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2019.08.20

第24回夏期教育セミナー

8月17、8日、長野県松本市の旧制高等学校記念館に隣接する「あがたの森文化会館」にて開催された「第24回夏期教育セミナー」に、EAAから特任研究員の宇野とRAの高原が参加してきましたので、ご報告します。

その前に、本セミナーへの参加の経緯について説明させていただきます。EAAの駒場オフィスを構えている駒場キャンパスの101号館は、かつて第一高等学校の特設予科及び高等科として、中国から留学生を迎えていた校舎でした。このような縁から、東京大学と北京大学が共同で学生の教育に取り組むEAAの前史として位置付けるべく、一高特設予科・高等科に関するプロジェクトを発足するに至りました。本プロジェクトでは、今後一高に関する展示や研究・調査活動を継続して行っていく予定です。今回の旧制高等学校に関する「夏期セミナー」への参加も、この一高に関するプロジェクトの一環として位置付けられるものです。

 

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セミナーの会場となった「あがたの森文化会館」は、旧制高等学校である松本高等学校の校舎で、建物の角の部分に正面玄関が設置された大正時代らしい開放的な造りの木造建築である。「あがたの森」の名称は、松本高等学校設立当時、校舎の周囲に植えられたヒマラヤ杉が成長し、森のようになったことに由来するという。

(旧制松本高等学校の校舎であった「あがたの森文化会館」の正面)

今年で24回目を迎える「夏期教育セミナー」は、研究者・教職者のみならず、旧制高校卒業者・市民が共に「学び」について意見を交わす場として運営されてきた。今年のテーマは、特に明確に設定されたわけではなかったが、緩やかには「寮生活」であったように思われる。旧制高校といえば「学生寮」というほど両者の結びつきは強い。今回は三世代にわたる思誠寮生が語ってくださった当時の貴重な体験談も含め、学生の生活や内面、また、それらを取り巻く学校の景観・モニュメント、さらに教育制度的な側面に至るまで多岐にわたる濃密な議論が交わされ、充実した会となった。

 

一日目は、渡邉匡一氏(信州大学)による「旧制松本高等学校関係資料の活用と電子アーカイブ構築への提言」と題された基調講演から始まった。その主な内容は、旧制松本高等学校関係資料の活用と電子アーカイブ構築への提言であった。旧制松本高校は、大正8年(1919)に、ナンバースクールに次ぐ全国で九番目の高等学校として開校され、昭和25年(1950)に廃止された。渡邉氏は、旧制松本高校校舎である「あがたの森文化会館」に隣接する「旧制高等学校記念館」に所蔵される松本高等学校関係資料群から、旧制松本高校の「思誠寮」における学生たちの生活面や内面について窺える資料を紹介した。特に興味深かったのは、当時の『図書原簿』が残されているという話である。これにより当時の図書室の本棚を再現したいが、古い学校の校舎の取り壊しが進んだため、当時の雰囲気を醸すような木製の本棚がなかなか見つからないのだという。また『寮生日誌』には戦時期の寮生の心中が綴られる一方で、「回覧」の性質上、本心を見せにくい側面があったようである。一方で、クラス誌など内輪の気を許せる仲間たちの間では、例外的にではあったが戦争反対を打ち明けた場合もあったと述べられた。さらに、松本高等学校100周年を記念し、旧制高等学校記念館、日本文学分野、大学史料センターの共催で「松本人名録」を作成・展示したことが紹介され、今後この「人名録」を中核として「松高人物アーカイブ」を構築する構想について提言された。

 

続けて、「思誠寮の青春――旧制松本高校~信州大学3世代の体験談を通じて」と題された記念イベントでは、旧制松本高校及び信州大学の寮、思誠寮の寮生三世代に亘る三名から当時の寮の状況が語られた。

