーラム後、遠く離れ、ばらばらになったわたしたちは、どのようにつながりをたもちながら思考をつづけてゆくのだろうか。すでに、今回の発表者たちの問題意識も受け、EAA内では、新しい企画やリーディング・グループが動き出そうとしている。どのような形でおたがいの思考をもちよって再会できるか、楽しみである。
報告:髙山花子(EAA特任研究員)