一人目は1950年に旧制松本高校を卒業した、松本高校としては最後の卒業生。当時、松本高校の寮は一年生のための寮で、その後の複数の学年が混在する寮とは違ったものだったと述べられた。戦時中の寮の雰囲気について、「人生二十三年、少尉に任官して戦死、二階級特進で、大尉になって死ぬ」というものから、戦後、「己を高めるため、敵ではなく己と戦う」というものへと移り変わっていった様が語られ、二つの時代を象徴する二つの寮歌の音源を流された。また寮内でゲゼルシャフト主義とゲマインシャフト主義、すなわち個人主義と家族主義、集団主義との対立があったことについても触れられた。

二人目は、1981年信州大学卒業生。当時から持ち上がっていた大学側からの廃寮政策、寮のアパート化について語られた。年二回の部屋替えでは、寮委員は苦労があるから5点、食堂に近いなどの利便性に応じて3点、2点など元の部屋に点数がつき、その持ち点に応じて新しい部屋の希望が通るか否かが決まるのだという。また、住みたい部屋がある場合には期限までに「アタック」する必要があるなど、興味深い内実を話された。

三人目は2017年信州大学大学院修了生。寮には学部4年生の時に入寮した。移転、建て替え後の寮生活で、新しい寮は食堂がなく自炊で一人部屋であったという。他方、今でもやり方は異なってもストームが行われているなど共通点も多くあった。

三者三様、寮時代の苦労と楽しさが存分に語られたパートであった。

 

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二日目は、研究者による研究発表会が三つのセッションに分かれて行われた。

第一部は、富田ゆり氏(学習院大学史料館)による「旧制松本高等学校時代における辻邦夫の創作――寮雑誌「思誠」・日記『園生』を視座として」と題された文学的観点からの報告であった。辻邦夫は旧制松本高校に昭和19年から昭和24年まで5年間在学したが、その在学中の昭和20年、戦前の寮雑誌『思誠』に小説「遠い園生」を発表した。辻の極初期の創作としてはこの作品が唯一とされ、〈原点〉とみなされてきたが、近年、学習院大学資料館が所蔵する辻邦夫資料から、旧制松本高校時代に書かれた辻の日記が発見され、辻が当時いくつもの創作や文芸に関する活動を行っていたことが具体的に見えてきたという。とりわけ寮雑誌『思誠』第23号と『園生』と題された日記を対照する中で、戦時下の辻の創作が、留年により勤労動員を免れて寮に残るも、学校は機能せず、〈永遠の夏休み〉ともいうべき真空状態の中で生み出されたという従来の見方に対し、それを覆すような創作態度が明らかになった。一日目に寮生によって語られた寮歌「遠征」の作曲者・田中惇氏は辻の友人であったが、勤労動員中に肺炎で急死した。その追悼文を1945年刊行の『思誠』23号に書いた人物こそ辻であったこと、その出版のために奔走したことも日記から明らかにし、辻が自身を含む寮生のために、戦時下に創作の力をもって厳しい現実に向き合おうとしていたことを指摘した。

 

続いて第二部は、谷本宗生氏(大東文化大学)と田中智子氏(早稲田大学大学史資料センター)の発表であった。第二高等学校と第四高等学校における教育と学生生活についての発表で、それぞれ「旧制高等学校の教育システムと教育方針―第四高等学校長横淵進馬と第二高等学校長阿刀田令造を事例として」、「第二高等学校および第四高等学校の「校風」と学生生活」と題された。旧制高校のありようについて、前者は学校ないし教師の側から、後者は学生の側からアプローチしたものといえる。谷本氏は阿刀田につき、自身が帝大時代にいた近角常観の求道学舎での寮生活が彼の教育方針に強く影響していると指摘した。田中氏は第四高等学校の校風「超然主義」を紹介し、社会の弊風から離れ、我が道を行きつつ、同時に社会を指導することを目するものとされた。これと関連して、社会主義の学生運動や戦争に伴う寮自治の廃止の問題が論じられた。続いて第二高等学校につき、「雄大剛健」の校風が言われ、阿刀田が唱えた「和衷協同」や戦中には「日本精神」(反面、「衰弱」への排撃)が相俟って、第二高等学校の「雄大剛健」の校風が作られたと述べられた。

 

最後のセッションにあたる第三部は、「一高校長時代の狩野亨吉――教養学部前史として――」と題されたパネルであった。はじめに、折茂克哉氏(東京大学駒場博物館)が、これまで駒場博物館を中心として東京大学教養学部前史として位置付けられる一高関連資料のアーカイブ化を進めてきた経緯と今後の資料活用の必要性や意義を述べられた上で、そのケーススタディとして各発表者の取り組みについて紹介された。

続いて、田村隆氏(東京大学)が「明治30年代の一高」と題し、近年本パネルのメンバーの科研にて進められている明治30年代に第一高等学校長であった狩野亨吉に関する調査の概況を話された。田村氏は、狩野亨吉校長時代の出来事として、清国留学生の受け入れ開始や寮歌「嗚呼玉杯」、また漱石の着任などに触れ、一高の旧蔵書について、主に昨年度駒場図書館で開催された展示「駒場の古典籍」(ダウンロード可)での成果についても紹介された。さらに一高の外国人教師プッチールとアリヴェールの銅像について、それが描かれた絵葉書や写った写真などを参照しながら当時の位置関係を復元し、こうした手がかりに目を凝らすことが当時の状況を把握する一つの有効な手立てとなること、また学内に残されたモニュメントの重要性について言及された。最後に、1号館南東の角に現在も立っている一高のシンボルの一つであるオリーブの木について、その保全の必要性を強調された。

二人目の発表者である丹羽みさと氏(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)は、「狩野亨吉と旧制一高医学部」と題し、千葉にあった一高医学部について発表された。駒場美術博物館の一高関連資料の整理を進めてこられた丹羽氏は、駒場美術博物館に当時の貴重な資料が残されていることについて述べられた上で、今回は狩野亨吉時代の一高医学部に関する貴重な資料を紹介された。特に狩野亨吉の校長として様々な場面における対応に着目され、狩野校長が教員を連れ立って振天府(皇居内、日清戦争の戦勝記念品を収納する建物)を訪れた出来事などについて、現在駒場図書館に収蔵されている書簡から丁寧に読み取り、当時の状況について解説された。

最後に、川下俊文氏(東京大学)が「第二臨時教員養成所――一高における教員養成」と題し、一高に付設されていた第二臨時教員養成所について発表された。臨時教員養成所は高等師範学校だけでは足りなかった中等教員養成のため、大学や高等学校などに設置されたものであるが、臨時ということで需給調節が利き、物的施設、教師を大学、高等学校で使い回すことで低コストを実現するものとされた。一高についても、時間割を示して、一高教授が臨時教員養成所でも授業をしている様が示された。

(二日目、第三セッションの様子)

 

全体討議では、旧制高校に関する資料が膨大に残っているにもかかわらず、現在十分に認知されているとはいえない点について、今後どのように具体的に周知し、また活用していけばよいか意見が交わされた。今回、旧制高校資料群は、教育史、学校史のみならず、文学・思想研究などの分野にも十分資するものであり、今後より学際的な研究の場として展開させていく必要性が共通の見通しとして得られたように思われる。さらに学内に残るシンボル樹木やモニュメントのような文化資源の保全の問題や資料のアーカイブ化に伴う公開・非公開の問題などについても話し合われた。

以上、二日間のセミナーを通して感じたのは、研究者だけではなく、旧制高校卒業生や市民が参加する、より開かれた場として継続されてきたことの意義であった。立場の異なる方々が自由に意見を言い合える空気は、一朝一夕で作れるものではない。そして、全体で共有されていたのは、この旧制高校の資料を今後どのように活かしていくか、という問題意識である。それは単に研究資源としてのみならず、よりよい教育や未来に向かっていくための資源としてどのように引き継ぎ、活用していくか、という思いである。今回、何度も耳にした「学都」たる松本の地に根付いているという「学び」を尊ぶ思いの深さや熱意に触れた思いがした。

(報告者・高原智史・宇野瑞木)